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比嘉春潮・霜多正次・新里恵二 『沖縄』 岩波新書

青版の限定復刻。初版は1963年1月25日発行なので、執筆されたのは私が生まれた1962年だろう。予て「岩波書店の新刊」の5月号に5月20日発売との広告が出ていて読みたいと思っていたので、発売日に仕事の帰りに職場近くの丸善丸の内本店に寄って購入。先日は東京国立博物館で開催されている「沖縄復帰50周年記念特別展 琉球」を見学してきた。本書を読んで、また、琉球展を観て、日本人として60年も生きてきたのに沖縄のことを何も知らない自分に愕然とした。

一度だけ沖縄に行ったことがある。大学時代最後の冬休みのことだ。友人に誘われたのである。彼のおじさんが沖縄で戦死したのだそうだ。それで、おじさんの名前が刻まれているはずの「平和のいしじ」を見に行きたいという。私の方は沖縄に縁が無いが、沖縄という場所やあの戦争に興味がないわけではなかったので、付き合うことにした。今となってはどこをどう歩いたのか記憶がほとんど無いのだが、コールデンウィーク中に家の中の整理をしていたら、その時に持ち帰った旧海軍司令部壕のチラシ、首里の玉陵たまうどうんのチラシ、全日空機内誌「翼の王国」年末特別号(昭和59年12月1日発行)が出てきた。それらを眺めながら、そういえば観光客は少なかったが、戦跡めぐりの観光バスにはそれなりに客が乗っていたことを思い出した。摩文仁の丘にある平和の礎には戦没者の名前が出身地の都道府県ごとに刻まれている。彼は熊本県の石碑におじさんの名前を見つけることができて嬉しそうだった。楽しい旅行であったことは間違いないのだが、戦跡めぐりであった所為もあり、私の沖縄に対する印象はただ重いものになった。

思い起こせば、小学校3年生の時に同級生になり、仲の良かった高塚君は奄美大島の出身だった。しかし、子供同士の付き合いに戦争だの戦後の同島での米国施政権だのが話題になるはずもなく、それで私が沖縄を意識するきっかけにはならなかった。沖縄復帰の1972年当時は小学校4年生で、その当時のそのくらいの子供が当たり前にするように記念切手を収集していた。当然、沖縄復帰ほどの大きな出来事ともなれば記念切手は発行され、今も手元に何枚か残っている。

時は下って、陶芸を始めてから闇雲に美術館や博物館を訪れるようになった。陶芸の先生にとにかくいろいろなものを見てくるようにと言われたので、とにかく何でも見た。それが40代後半以降だ。いろいろ見ているうちに民芸と神社仏閣に興味が向かい今日に至っている。琉球の文物は日本民藝館で自分にとってはすっかり馴染になっていた、つもりでいた。柳宗悦が書いたものも何冊も何回も読んで、柳が琉球の民芸品や文化に高い評価を与えていることも知っているつもりだった。ところが、本書に次のような記述があって、あっ、と思った。

 とくに沖縄では、政府=県庁の方針として、琉球独自の風習や言語など、生活様式のいっさいを大急ぎで本土化=皇民化することが要請されていたから、沖縄を忘れることはむしろ奨励されていたのである。
 一九四〇年(昭和一九年)、民芸協会の柳宗悦らの一行が沖縄にいって、そのような県庁の政策を批判したために、柳は検挙されて裁判所で訊問をうけたことがある。彼らは、講演会などで、琉球文化の貴重な価値を賞揚し、県民に自らの伝統文化を尊重するよう訴えたのだが、それが県当局の忌諱にふれたのだった。県の学務部は、さいしょ柳らにたいする公開状を新聞に発表して、柳らの意見は沖縄文化にたいする無責任なエキゾチズムであって、そのような「趣味人の玩弄的態度」は沖縄県民をまどわし、立派な日本国民を育成する所以でないとして、とくに標準語励行運動が行きすぎであるという柳らの意見を反駁したのだった。

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柳をはじめとする民藝の人々が団体で戦前に何度か沖縄を訪れ、焼き物や着物その他民俗資料の類を収集したのは知っている。しかし、そこで検挙されたことは知らなかった。

