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脱獄王の最後   第625話・10.9

「おい、仮出所の事務手続きがある。椅子に座って5分ほど待ってくれ」
「へい、わかりました」ある受刑囚はそう答えると椅子に座る。彼は待ちに待った仮出所のときを迎えていた。この部屋にはふたりの看守がいたが、年配の方が部屋を退出し、手続きに入る。そして受刑囚の前には、若い方の看守が見守っていた。

 そしてこの受刑囚は、有名な脱獄王である。その噂を聞いていた若い看守は、受刑囚以外誰もいないことをよいことに、受刑囚に質問をした。
「これは、個人的な質問だ。だから答えたくなければ答える必要がない」「へい」受刑囚は静かにうなづいた。
「お前はこの府中では模範囚であったが、かつては脱獄王だったそうだな。もし良ければそのときの話を聞かせてもらえないか?」
 若い看守の目はもう受刑囚を見張るものではなく、興味本位の表情に変わっている。

「へい、これは学校を出て間もなさそうな若い看守様ですから、教えてやりましょう」受刑囚はそういうと体を動かして座り直す。
「最初はたしか今から30年くらい前になりますが、強盗殺人で捕まりました。強盗はともかく、本当は殺人なんてしちゃいねぇ。だが拷問で自白されて、刑務所に入れられんです。で、これがヒドイところだったんですわ」

「ほう、自白させられ、入れられたところがそんなにヒドかったのか?」「ええ、戦争前でしたからね。当時の刑務所と言えばどこも人間扱いしねえとこばかりでした」ここで受刑囚は顔を天井に挙げて、当時のことを思い起こす。
「最初は青森の刑務所。こちらの言い分を完全に無視しやがった。だから逃げようと思って便所の汚物を捨てるたびに、外の敷地から出れそうなとこ探しましたね。そんときです。針金を見つけましてね」

「針金......それをどうしたんだ?」「それで合い鍵を作りやした。見事に脱獄に成功しましたね。でもあのときは、3日後につかまっちまった」

「ハハハ。お前意外に間抜けだな」受刑囚の臨場感あふれる会話に完全にリラックスしてしまった看守。
「そんなぁ! 若いのにヒドイこと言いなさる」「ああ、これは悪いな。でどうなったんだ?」
「へい、今度は宮城と東京の小菅を転々としたんですが、ちょうど戦争が始まるからって秋田に飛ばされたんですわ」「秋田か、俺の母の実家がある。そこでは一体」身を乗り出すように受刑囚の話に聞き入る看守。
「実は、前科があるってことで、壁を銅版で張られた特別な独房に入れられました」「特別な独房......で、そこでも脱獄をしたのか?」受刑囚は首を横に振る。「そりゃ手錠つけられっぱなしで簡単にはできません。ところがですね」

「おう」「冬になると、手錠を外してくれたんです」「まあ冬の秋田は雪がすごいからな」「でも、その間に逃げよう思いやした」
「まさか雪の中を逃げるとは、逃げられても命の保証が」少し驚いたように目を見開く看守。ここで得意げになる受刑囚は饒舌になる。「命の保証なって言ってられませんぜ。何しろ天井を見ると鉄格子が腐っていたんですからね」
「て、天井に上がったのか!」「まあね」受刑囚もリラックスしたのか口元が緩む。「言ってみれば、ヤモリのようなもんですわ。で、ブリキに釘を使って金鋸をつくりましてね。それで一気に天井切断して逃げました」
「天井に上がるだけでも大変なのに、釘で金鋸......お前なんて器用なんだ」「へい、でも運がよかったのは、その日は暴風雨だったので、誰にも気づかれませんでした」そう言ってにこやかに舌を出す受刑囚。対照的に想像もできないエピソードに、顔が引きつる看守と対照的な表情になった。

