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猫のいるしあわせ 第1140話・3.31

「本来ならこのまま帰るのだが...…」自分ははそう思いつつも、今日は帰らない。なんとなく帰ろうという気が起きないから足が動かないので外を見る。 

 大きな窓には確かに風景が見えるが、光の角度のためだろうか?猫である自分の体も見える。「お前は帰らないのか」左横にいるものが声をかけてきた。
 そいつも猫だが自分と同じように帰ることなく窓を見ている。「お前だって帰らないじゃないか!」自分はそいつに行ってやったが、そいつは黙って正面を見ていた。返事はしないが、その行動を見て察する限り、帰る気がないのだろう。

「ふん、お前が動かないなら、自分もずっとここにいてやる」自分は少々意固地になってしまったようだ。隣のそいつが動くまで、自分も動かないでおこうと決めてしまう。それからしばらくの間沈黙が流れる。自分もそいつもずっと外を眺めたまま。果たしてそいつは正面を見たまま何を考えているのだろう。

 それはまったくわからないが、自分は正面を見ていろいろ考えた。まずはこれからどうしようかということ。猫である自分は無職である。無職でも餌を容易に手に入れるすべがあるから飢えることはない。ねぐらだって確保している。だから何も焦ることはない。こうやって隣のそいつと意地を張りながらじっと正面を見ることだってなんてことないのだ。

 だけど、こう見えて自分は暇である。そりゃそうだろう働く必要がないし、寝ている時、食事をしている時以外は何もすることはない。
 自分に対してごくまれに敵意をむき出すようなやつはいる。その時だけだろうな、自分が退屈しないのは。そのときは緊張感が走り、その相手の力加減を瞬時に確かめなければならない。もし相手のほうが自分より強ければ逃げる必要がある。逃げるにしてもただ逃げるだけでは相手から攻撃を受けることも考えられるから、慎重に逃げるのだ。

 自分は過去にそういう経験があったから言えることだけど、その時ほど全身から焦りを感じることはない。焦りすぎて何も見えないし、時が過ぎることもわからなかった。ただ目の前の現実に向き合い対処する。その時は逃げるという手段に全神経を集中させた。こうして見事に目の前の脅威から逃げ切った時は本当にうれしい。そして生きがいというのだろうか、何か気持ちの良い時間の過ごし方ができたのだ。

 それ以外は暇なもの、今は目の前を見ているが、特に何かが動くわけでもない。何も変わらない世界。それを見ていると退屈になる。だからこうやって過去の武勇伝のような出来事を思い出しながら、自分の世界に入り込むのさ。

「それにしても...…」隣のやつあれから全く動かない。微動だにもしないのだ。自分は不思議になる。自分はさっきから多分体を前後左右に動かしていると思う。動かないと全身が凝り固まって大変だ。ところが隣のそいつは止まったまま。まるで生きていないのようなのである。

「おい、いつまでそこにいるんだ!」自分はだんだんこの場にいるのが飽きてきた。だから隣のそいつが早く飽きてどこかに行ってほしいのだが、そいつはまったく反応がない。

「くそ、いい加減にしやがれ!」どうやらこの意地の張り合いは隣のそいつに軍配が上がったようだ。自分はもう限界である。そういえば下半身がうずいている。今から便をするためにこの場から立ち去らなければならない。

「お前さんの勝ちだな」自分は最後にそいつに祝福の言葉を言ってやった。少し皮肉を交えてだ。だがそれに対しても隣のそいつはまったく反応しない。「なに!」自分は隣のそいつに無視されていることに腹が立った。

 自分は冷静さを失ってついにやってしまう。前足をそいつに向けて大きく伸ばして殴ってやった。相手を気付つけることはダメだとわかっていても...…。

「なんと、こいつ!」だが自分はようやく気付いた。隣にいるそいつの正体である。そいつは生きていなかった。
 そもそも生命を持つ存在ではないのだ。ただ自分にそっくりのような恰好をしてずっとその場にいる。ぬいぐるみということのようだ。それにしても非常に精巧に作られたぬいぐるみだ。
 だが後で知ったが、隣のそいつの正体は、ぬいぐるみではなくはく製であった。つまり元々は生命を持っていたようだが、死亡したので悲しんだ飼い主がはく製にしたらしい。

 そんなことを後から知っていたとてどってことはないが、自分にとってただひとつ解せぬことがある。それは最初に「お前は帰らないのか」とはっきりと聞こえたことであった。剥製が口を開くことはない。実際にあの一言以外は何も口を開いていなかった。

「ではあの声は?」自分はあの時に聞こえた声の主の正体が気になっている。気になったがわからない。だけど自分にとってその事実を知るためにあれこれ考えて、情報をつかもうという努力をしている。これで退屈な日々から、おさらばしたのは事実なのだ。


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