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マイナンバー考 『「昭和」を送る』

6月2日の参議院本会議で、マイナンバーカードと健康保険証の一体化や、マイナンバーの利用範囲の拡大などを盛り込むことに関連した法律の改正法が可決・成立した。これによって従来の健康保健証は来年秋に廃止され、マイナンバーカードに取って代わられる。個人的には2016年のマイナンバーカード発行から比較的早い時期にカードを取得し、翌年か翌々年の確定申告から利用している。と言っても、確定申告以外には住民票の類の書類をコンビニで出力するのに使ったことがあるだけだ。それが健康保険証となると使用頻度は少し違うものになるだろう。

このところ、マイナンバーカードに他人の情報が紐付けされたとか、他人の顔写真が貼られたものが交付されたとか、家族全員の分に一つの公金受け取り銀行口座が指定されている、といった事案が報じられている。おそらく、発行の現場で、諸々の事務手続きの管理や手順が確定する前に、事務執行を始めてしまったのだろう。縦割り組織に、位置付けや権限が不明確な外部の自称「権力者」組織から、現場に対する理解の無い依頼や指示が舞い込んだことの当然の帰結のように見える。

そもそも、どのような意図の下で「マイナンバー」というものが発想されたのか本当のところは知らないが、国民ひとりひとりに番号を振り、所得や貯蓄を漏れなく把握することで、お上が税金を取りっぱぐれないようにしたいのだろう、と勝手に思っている。その証拠に、真っ先にマイナンバーの提出を求めてきたのは、給与の支払い元である勤務先とその給与が振り込まれる金融機関だ。もちろん、世の中には給与生活者以外の人も大勢いる。しかし、圧倒的大多数は企業などに雇用されている。

5年ごとに実施される総務省の就業構造基本調査というものがある。直近のものは2017年10月1日現在のデータをまとめたもので、2018年7月13日に公表されている。おそらく、来月には2022年のデータに基づいたものが公表されるのだろう。現在の日本の場合は5年程度のスパンではそれほど大きく変化はしないだろうから、2017年の統計でも大差はあるまい。この統計によると、2017年現在では、15歳以上人口が110,976,700人、うち有業者が66,213,000人、さらにそのうち自営業主は5,617,100人、家族従業者が1,221,400人で、雇用者は59,208,100人だ。有業者の89.4%を企業などに雇用されている人が占めている。この国では社会人といえば、ほぼ給与生活者なのである。

マイナンバーが健康保険と繋がることで、医療機関の利用頻度と利用内容がマイナンバー管理者に把握され、一枚のカード、あるいは、ひとつのID番号でひとりの人間の経済面の情報と健康面の情報が統合可能となる。身分証明の実務としては、本人確認という或る時間断面でのその人の社会的状態を示すもので、利用者の立場としても利便性が高いものだと言える。

しかし、本当の狙いは或る時間断面での状況把握もさることながら、各人の過去の様々な実績を蓄積した履歴記録からそれぞれの現況と将来を予測し、実際の現況と予測した現況との差異の分析によって予測精度を向上させると共に、管理する側の都合を最大限に良くすること、のような気がする。管理される側を「生かさぬように、殺さぬように」ギリギリの線を見極めて課税をしたり、福祉を実施したりするのに都合が良いということだ。

勝手な妄想だが、これら統合された情報を管理する側からすれば、所得や貯蓄にまつわる履歴記録と健康面の変化を組み合わせることで、向こう何年かの納税能力を予測することができる、かもしれない。要するに、どれくらいの期間、就業可能な程度に健康で、いくらくらい納税できそうか、という予測だ。さらに、ここにクレジットカードの利用履歴を組み合わせることができれば、消費性向とか趣味嗜好の類も推測できるだろう。そうした趣味娯楽の類にはやや無理をしてでも消費支出がなされる傾向がある。その傾向をデータとして把握しておくことは課税対象の選択に都合が良い。また、消費支出の急変があれば、ライフイベントの生起についても推測ができよう。そうした推測を、その後の住民票や戸籍の異動、所得の変化で検証し、予測精度は制度の長期化に従って向上する。

「予測」とか「推測」と言っても、特定の個人や組織の仕事ではなく、いわゆる「IT」だの「AI」だのといった機械装置で瞬時に計算可能だ。しかも、こちらの方は日進月歩というか秒進分歩というか、どんどん進歩する。人間の方はそういうものに象徴される方面の進歩のおかげで、自分の頭や手足を使わなくなるので、どんどん退化する。管理する側が進歩して、管理される側が退化するので、管理はますます容易になる。バラ色の未来が広がっている。

未来をどうこう描くというのは、我々人間社会のリーダーシップの問題だ。例えば政治家は国民の「代表者」であって、政治家の力量や素行はその国民の集団としての象徴でもある。国会議員に当選しながら一度も国会に当院せず、アラブの方にお住まいの方が、先日晴れて凱旋帰国されたようだが、ああいうのも特定個人の特異な問題ではなく、我々全国民の何事かの象徴である。

我々ホモサピエンスが誕生して20万年ほどだそうだ。この間、脳容量はほとんど変わらず、いわば同じハードをソフトの更新によって使い続けて今日に至っている。いつどこでやらかしたのか知らないが、我々はいつかの時点からソフトの更新に失敗を重ねている気がする。地球誕生以来、出現した生物種の99%が絶滅したそうだが、例外というものは多分無いのだろう。

