ミョーバンの湯 第651話・11.4

「おい、ニコールこっちだ」フィリピン人のニコールサントスを呼んだのは、パートナーの西岡信二。ここは大分県の別府、そして東から瀬戸内海を通じてやってくる船が到着する別府観光港にある駐車場にいた。
「シンジ、車はレンタル?」「ああ、本当は大分空港まで迎えに行きたかったが、どうしても午前中旅館の取材があったから、バスで別府まで来てもらったんだ」と信二が言うように、ニコールは船で来たのではない。飛行機で東京から大分空港に到着。そしてバスで別府観光港まで来た。時刻はちょうどお昼を回っている。

「それは、シンジの仕事だから私は問題ない。じゃあ乗るね」ニコールは笑顔のまま、信二の運転する車の助手席に座った。
 都内ではクラフトビールの店長としていつもスマイルを振りまいているが、あくまで営業のもの。さすがに信二の前ではナチュラルな表情。リラックスしているのが分かる。「昼は?」「さっき空港で食べた」「よし、じゃあ直接行くよ」信二はハンドルを握ると、エンジンをかけてゆっくりと車を動かした。

「店は連休取れたんだよな」「うん、明日も終日大丈夫。最近任せられる子も育ってきたから、ちょっと羽根伸ばせるわ」
 と、久しぶりの連休モードのためか、いつも以上にニコールが和やか。温泉ライターの取材として2日前から先に大分・別府入りしていた、信二の仕事もこの日の午前中でいったん終了。今からはプライベートモードとなり、こちらの表情もにこやかだ。車は港から別府市内を山の方に向かう。

「えっと、別府には地獄めぐりがあるのよね。でも地獄ってhellだからサターンがいるところ。私ちょっと怖いかも」「え、ああ。まあ地獄と言っても、日本ならエンマ大王だな。というより本当は温泉の源泉。ただちょっと個性的なものが多い。でもそれは明日。今からはとっておきの温泉に入るからな」

 元来の温泉好きが高じてライターになっただけに、信二は温泉に行くとなるといつも以上に張り切った。気のせいかアクセルを踏む足の動きも軽快そのもの。車は別府市内から山を登っていき、別府温泉の中のひとつ、鉄輪(かんなわ)温泉の前を通る。この周辺には別府地獄めぐりのスポットが並んでいるが、信二は明日にコールを連れて行くつもりだから、今日は素通り。そしてさらに先に進む、徐々に坂を上りまた決して高くはないが周囲に山が見える。
「よし、明礬に来たよ」「ミョウバン?聞いたことがある」「ああ、温泉の名前だ。明礬温泉だよ」
 車は別府の温泉街の奥にある山の上の明礬温泉地区に差し掛かった。ここに来るとより温泉地らしく、地中から白い蒸気が噴き出ているところがある。

「ここは本当に温泉地らしい」「そうだろう、ここに連れてきたかったんだ。ここは湯の花の生産でも有名なんだぞ」
「ユノハナ、温泉の入浴剤ね。そうシンジからもらった草津温泉のが、もう少しで無くなるところだったの」
「それはよかった、後で明礬温泉の湯の花を買って帰ろう」ニコールが助手席から外を見た。ちょうど湯の花を作っている、藁でおおわれた湯の花小屋が見える。ずいぶん山を登ったが、国道500号沿いということで走りやすい。そしていくつもの旅館が山の勾配にしがみつくように建っている。「よしここだ」信二がある駐車場の中に入った。「あれ?泊まるんじゃないの」「いや、それは後、まず日帰り入浴ができるところに行く」「それ取材よね」「まあな。でも広い露天風呂があるんだ。そこでゆったりできるよ」信二は車を降りると早速、建物の外観を撮影。

「もともとは、江戸時代に天然のミョウバンを採掘するためにこの山を開発したが、明治以降に入ってきた輸入物や他県産のものに負けてしまった。代わりに湯の花づくりと温泉に力を入れたんだ」信二は調べた知識をニコールに説明する。
 ニコールはいつものことながらと思いつつもその話を真剣に聞く。「それに明礬温泉の泉質は温泉成分が濃いだって、えっと酸性硫化水素泉と緑ばん泉だったかな」「それはいい!」突然、ニコールのテンションが上がった。「緑ばん泉なんて聞いたことないから楽しみだわ。だってたまにあまり特徴もない、お湯みたいな温泉があるじゃない。あれはつまらないしね」
 泉質のレベルが違うと聞いて思わず口元が緩むニコール。施設内に入り料金を払うと、ふたりは男女バラバラになった。

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 露天風呂は高台にある。絶景の中にある露天風呂は巨大。そしてコバルトブルーの美しい色をした湯舟が見た目からして心地よい。かかり湯をすると早速足を湯船につける。足は一瞬暖かいと思っていたが、体が冷えていたためか徐々に温泉の熱の感触が上昇。「熱い」と感じたが、ここは我慢のしどころとばかりに踏ん張る。もう片方の足をつけると、少しずつ前に歩く足先から膝、腰先とゆっくりと温泉の面から下に体を入れていく。同時に適当な深さのところに来る。ここで気合を入れてさらに体を沈めていく。体は背中を過ぎてどんどん湯の中に、こうしてようやく肩まで湯につかる。
 ここで思わず大きく息を吐いた。そしてうっすらと白く濁った温泉。両手で掬い取り、そのわずかばかりに濁った湯の姿を見るだけで、体に効きそうな気がしてならない。
 こうして開放感あふれる景色。そしてそれを程よく覆うように、ゆらりと湧き上がる湯気の姿を眺めながら、しばし旅の疲れを癒した。

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「ごめん、くつろぎすぎちゃった」待ち合わせた予定よりも5分遅れでニコール。「いいよ。実はさっき俺も出たところ」実は信二も遅刻していた。それだけ気持ちの良い湯につかり、完全にリラックスモード。
「後は湯の花を買ったら、すぐのところにある旅館に行くから」
 「でも、それも取材」「ああ、それは仕方ない。少しだけ我慢してくれ」信二はいつもどおりに取材もかねて旅館を選ぶ。ニコールは知っていてあえて質問。
「今日はこのあと泊まる旅館の外観とフロントと廊下、あとは温泉は......どうかな。部屋の様子とと夕食は絶対に必要だ。それから明日は朝食を撮ってチェックアウトしたら、明礬温泉でも山の奥にある『へびん湯』に行こう。で、午後に鉄輪に降りて地獄めぐりだ」信二はスケジュールを確認。仕事ではあるが半ばオフそのもの。
「うん、楽しみはまだまだこれからね。あ、大分の地酒も売っている」「地ビールはあるのかな?」「シンジそれはいいわ。私が仕事モードになっちゃうから」と言いながらも、本音では別に嫌がっていない、ナチュラルな笑顔のニコールであった。

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