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上毛の温泉

「群馬は温泉どころ。でもやっぱり草津が一番だ」温泉ライターの西岡信二は、泊りがけで群馬県の温泉巡りの取材の旅に出ていた。
「何しろ毎分3万2300リットルも湯が出てんだよな。もったいないくらいだ。泉質も酸性泉と硫黄泉それにアルミニウム泉だもんなあ。こりゃ無敵だ」

白い湯気が漂う広々とした旅館の露天風呂。信二は誰も入っていなので貸し切りとばかりに思いっきり体を伸ばす。
「『草津よいとこ 一度はおいで』だなぁ。先に行った万座は、展望はいいけど、湯の質となればやっぱここだ。それから明日は坂道の多い伊香保、それとトテ馬車のある水上と、山の中の四万にもいかないといけないが、やっぱり草津だよなぁ」
 誰もいないと思っていた露天風呂で、油断して声を出していた信二。
「有名どころばっかりだ」と信二に聞こえるようにつぶやく声がする。

「ん、何、誰?」気が付けば近くに入浴客がいた。信二と同世代と思われる黒縁眼鏡をかけた男がいる。ただ湯気で曇っていたのかメガネの中の表情は見えない。
「あなた県外の人でしょう」「え、あ、はいそうですが」「確かに草津はよい温泉です。でも群馬県内にはもっと穴場の温泉がいっぱいあるんですよ」

「ま、それは知っています。群馬県には、ほかにも、日本最古の温泉記号がある磯部温泉とか尾瀬の近くにある老神温泉、変わったところでは釈迦の霊泉と言われている奈女沢温泉(なめざわおんせん)とか」
 ところが男は眼鏡の曇りを取り除くと、鼻息を荒くしながら首を横に振る」「まあ、確かにご存じのようですね。では猿ヶ京温泉は知っていますか」「さるがきょう... ...」
 信二は一般人よりは温泉に詳しい。だが猿ヶ京温泉のことは知らなかった。

「知らないようですね。ぜひ一度行ってみてください」男はそれだけ言い終えると立ち上がって、いち早く露天風呂を出て行った。
「『猿ヶ京か』地元の人がおすすめしたいとなれば、いかないわけにはいかない」信二はそういって頭を上げて、立ち上る湯気から垣間見える星空を眺める。

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 信二は取材日程を1日伸ばすことにした。本来なら群馬を去る日のつもりだったが、突然現れた男が発した「猿ヶ京温泉」が気になって仕方がない。うまくスケジュールを調整して、猿ヶ京温泉に行くことにした。

 後閑駅に降り立った信二はバスに乗る。すぐ近くにある新幹線の上毛高原駅を経由して30分程度のところにある猿ヶ京温泉。信二はこの日までに、この温泉のことをいろいろ調べている。
「400年前に猿が大やけどを負った子供を温泉に入れてあげた。あるいは上杉謙信が命名か。申年の謙信が縁起の良い夢を見たからだって。そう言えば最近、俺、夢を覚えていないな」
 バスは国道17号線沿いに山の中に向かって行く。地図を確認すればその先には苗場などのスキー場に向かっている。信二が向かう猿ヶ京温泉は、相俣ダムによって人工的に作られた、赤谷湖のほとりにある温泉街。
 到着の直前になると、バスの車窓からは、満面の水を蓄えている湖が、木の陰の合間に見えていた。
 バスが温泉に到着する。さっそく信二は予約した一軒の温泉に向かう。
 チェックインを済ませてると、部屋を案内してもらう。
「ここは北陸に通じる三国街道の関所があったのか。明日帰る前に立ち寄ってみよう」

 さっそく信二は温泉に入ることにした。宿泊した旅館は複数の貸し切り温泉がある。
 これは予約せずに空いていれば、自由に入れる仕組みになっていた。もちろん本業であるライターとしては、そのあたりの特徴をしっかり押さえるつもり。
「まずは猿ヶ京温泉の湯につかって、お手並み拝見と行きますか」
 貸し切り温泉の中に入ると、大人2・3人くらいでいっぱいになりそうな湯舟があった。温泉の湯が白い湯気を立てて蓄えられている。窓を開け放つことが可能。開ければ半露天気分が味わえる。信二はためらうことなく窓を開けた。
 瞬間に冷たい風が、全裸となった体を襲う。そのときに肌に伝わる寒くて冷たい感覚。しかしすぐにかけ湯さえすれば、その寒さが瞬時に熱を帯びた温かいものに変わるのだ。

 こうして片足からゆっくり湯につけていく。やや熱さを感じる湯。猿ヶ京温泉の源泉温度が42度から58度だという。もしかけ流しであれば、やや高めの源泉井戸を持つ旅館なのかもしれない。
 そして塩化物泉の泉質を持つお湯に対して肩までつかった信二。途端に熱さとともに、体がとろけるような心地よさがたまらない。
「うん、いいねえ。ここは秘湯のようで、そこまでではないけど、草津と違ってのんびりしている。これは穴場としてしっかり紹介しないと」

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「本当にいい湯だったから長居しちゃったな。声をかけてくれた見知らぬあの人に感謝しないと」
 湯にしっかり入ってすっかり顔が赤い信二は、旅館の部屋に入った。このとき信二のスマホにメッセージが入る。それを見て今度は顔が青ざめた。
 それは恋人・ニコールからのメッセージ。「今日帰ってくるんじゃなかったの? 今どこにいる。私1時間前から駅で待ってるけど」 
 信二は猿ヶ京温泉のことばかりを考えて、予定が変わったことを伝えるのを忘れるという、大きなミスをしたことにようやく気づくのだった。


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シリーズ 日々掌編短編小説 367

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