それよりも何よりも本書の冒頭の記述でいきなり衝撃を受けた。事細かに引用はしないが、一章の「日本のなかの沖縄」で紹介されている「本土」の人々の沖縄に対する認識の奇怪とも呼べるような珍妙さには、それが本土と沖縄との往来が今と比べて不自由であった本書執筆の1962年当時のことであることを勘案しても、驚かされるのである。日本の政治家が沖縄で日本語が通じるのかと尋ねたとか、首相経験者が「沖縄の土人」という表現を使ったとか、沖縄であろうと他の日本の土地についてであろうと正確に認識していなければならない立場の人々が沖縄に対する無知を曝け出している。そうした責任ある立場の人であってもそうなのだから、市井の人々の沖縄への認識は推してしるべしだ。日本のある評論家が本土の市井の人々に沖縄についてインタビューしたところ、沖縄の場所を知らない、沖縄の人々が人種的に日本人とは異なっていると思っている、琉球方言は日本語ではないと認識している、そんな答えが多かったという。まさか、今はそのようなことは無いだろうが、本当に沖縄が日本の他の地域と同等に一般に認識されているのかどうかは知らない。

そういえば、立川談志が参議院議員のとき、沖縄開発庁政務次官を1ヶ月ちょいだけ務めた。1975年の年末から翌年の年初にかけてのことだ。議員一期目のタレント議員がたとえ名誉職であるとしても沖縄の行政と関連する省庁の政務次官に任命されるということ自体に日本政府の沖縄に対する姿勢の何事かが表れていると思うのだが、本当はどうだったのだろう。

それでは、なぜ沖縄が日本であって日本ではない特殊な位置付けをされるようになったのか。本書を読む限り、それは近世における日中関係と江戸時代の幕藩体制と鎖国政策が深く関係しているように見える。さらに、欧州列強やキリスト教会の権力闘争や航海技術の発展も考慮に入れる必要がある。

14世紀末から16世紀にかけて、琉球王国は日本とも明とも外交関係があり、琉球の外港である那覇港には日本、中国、朝鮮はもとより、東南アジアや南洋の国々の船も出入りしていた。琉球は仲介貿易で繁栄していたようだ。16世紀に入ると、ポルトガルやスペインが東洋に進出するようになり、東南アジアから極東に至る貿易は琉球の独壇場ではなくなってしまう。やがて16世紀半ばには琉球を基点とする南海貿易は途絶え、琉球の貿易での繁栄は翳りを見せるようになった。

そうした中、16世紀終わりに秀吉の朝鮮出兵が行われる。秀吉は島津義久を介して琉球の尚寧王に朝鮮侵略のための出兵を命じる。しかし、この出兵命令は義久の取りなしで兵糧調達命令に変えられた。それでも琉球はこれを拒否。義久の弟で初代薩摩藩主となる家久が、この兵糧調達命令拒否をはじめとする琉球の「無礼」を理由とする琉球征伐の許可を徳川家康から得る。1609年にこの許可に基づいて薩摩藩は琉球を征服した。

徳川幕府はまだ鎖国を行なっていないが、薩摩の琉球征服と同じ1609年に西国大名に対し五百石積以上の船を没収し、実質的な貿易独占政策を発動。また、秀吉の朝鮮出兵により、明のほうも日本との貿易を禁じていた。しかし、琉球が明との貿易で利益を得ていたことを薩摩が見逃すはずはなく、薩摩は琉球を実質的支配下に置きながら薩摩とは別建の国として明をはじめとする海外との交易の受け皿とすることになる。薩摩は鎖国以前に鎖国の抜け道を確保したといえる。しかし、このことは琉球の地位が国のような薩摩の一部であるような、あやふやなものになることも意味している。このあたりのことが、その後の琉球・沖縄の困難な状況につながっているように見えるのである。

今の沖縄あるいは沖縄に暮らす人々が、どのような問題を抱えているのか私は知らない。少なくとも、こちらから沖縄に行くのに何の障害もない。事実、東日本震災で福島の原発があんなことになったのを機に、環境問題に敏感な人たちが首都圏から沖縄へ移住したケースを身近にいくつか聞いている。逆に、本土で暮らす沖縄出身者もたくさんいるだろう。まして、かつてに比べれば、ネットにさえ繋がれば就業可能な仕事も多くなった。そうした流れの中で、本書に記されているような沖縄の人々への不当な扱いが過去のことになっているのを願わずにはいられない。

念の為断っておくが、本書の記述が正確な事実に基づいているのかどうかは知らない。しかし、些細なことが重大な差別などにつながることは歴史が示すところでもある。

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