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勝負の直前 第726話・1.19

「フッ」小生は目をつぶり小さく息を拭いた。ついに小生が新たなる人生のための勝負の時が来たのだ。「思えばこの日を迎えるまでに本当に長かったものだな」小生は、目をつぶったままこれまでの道のりを回想する。

 高校を中退して歌手を志して上京してはや5年。小生は小さいころから歌うのが好きであった。好きというより小生の人生が歌そのものと言っても過言ではない。音楽教師の父とママさんコーラスグループのリーダーを務めていた母のもとで生まれ育った小生は、物心ついたときから地域ののど自慢大会に出て、最低でも景品をもらうほどの順位であった。中でも優勝が最も多い。

 そして中学・高校とコーラス部に所属した小生であったが、ある日突然ひらめくものが頭の中に入る。
「上京して歌手になるんだと」
 だが小生は、このときまだ高校2年の3学期だ。両親は小生が大学に進学するものだと期待していたのに、大学はおろか高校を中退してまで上京して歌手になりたいというものだから猛反対。だが小生は一度決めた人生は、自らの手で切り開くとの信念から、バイトで貯金していたお金を片手に、夜逃げのように家を出る。

 こうして上京してバイト先を探すが、これは意外にすんなりと決まった。空気清浄機のメンテナンスという仕事。小生はこんな仕事したことがないが、若いこともあり先輩たちが丁寧に教えてくれた。小生は飲み込みが早かったこともあり、特に怒られることもなく半年で一人前として認められる。気が付けばひとりで清浄機の保守点検ができるようになっていた。
 それにこの仕事は小生にとって楽しかったのだ。なぜならばアルバイトをしながら、同時に音楽事務所の門をたたいたが、そこでは誰も相手にしない。小生はいつしか歌手になる道をあきらめ、空気清浄機会社の社員になっていた。

 以降小生が歌うのは、会社の仲間と飲みに行ったときの2次会と決まっている。大抵はカラオケボックスで2次会を開くが、小生はそこでのみ歌う。先輩たちみんなは、小生の歌がうまいことは認めていた。だが小生はもうプロの道はないとあきらめていたのだがね。

 それが半年前に小生が再び歌手の道志すきっかけが生まれた。あれは小生の部屋に置いていた一本の家庭用消化器である。上京してから住んでいる部屋にずっと置いていた消化器を点検したのだが、チェックするとどうも期限が切れており、交換の時が来ていることが分かった。
「ホームセンターで新しいのを買おう」小生がいつも行くホームセンターには消火器を販売しているし、古い消火器を引き取ってくれることを知っていた。だから点検の終わった家庭用消火器を手にホームセンターに行き、予定通り新しい消火器と交換する。

「さて、何か他に買うものがあるかな」小生は久しぶりにホームセンターに来たので、もう少しほかの売り場を見学することにした。そのときである。一枚のチラシが小生の視線をくぎ付けにしたのは。
「プロになれるオーディション募集」と書いてあるそのチラシ。「まさか」とは思ったが、全国ネットのテレビ局が主催するオーディションのようであった。「やってみる価値は0ではないな」小生はこのオーディションに応募。

 こうして3ヵ月前から予選がスタートした。先ほど言うのを忘れたが、小生はカラオケで空気清浄機の仲間たちに歌を披露するほか、自主的に歌のトレーニングをしていた。別にプロを意識していたわけではない。子供のころからやっていた習慣。むしろやらないと気持ち悪いから、自然とやっていたことなのだ。だがこの訓練が、結果的にオーディションの予選で花開くことになる。

 小生は1次予選からスタートして次々と予選を突破。ついに地域のトップを決める最終予選に進んだ。ここでも小生はいつものペースで勝負曲をパーフェクトに歌い上げ、見事決勝に進むことができた。決勝には全国から選ばれた20名で争われる。つまりこの決勝で優勝すれば、音楽事務所への所属が約束され、ほどなくメジャーデビューが待っているのだ。

「最後だ、ここで歌いきって優勝すれば、ついに歌手の夢を果たせる。そうなったら空気清浄機の会社を辞めるしかないが、仕方があるまい」いつの間にか主任として後輩の面倒を見る立場になった小生であるが、人生は一度きり。ここにすべてをかける覚悟はできた。

「はい、次どうぞ」ステージから小生を呼ぶ声が聞こえる。小生は大きく深呼吸をしたゆっくりと鼻から息を入れていく。小生の横隔膜は風船のように膨らんできた。詰められるだけ息を詰めたら2・3秒息を止める。そして今度は逆流するように鼻から息を吐いた。横隔膜はあっという間に元の大きさに戻る。そして小生は目を開けた。「いくぞ」心の中で気合を入れた小生は、ゆっくりとステージに向けて歩く。こうして歌手になるための最後の勝負の時が来た。


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シリーズ 日々掌編短編小説 726/1000

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