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夏眠からの目覚め 第927話・8.9

「ん、今、天台宗って聞こえたが......」誰もいない室内で読書をしていた拙者は、「天台宗」とはっきりと言葉が聞こえたので、本を閉じて身構えた。
 拙者はもう一度周囲を見渡す。だが自室の中には誰もいないし気配すらない。「拙者は、今、疲れているのか......」とはいえ、拙者は十分に睡眠をとっている。食欲も存分にあって、毎日しっかりと三食を食べていた。
 だが確かに、慢性的によくわからない疲労感を持っているのは事実。理由は全くわからない。

「やはり......一度行くべきか」拙者はかねてから、疲労の原因を探ろうと病院に行くべきか悩んでいたが、正直あまり行きたいとは思わなかった。なぜならば今は夏場であるからだ。拙者は夏がとにかく苦手である。もし病院に行くとしても、日中の暑さが落ち着く秋になってからだと考えていた。
 とはいえ、もし今の空耳が単なる偶然ではなく病的なもの、いわゆる幻聴である可能性は否定できない。となれば病院で一度診察してもらうのもひとつの手ではと思った。

「いや、待てよ。もしもう一度不思議な声が聞こえたら、そのときに決断しよう。一度だけで病気と決めつけるのは危険だ」拙者は様子を見ることにする。

 あれから1時間、2時間と待ったが、何も聞こえない。エアコンが稼働する音が聞こえる以外は静かな状態のまま。ちなみに拙者はテレビもラジオも好きではない。「拙者の気のせいだったようだな。ふう」漸く安心した拙者は、読書を続けた。


「うぐっ!」あれからどのくらいたったのか?拙者の耳に、また何か聞こえる。拙者は読書をやめてもぅ一度見渡す。先ほどのようにはっきりとした言葉としてのキーワードではない。単なる音の羅列であるが、はっきりと何か聞こえたのは事実。拙者は立ち上がり、慎重に部屋の隅々を見渡す。
「ふう、本当に気のせいなのかのだろうか?これは先ほどと同じ現象なのか、それとも別の何かかもしれん」

 このとき拙者は時計を見た。ちょうど夕方で暑さのピークも過ぎた時間帯だ。「夕方か、これは気晴らしに外に出たほうが良いかもしれん。もしかしたら拙者は長期の間部屋にこもりすぎたために、室内の音に対して敏感におびえすぎているのかもしれぬからな」

 拙者は外に出ることを決めた。いつも和服姿のため少し目立つが、それは気にならない。靴ではなく雪駄を履いて、玄関のドアを開けて外に出る。「ふう、外は空気が動いているなあ」拙者は久しぶりに外に出たので大きく息を吸い込んだ。

 拙者は暑いのがとにかく苦手、夏になると冷房の効いた部屋にこもるのである。この夏も本当に暑く7月の初旬から、外に一切出ることなく家にこもりっきりであった。ちなみに拙者は自宅で仕事が可能なテレワークのため外に出る必要がない。だから一度こもると冬眠をしている熊や爬虫類のように、夏が過ぎるまで外に出ることはなかった。
「拙者の冬眠ならぬ夏眠も、ここで終わりとはな」拙者は7月が始まった時点で食料を2ヶ月分買い貯めていた。本当なら9月中旬まで、自宅から一歩も出ずにこもる予定だったこの夏、拙者は一か月も早く一歩踏み出して、家から外に出てきてしまったのだ。

「まあいいだろう。確か暦の上では立秋。まあ拙者にとって今年はイレギュラーな夏であったかな」外は曇っているため夕焼けなどは見えない。空は少しずつ光を失いかけているのがわかる。その結果気温が幾分か下がっているため、暑いのが苦手な拙者も十分と散歩ができた。

「土手にでも行ってみるか」拙者は特に目的もなく歩いていたが、風が強く吹く河川敷の土手の方に自然と体が動く。風が吹けば涼しいが、風が止まれば夏が苦手な拙者にとってはとにかく暑いと感じてしまう。だったら風が常に吹いていそうなところがいいに決まっているのだ。

 拙者は河川敷の土手を上る。雪駄なのでやや歩きにくいところがあるが、拙者にとっては大したことではない。
「おう、なんと開放的な世界だ」拙者は思わず声に出して呟いた。拙者は河川敷からゆっくりと流れる川を見ながらもう一度両手を伸ばして深呼吸をした。拙者の予想通り河川敷では町中とはけた違いに強い風が吹き付け、拙者の体を冷やしてくれる。

 また、河川敷では犬の散歩で歩く人や、ジョギングをしている人、あるいは夏休みで遊び惚けている子供たちの姿を多く見かけた。
「こうして拙者が生身の人間を見るのもひと月以上ぶりだな」今度は、すぐ近くに人がいるため拙者は心の中でつぶやく。

 拙者は河川敷が見える土手の芝生のようになっているところをみつけると、そのまま腰かけた。夏の時期、普段は出ることをあれだけ嫌っているのに、いったん一歩踏み出して外に出ると、外にいたくなるのはなんと不思議なことか。
 河川敷は気が付けばますます暗くなり、ほぼ夜といってもよいほどの暗さになろうとしている。拙者の耳からは虫の声が聞こえた。室内であんなに音が聞こえるのを恐れていたのに、虫の音色は心地よい。不思議なものだ。

 突然川の遠くから光が見え、音が聞こえた。「ほう、花火か」拙者は夏に外に出ないから、花火はめったに見ない。今日が隣町で花火大会が行われていることも知らなかった。そういえば周りを見れば、暗くなって見えにくいとはいえ、拙者と同じように河川敷に座って遠くの花火を見ている人が何人もいるようだ。

「花火は夏の風物詩、やっぱりいいものだ」拙者はしばらく花火を堪能してから家に帰った。家に帰る途中、拙者は昨年までとは違う考えに至る。

「来年は夏場でも10日に一度くらい、夕方に出かけても良いな」と。


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