ふと思い出したのだが、2015年の「第15回 有老協シルバー川柳」入選作に

マイナンバーナンマイダーと聴き違え

沢登清一郎 男性 山梨県 67歳 自営業
公益社団法人全国有料老人ホーム協会

というのがあり、なんだか妙に記憶にこびりついている。南無阿弥陀仏。

というわけで、本のことに一言も触れずにここまで来てしまった。せっかくなので、少し関係ありそうなところを引用して終わりにする。

 リーダーシップというのは、一種の集団現象だ。そもそもボトムアップかトップダウンかなどと言う以前に、情報の特徴を忘れてはならない。情報は、必ず時遅れのものである。事態が発生して、それを記述して、それから上のほうへと伝えられていく。そうするなかで、情報の形は変わっていく。
 上層部が情報を収集する間にもどんどんその実態からは遅れていくという状況を補うものは、想像力である。(略)ただ、考えれば考えるほど情報というものは遅れていくし不正確なものになっていく。
 トップダウンはリーダーシップであるかのように思っているきらいがあるけれども、ただのトップダウンは独裁である。リーダーシップというのは、そう単純なことではなく、おそらく七、八人のチームワークがうまくいったときにできるような、小集団現象だと私は思う。そういう小集団が形成されるかどうか、そして絶えず自分を新しくしていくことができるかどうかが、リーダーが成果を上げるかどうかにつがなる。

172-173頁「戦争から、神戸から」

 ヒトには、サナギからチョウになるようなすごい変化はない。ヒトのオトナは、ゴリラやチンパンジーのオトナよりもそのコドモに似ている。私たちは、広いサル世界では一生コドモオトナであるわけだ。

153頁「思春期親密関係における暴力に思春期以前から始めて接近する」

 生後一年は胎児なみの急成長で、一年後に急にゆるやかになる。ポルトマンはこれをみてヒトのコドモはみな「生理的」早産児であるという。大きな頭が産道を通れるようにだ。だから特に満一年までは無条件の安全感(守られ感)を実感することが重要だ。むきだしの孤独体験は不幸である。孤独を逃れるためには、DVも、いやもっと奴隷的な悪条件にもコドモは耐える。

154頁「思春期親密関係における暴力に思春期以前から始めて接近する」

 一般に弱者は考えに考える。どうしていじめられるのか、どうして教室で疎外されるのか、どうして父なり母なりがあんな言葉を吐いたのか、どうして自分が病気になったのかと。どうして、どうして、どうして、である。そして、この時期に、自分以外の人間にも自分と同じ心があると気づく。コドモが立てる最大の仮説で「心の理論」という。
 「心の理論」は、コドモの秘密を尊重することによって育つ。「これは親にも先生にもいわないからね」と言えば、絶対にこの約束を守らねばならない。あるいはコドモに知らせて、この範囲を守らねばならない。学校社会は、警察も裁判官もなく、一つ間違うと無法地帯になる。責任だけを追求するオトナはコドモの信頼も尊敬もかちえない。
 ここからオトナのことばを使う三者関係が始まる。それまでは白か黒か、勝ち組と負け組、イジメ組とイジメラレ組と二者関係である。三者関係の成立からが「社会」、すなわちオトナの関係である。
 ここで初めてコドモは「自分」という領域を内部に持てる。ここでできる思春期以前の小集団は「競争と協力と妥協」の練習である。特に妥協「折り合い」がもっとも重要である。ここで「仲間」ができる。妥協は現実との妥協、自分との妥協にも進む。

155頁「思春期親密関係における暴力に思春期以前から始めて接近する」

 規制緩和の時代は、機会の平等がうたわれ、終身雇用が「社畜」と軽蔑され、貯蓄が嘲笑され、起業と投資を善として初等教育でどういうものかを教えようということにまでなった。しかし、機会の平等は建前であって、機会の多くは努力と共に文字通りチャンス、すなわち偶然によって巡ってきたり来なかったりする。人生が千年であれば、コインを何百回も投げるように、機会は平等に近づくかもしれないが、人生は機会平等を実現するには短すぎる。起業に成功するのは始める人の何分の一であろうか。

289頁「ワーク・ライフ・バランス」

 労働形態から医療まで、グローバリゼーションがとなえられた時代もあった。それは世界を米国基準にすることである。しかし、米国は移民の国である。チャンスを求めて集まった人たちの国である。信仰と思想の自由を求めた人もあるだろうが、生活のために、あるいは生き延びるために、地理的移動に訴えた人たちの集まりである。例外は先住民と黒人である。
 これに対して、日本は「一所懸命」という言葉が「一つ所に命を懸ける」という意味である通りである。これは遺伝学的な差にまでなっているらしい。「新奇追求遺伝子」(novelty-seeking gene)の相違である。この遺伝子は、引っ越しを頻繁にする人たちを調べて発見されたそうであるが、二対四個の文字で書かれている遺伝暗号が、この遺伝子の場合、繰り返し部分が最高で八つで、八つに近いほど新規探求性が高いそうである。「アメリカン・モビリティ」(アメリカ人の引っ越し好き)という言葉があるくらい、アメリカ人はしきりに引っ越しをする。職も換え、配偶者も換える。
 これに対して、日本人には、人生設計に「亡命」という選択肢を想定している人はほとんどゼロであろう。これは、実は世界的に珍しいことで、おそらく、新奇追求遺伝子の持ち主は鎖国の直前に、どっと海外に出ていったのではあるまいか。しかし、日本町が残らなかったことをみると、亡命は成功したとはいいにくい。われわれの大部分はこの島を選んだのでなく生まれついたのである。

290-291頁「ワーク・ライフ・バランス」

 四十九日に私は招かれた。お坊様はどうして四十九日ですかねと問われる。私は、たぶん、緊張持続の限界ではないですかねと答えた。四、五〇日目にはベテランの下士官が「どうにでもなれ」と銃を捨てて敵弾に身をさらすこともあったという「戦闘消耗」のことを思い合わせたのである。自己激励の限界である。神戸の震災の時、私が念頭において急性期の頑張りの限度とした、それである。

64頁「在宅緩和ケアに関与する」

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