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露天風呂でのひとコマ 第884話・6.26

「いやあ、いい湯だなあ、本当に良い湯加減」「ふん、そんなのんきなことを言って良いのか!」その瞬間、空気が突然凍ってしまった。
 ここはある天然温泉の露天風呂、湯気が立ち込めるゆったりとする場所なのに、くつろぎに来たはずの男のひとりの言葉には、その隣にいた人はもちろん周囲にいた人たちも凍らせている。

 だが、お湯の温かさはそんな凍った空気を和らいでくれるのか、やがて言われた隣の人以外は元のゆったりした空気に戻る。隣の人はうつむいたまま、それ以降何も語らない。そして凍り付く一言を言った男も語ることがなかった。

「全く温泉の露天風呂にきてあれじゃあねえ」一部始終を見ていた俺は心の中でつぶやく。彼らとの距離は2・3メートルだろうか?もう少し離れていたらそんなこと全然気にせずに露天風呂の温泉でぼんやりできたのに、彼らのせいで台無しの気分。それだけならいい。
 だけどほかの人はもう気にしていないのに、なぜか俺は気になった。このふたりがこれからどうなるかを......。

 五分くらい眺めていたが、見事にあれからふたりが会話する様子は一切ない。うつむいた方もそうではなく威張っていそうな方も、湯に浸かりながらも体は小刻に動かしている。
 うつむいている方は、相変わらず頭を垂れてうつむいてはいる。だけど視線は湯の面に向かって居るようで、そこで微妙に視線を動かしているようだ。「何かいるのか?」俺は気になって湯面を見てみる。湯面からは常に湯気が出ているが、それ以外に虫のようなものは何も入っていない。ただ、風が強いとときおり落ち葉が入ってくるが、それは露天風呂だから仕方がないだろう。

 もう一度うつむいている方を見るが、そのあたりに落ち葉があるように思えない。「ま、いいか」次に俺は威張っている方を見る。そちらは視線が斜め上方向に向いていて、目を上下左右に動かしているように見えた。もちろん目が本当に動いているか確かめているのではなく、その瞬きと言うか瞼の動き、少しだけ動く首あたりを見てそう勝手に思うだけだ。

 でもお互い一切語らないばかりか目を合わせずじまい。「あのふたり喧嘩しているのかなあ?」俺はいろいろなことを推測していたが、ここでこの体制への限界を感じだす。
「ちょっと湯に入りすぎたかな」俺は肩まで使っていたから立ち上がり、露天風呂の岩の上に座った。ここなら腰から下は湯に入っているが、その上は湯から出ている。長時間湯に入れる体制。俺はもう目の前のふたりの動きがどうなるか気になって仕方がないのだ。

 あれからどのくらい経ったのか、さすがにずっと見るわけにもいかないから2・3分おきに見ていたが、あるタイミングで突然ふたりの姿が見えなくなった。
「あ、いつの間に!」俺は湯から出ていったん内湯に向かった、そこにもいない。気になって仕方のない俺は、なぜか脱衣所まで戻ってみる。やはりふたりの姿は見当たらないのだ。

「あれ、どこ行ったのかなあ」俺は、また露天風呂に戻ろうと内湯から外に出るドアを開けたが、そのとき、目の前に茶色い影が勢いよく通過したのを見た。
「うわっ!な、なんだいったい!」俺は慌てながらもとっさに影の方を見る。茶色い影はふたつあった。あっというまに、露天風呂の竹でできた柵まで行くとそのままよじ登る。「猿か?」俺はようやく影をとらえた。ニホンザルと思われる二匹の猿。
 見た目どちらも大人のようだ。彼らは露天風呂と外の世界をかこっている高い柵をあっという間によじ登り、てっぺんまで行くとそのまま外の方向へ立ち去って行った。

「あ、あの猿、まさか......」俺はその一部始終を見たが、猿の体が濡れているような気がしたのと、うっすらと湯気が出ているような気がしている。
 俺は露天ぶろを見た。湯面が誰かが出た直後のように揺らいでいるように見える。二匹の猿はさっきまで入っていたのだろうか?

ーーーーー

 俺は露天風呂から出たあと、温泉施設に併設している食堂で湯上りにビールを飲みながら、人気メニューのちらしずしを注文し、食べていた。隣にはご機嫌よく飲んでいる客がいて、声が大きいためか、その会話の内容が自然と耳に入る。
「さっき、二匹の猿がいて露天風呂入ってたな」頭の薄いバーコード男のつぶやきに対して、目の前で何度もうずくのはごま塩髪の男。
「ああ、知らないのか?ここの露天風呂は裏山に住む猿が、ときおり温泉入りに来るってこと」ごま塩男が丁寧に説明している。

「そうか、猿がここの露天風呂に入るのは良くあることなのか」俺はビールを口に運ぶとさらに聞き耳を立てて見た。
「聞いた話じゃ、よく来る猿は二匹いて、一匹はいつも湯の面を見ていることが多くて、もう一匹はいつも上の方をきょろきょろ見ているんだってさ」
「へえ、知らなかったなあ」感心しているバーコードの男の頭は赤い。それは湯に入って赤くなったというよりも目の前で飲んでいる熱燗のせいのようだ。同じように呑んでいるが顔色が変わらないごま塩は、口だけは饒舌に語り続ける。
「ああ、最初は追っ払おうとしたが、そのうち口コミで人気になるらしい。オスかメスかはわからないらしいが、男湯にのみ現れるってことだ。まあ男湯の方が山に近いから入りやすいんだろうな。ハハハハハ!」

「え?まさか俺が見ていたふたりの正体って......」チラシ寿司を食べながら俺は考えた。おそらく湯に長く入って上せていたのかもしれない。もし猿を人と見間違えたとするならば。


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シリーズ 日々掌編短編小説 884/1000

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