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大江健三郎 『沖縄ノート』 岩波新書

先日、丸善で岩波新書の『沖縄』を買う時に、たまたま目についたので一緒に買った。もともと小説はあまり読まないので大江の作品も『死者の奢り』くらいしか読んだことがなかった。こういう文章を書く人だったのかと、少し新鮮な思いがした。こういう文章を読むのは苦手だ。

私は本書で言うところの典型的な「本土」の人間だ。先日、『沖縄』の方でも書いたが、私は沖縄というものを何も知らない。自分が何も知らないということも知らなかった。その先日の記事に、福島の原発事故を機に、福島の風下にあたる地域で暮らす環境問題に敏感な系の人々の中に、沖縄方面へ移住した人がいた、と書いた。本書を読んで米軍基地がいわゆる放射能と無縁では無いことに気付いて「ん?」と思った。原発関連の環境問題を気にして沖縄に移住するのは無意味ではないか。基地には核兵器が配備されているし、何よりも米軍が使用する港には原子力潜水艦が出入りしている。原潜は冷却水を垂れ流して航行しており、現に沖縄の海の線量は高めらしい。原潜に限らず原子炉を動力源とする艦船は冷却水の出し入れが必要だ。米軍の基地があるというのは、要するにそういうことだ。

ちなみに横須賀を母港とする米海軍第七艦隊の空母「ロナルド・レーガン」は原子力船だ。東日本大震災の時はトモダチ作戦で大変世話になった。尤も、あちらの軍隊の方も放射性環境下での作戦という戦略上貴重な体験ができたとの評価があったらしい。

1995年1月に発生した阪神淡路の震災以前、関西には大きな地震がなかった。私の身の回りの同世代の関西出身者が異口同音に言うことに、東京は地震があるから嫌だ、というものがあった。彼等は進学や就職で東京で暮らすようになるまで地震を経験したことがなかったというのである。しかし、そう言っていられたのはあの地震が発生するまでのことだった。もちろん過去に関西に大きな地震がなかったわけではない。私の同世代がたまたま経験していなかっただけのことだ。日本列島はプレートの辺縁に位置するので、日本のどこにいようと地震、火山の噴火、津波などの地べたが動く災難から逃れることはできないのである。

地震と同列に扱ってよいのか、とは思うものの、原子力関連のリスクも今や逃れようがない。発電所だけに限定しても、日本には今現在57基の原子炉があり、3基の原子炉が建設中だ。この57基の中には廃止が決定して廃炉作業中のもの24基が含まれている。原子炉はたとえ廃炉になったとしても、跡地を更地にしてマンションやショッピングセンターを建てるというわけにはいかない。何十年だか何百年だか知らないが、熱りが冷めるまでオカミが管理するのだろう。青森の六ヶ所村にある核再処理施設を見学した時、高濃度廃棄物は300年間地下10mで中間貯蔵すると聞いた。最終的な処理は300年後に考えるということだろう。

確かに日本の電力会社の中で、唯一、沖縄電力だけが原発を運用していない。しかし、そのことは先に述べた事情から、沖縄が原子力系のリスクと無縁であることを意味しない。

なんだかんだ言っても、原発は自分たちの政府、自分たち自身がどうこうする問題だ。厄介なのは、自分たちだけではどうすることもできない他所の軍事施設だ。戦争に負けたのだから、勝った側がぶん取って好きに使うのは致し方ない。世情として、過去の戦争を語るものがどこか被害者面をしたものばかりのようになるのは、記憶の浄化作用の自然なのかもしれないが、個人的には釈然としない。苦難を味わった人が大勢いたのは事実だろうが、他所の国の大勢の人たちに苦難を味合わせたのも事実だ。片方だけを恨めしく語り続けるというのは、人としてどうなのだろう。我々はそういう国民なのかもしれないし、人というものがそういう生き物なのかもしれない。

ところで、本書には次のような記述がある。

 アイヒマンの処刑とドイツの青年たちの罪障感の相関についてハンナ・アーレントがいっているように、実際は何も悪いことをしていないときにあえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる、きれいごとだ。しかし、本当に罪責を認めて、そのうえで悔いることは、苦しく気のめいる行為である。沖縄とそこに住む人々への罪障感にも、その二種がある。いったん自分の日本人としての本質にかかわった実際の罪責を見出すまで、沖縄とそこに住む人々にむかってつき進んだあと、われわれが自分のなかに認める、暗い底なしの渦巻きは、気のめいる苦しいものだ。
91頁

アイヒマンというのは、ナチス親衛隊員でユダヤ人移送局長を務め、ホロコーストに深く関与したアドルフ・アイヒマンのことである。彼は逃亡先のアルゼンチンでイスラエル諜報特務庁(モサド)に拘束され、イスラエルで裁判を受け1962年に死刑となった。その公判において彼が語ったされる「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」との言葉は有名だ。

ハンナ・アーレントはドイツ出身の哲学者でユダヤ人だ。ドイツでナチズムが台頭した時にアメリカへ亡命した。本書でのアーレントに関する記述で大江は具体的な出典を明記していない。アーレントの著作は日本語版も多数出版されている。

私は20代の頃、ドイツのダッハウ強制収容所跡を訪れたことがある。そのことは以前に書いた。しかし未だかつて沖縄以外の戦跡を訪れたことがない。仕事で南京に行ったことはあるのだが、空港とホテルと訪問先以外の場所を訪れる余裕は無かった。私は直接に戦火を経験したことはないが、その傷跡を感じながら育った昭和の人間だ。本書のようなもの、情緒的な綺麗事を善人面して書き綴ったようなものを読むと気が滅入って苦しくなる。私はこういう文章を読むのは苦手だ。

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