里への思いにふける 第824話・4.27

「ふう、さて、ここまで来たが...…」そこにいるのは一匹の犬。いままで無心に走ったため、一瞬、今どこにいるのかわからない。
「危うく里に出て油断したな。もし当局に捕まったら、収容所に連行されて消されるところだった」
 犬はピンクの花に囲まれたところにいる。里での出来事を思い出しながらまだ目が潤み、小刻みに震え怯えていた。そして隠れながら周囲の様子を見る。ここは人が容易に入れない山の中。犬は九死に一生を得たとばかりにほっと息を吐く。

 この犬はいわゆる野犬である。数世代前はペットとして飼い主の管理のもとにいたと思われるが、恐らく何らかの理由で手に負えなくなった飼い主が、山に放置した犬の末裔なのだ。

 だが犬はわかっている。この国で野犬として生きることがいかに困難であるか。見つかると狂犬病の病原として扱われ、保健所という名の収容所に強制的に連行されてしまう。そのことは野犬の社会では常識。実際にこの犬と同時期に生まれた数匹の兄弟が誤って里に出たことで、当局に捕獲・連行されてしまった。
 捕獲・連行され一度収容所の門をくぐれば、その場で殺害されてしまい、恐らく生きて戻ってこれないであろうと言われている。

「ご先祖様は、餌ひとつにしても相当苦労しただろうなあ」
 少し落ち着いた犬は、飼い犬から突然野犬の立場に落とされた、数世代前の御先祖のことについて思いにふける。
 飼い犬だったご先祖は雄なのか雌なのかもわからないが、恐らくこの山のどこかで子を産んだ。ご先祖が親となったとして、おそらくその世代では自分で餌の取り方もわからなかっただろうし、もしかしたら里で人が出すごみを深夜に降りてきて漁っていたのかもしれない。
「ご先祖様はなんともリスキーな生き方をしたんだろう」

 ちなみに数世代子孫にあたる当の犬はすでに、野生化した野犬として狩りの心得を身に着けていた。具体的には山の中に生息している小動物いわゆるネズミの仲間をはじめ、小鳥類、あるいは両生類のカエル、場合によっては昆虫類も食べる。
 さらにご先祖からのDNAを強く受け継いだものに雑食性というのがあった。だから動物性のものが手に入らないときには植物性のもの、例えば木の実や果実を食べることもある。つまり何でも食べることにより、こうして生き延びてきたのだ。

「死ぬかと思ったが、生涯に一度は見ておいてよかった」完全に冷静さを取り戻した犬は、今回の冒険を総括する。もともと犬は好奇心が強く、山の下に広がる里に興味があった。兄弟が当局に連れ去られてたとはいえ、里に出たすべての野犬の仲間が捕まるわけではない。
「里は刺激的だぜ。何がいいかって、あそこに住んでいるやつらは、何もしなくてもドッグフードと言うものが与えられる。それがとんでもなく美味しいらしい」

 これはつい先日、里に下りたつわものの野犬が得意げに発した言葉。いつしかこの山の周辺にいる野犬の世界では、里に出た経験者は勇者として一目置かれていた。「でも、里の犬は軟禁されているんでしょう」
「軟禁はされている。だが、よほどのことがない限り、天命を全うできるようだ。どうやら人間界も規制が厳しく、安易に山に捨てるようなことはしない。ご先祖様の時代とは違うのだよ。それに」

「それに?」犬は問い返した。
「この前、里に住む人間と出くわしたが、そいつは当局じゃないからだろう餌をもらった。これがまた旨くて、忘れられないな。普段からあんなもの食っているのかと、うらやましくなったぜ」
「そんなにうまいのか!そんなに良い生活なら、いわゆる飼い犬という立場にさせてもらえないのか?」
「よほどでないと無理だろうな。猫という連中ならあり得るそうだが、俺たち野犬は、病原を持っていると連中らに思われているからな、恐らく当局に連行されるだろうよ」


 それを聞いた犬は、より里への思いが強くなる。こうして今日思い切って山を下りて里に出た。
「山とは違う!」里に出た犬は、山と比べて全く違う世界に圧倒された。地面は土ではなく、掘り起しできないほどに固められているし、木も本当に少ない。石や岩よりも固そうなものが、垂直に立ってる。それがある定期的な秩序があり幾何学的なのだ。さらにその石か岩のようなものをくりぬいているのだろうか?その中に人が住んでいるよう。

 ここで犬は人間と出くわした。それはヨチヨチ歩く小さな子供。子供は近づいてきて笑っている。「あいつが言っていたことだな。餌がもらえるかもしれない」犬はしっぽを振りながら子供に近づいた。子供は好奇心旺盛で見たこともない犬をじろじろ眺めている。ついに子供は犬の体に障りだした。
「これが人と言うもののぬくもりか」楽しそうに撫でているのが気持ちよくなる犬。あまりにも心地よいので歓喜の声を出す。

「ギャー!」突然驚いた子供は泣きだした。「なに、ごめん!そんなつもりは」言い訳をする犬。だが子供からすれば吠えているようにしか聞こえず、怯えて逃げる。「ち、ちょっと待ってくれ!」犬は子供の後をつける。そこに現れたのは大人の女性。どうやら子供の母親だ。

「坊や、どこ行ってたの・何しているの! え、や、野犬、キャー、は、早く通報しないと!」大人の女性は突然大声を出すと、子供の手を引いて走って逃げ出す。
「ま、まずい。当局を呼ぼうとしているぞ」
 緊急事態に気づいた犬は慌てて逃げる。とにかく走った。数世代の野犬としての動物的本能のスピードは、里で飼われている犬とは明らかに違う。さが、あまりにも速いがゆえに、今度はすれ違う人が驚いた。誰かが110番通報した模様。パトカーのサイレンらしき音が聞こえる。
「あ、あそこだ、あそこから山奥へ!」
 住宅の隙間にある小さな道を見つけた犬。そこは山に続いている。途中からは人が歩けそうもない獣道。犬はそこから猛スピードで山道を駆け上がり、そのまま山の奥に逃げ込んだ。

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「まあここまでくれば、もう大丈夫だろう。楽しい冒険だったが、命あっての物種だ。里に行くのはやめよう。山奥の方がずっと平和だしな」
 こうして犬は目の前のピンクの花を愛でながらそうひと吠えすると、ゆっくりとさらに山の奥に向かうのだった。





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