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役所の人の思い出

 ここは町中にある役所。行政関係の手続きをするためにこの日も人が多くやってきた。大きな自治体のためだろうか? 必要書類の内容によっては相当な時間を待たされる見込みで、場に居合わせた人たちは淡々と自分の番になるのを待っていた。

 待っている人のためにあるのか、そこには大画面のテレビがある。だがそのテレビとの横で立っている人がいた。それはこの役所の人。警備員のようなものものしい服装などしていない。だが、とにかく人が多いこの場にて問題がないか? 常に目を配らせて、チェックをしている。彼女の名は吉川だ。
「今年も、多くの人が来るなあ。春のころよりは、ましだとしてもみんな転出や転入をするのよね」

 紺のスーツ。同じ色のタイトスカートを履いている吉川は、頭の中でそんなことを思いながらあたりを見渡した。老若男女いろんな人がいるが特に問題はなさそうだ。

「今日もお年寄りの方と、異国の方が多いわね。まあ、ここは役所。大丈夫だと思うけど」と余裕の表情で、周りを見渡した。

 ところがふと視線が、あった相手。申請に来た色黒で口ひげを生やした男性に、視線が行ったとき、思わず吉川は、待合の長椅子に座る、ある人物に釘付けになった。「あ、あの人にそっくりだわ」

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 これは5年前のこと。吉川は友達とアンコールワットを見るためにカンボジアにまで旅行をしていた。「ねえ、今からパブストリート行かない」「でも明日は早朝からのツアーよ」
「大丈夫よ。せっかくだから世界中の観光客が集まるシェムリアップで一番賑やかなところに行こうよ。ねえ」

 友達とホテルから歩けるところにあるパブストリートに入った。まだ日も明るい時間帯であったが、常夏の暑さと、それに影響を受けたかのように、活気のある雰囲気。気になる店に入ると友達はカンボジアのドラフトビールを飲む。吉川はアルコールが全く飲めないので、マンゴーのスムージーで我慢した。
 店はオープンになっていて外の様子がわかる。遅くなって夕方に近づけば近づくほど、多くの人があふれてくる。「本当にいろんな国の人が来ているわね」
 そのとき吉川は、欧米人のカップルを案内している、カンボジアのイケメン男性を見て、心ときめくことを感じてしまった。
「いや!素敵な彼だわ。欧米人に説明しているけどあの人ガイドかしら」

 翌朝は早朝からのアンコールワットツアーである。まだ暗く涼しい外の雰囲気。そして、ホテルのロビーで、待って居たら、予定よりほんの少し遅れてに迎えが来た。吉川達が迎えを待っていて、その人物が現れると、昨夜見つけたあのイケメンカンボジア人男性がガイドである。

「やったー」吉川心の中でガッツポーズをした。

「ワタシ ノ ナマエ ハ サムヘン デス」「サムヘンさん、よろしくお願いします」
「イマカラ アンコール イセキ ニ イキマス」とサムヘンは日本語が堪能なガイド。ただでさえイケメンなのに。ときおり見せる白い歯が美しい。

 吉川は積極的にサムヘンと話をしようと常に彼の近くに陣取った。サムヘンは日本語と英語の両方に精通しているため、アンコール遺跡のガイドの仕事の依頼が多いという。
 昨日は欧米人向けの英語ツアーだったが。今日は日本語ツアーの担当。多少の訛りはあるが、まったくコミュニケーションに問題がない。ミニバスに乗り込み遺跡に向かう。その間も日本語でアンコールワットの説明をしてくれた。そして早朝のアンコール遺跡の見学だ。

「まるで魔界の宮殿みたいだわ。何、徐々に浮き彫りになって出てくるし、この背景の不気味な色合いは」
「アンコールワット ノ ヨアケハ カンコウキャク ニ ダイニンキデス」

「ココハ キュウダカラ チュウイ シテクダサイ」
「わかった。ありがとう。太陽が出て来た。今日も暑いのかな」

「サムヘン。この木、今にも動きだしそうね」「カンボジアノヨウ ナ アツイクニデハ スグニ キガ セイチョウシマス」

「ずいぶん暑くなって来たわ。ても頑張ろう。おお、これがクメール美術。石を掘ってこんな美しいの作れるってビックリ」
「ツギハ ゾウノテラス ト ライオウ ノ テラスニ イキマス」

「コレハ バイヨンデス」 「いやぁ! 何これ? 本当すごいわ。頑張ってカンボジアに来たかいがあったわ。サムヘン、今日はお疲れ様。ありがとう!」
「ドウイタシマシテ タノシンデクレテウレシイデス」

 こうしてアンコール遺跡の最も重要なところを回ったツアーは終わり、ホテルにはお昼過ぎに戻った。
 だがしばらくして吉川は後悔の念に駆られる。「あの時連絡先を聞いておけばよかったのに。私何してんだか。でもそこまでやったらまずいかな。いや、だからいつまでたってもいい人が、あー残念」

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「あの人本当にサムヘン?」 吉川はついついサムヘンと思われる男性を凝視する。「この前できなかったから声を掛けたらいいのかしら、でも何で日本に? 確かに来たいとは言ってたけど」吉川は頭の中でどうするか迷った。実際今は役所での仕事中でもある。
「一言くらいならいいかな。そしたら」吉川は大きく深呼吸をすると、男性のほうに歩こうとした。

 だが、次の瞬間次の会話が聞こえ、吉川は愕然する。先に男性の前に役所の担当者が近づいてきた、そして次の会話が聞こえたのだ。
「中野さん」「はい」「確認ですが、お名前は中野龍平さんで間違いありませんね」「はい、そうです。間違いないです」「ありがとうございます。ではお呼びますので、もうしばらくお待ちください」

「中野龍平... ... 日本人か」吉川は平静を保ちつつ、心の中では動揺した。中野という男性は手続きを終えると、出口に向かう最中に、スマホで電話をかけている「おう、未来か。やっぱちょっと混んでいて今終わった。昼どうする、おう、お前の好きなイタリアンで待ち合わせだな」

 そんな会話を聞いた吉川は、このしばらくの間に沸き起こった、ときめきの時間は無かったことにしようと、仕事に専念するのだった。

おまけ: 先週の成果です。

アホ関係が人気でした。アホとは一見相手を見下すようなキーワードですが、その威力は想像以上に凄いですね。

もうひとつ。カウントダウンも入りました。

こちらもよろしくお願いします。

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シリーズ 日々掌編短編小説 350

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