「暴風雨も味方とは。で、今度はどのくらい逃げて捕まったんだ」ところが受刑囚は首を横に振ると「捕まっちゃあいねぇんです。自首しました」
「な、なぜ、そんなにまでして得た自由を自ら......」「ちょっと、それはあなたの立場で、言っちゃまずくねえんですかい」
「あ、ああ、そうだな」慌てて我に返る看守。「だがお前がそこまで苦労したのに、なぜ自首を」
「実は小菅にいたときに、初めて人間扱いしてくれた看守さんがいたんです。それがうれしくて。だから彼のの家に行って自首しました」
「そうだったのか......」看守は思わず視線を天井に向けた。
「だって、あっしは自由の身になりたくて逃げたんじゃあありません。逃げたのは、良い刑務所に入りたかっただけでしたんでね」

「うん、えらいぞ、自首とは。そしたら次はまともな刑務所に入ったのか」「それが、逆でした」このとき受刑者の表情が暗くなり、思わず顔をうつぶせにした。
「優しかった小菅の刑務所に入れてもらえるかと思ったんですが、脱獄の実績が悪かったんでしょう。ついにあの網走に飛ばされました」

「ああ、難攻不落と言われた網走か。そこなら逃げられないと」看守は腕を組んでうなる。「いやあ、噂通り網走だけは本当に厳しかった。冬が寒くててたまらねぇ。だから『毛布よこさないと脱獄するぞ!』と看守脅しました」「プっ」思わず吹きかける看守。慌てて後ろを向いて数秒間。真顔になって受刑者の方に向き変える。「それで網走では?」

「今度は手錠すら全く外してもらえねえし、まともに用便もさせてもらえねえですよ。ありゃもう地獄でしたね」
「そ、それは、お前、本当に辛かっただろうな」看守は思わず受刑囚に同情した。目に涙が浮きかけている。「いや、同情してくれるだけでも恩に切りやす。その時手錠はスキを見て壁に何度もぶつけました。それから歯が折れるまで噛み砕いてやりましたね」

「......そこまでして、で脱獄できたのか」「ええ」受刑者は再び笑顔を取り戻す。「何せ網走といっても人間のつくった房。だから人間が破れぬはずはないと思いやした。だからしばらくは、わざと大人しくしてチャンスを狙ってました」

「チャンス? どうやってそれを」「いくら厳しいと言っても、毎日食事はもらえます。その時に配られる温かい味噌汁を利用ました」

「み、味噌汁!」看守は受刑囚の行っている意味が理解できず、思わず首をひねる。「実は味噌汁を脱獄防止の鉄枠に吐きかけるんですわ。そうしたら徐々に腐食して緩んでくるんです」
「なんということだ......」
「それからよく見ると独房の視察穴の鉄格子が、ガタついていたのを見つけたんです」

「うーん、普通は誰も気づかないことを。さすがだな」「そしてある日、刑務所が停電になりましてね。そのとき看守の交代が遅れたんです」
「その日が脱獄の」
「そうチャンスです。だから脱獄実行しました。この日が来ると信じてましたから。そして手錠も視察孔の鉄格子も、すぐ外れるようにしてましたので後は」
「ちょっと待て、手錠と鉄格子はわかるが、確か視察孔は狭いはずだが」「いやいや、実は俺、関節を自由に外せるんです」受刑囚はそういうと関節を外すふりをした。
「なんと!そんな特技まで」看守の口が開いたまま。
「ですから肩の脱臼を外して穴からヒョイッと逃げました」「ま、まるでマジシャンだな。お前、本当はそっちの道に行けばよかったな」

「もっと若ければ、弟子入りできましたね」「で、逃げられたのか」
「へい、後は屋上から建物外、工場の支柱伝いに逃げました」一般的には信じられないような受刑囚のテクニックの数々。看守はただ何度もうなづきながら腕を組み、ため息をついた。
「おまえ、あの網走を初めて脱獄したんだよなあ。伝説の男だ。で、その後は」

「2年間、山の中で過ごしました。ちょうど戦争が激化して終戦の時期ですわ。もう脱獄囚どころじゃなかったんでしょうね」「そうか、でも捕まった」

「へい、町に出ようしたら、運が悪かったですわ。スイカ泥棒に間違えられてしまって、相手がいきなり棒で殴ってきたから、反撃したら死んでしまいました」「力も強いんだな。これで4度目だな」

「へい、殺人までしちまったから今度は死刑。ふつうはひとり殺してもそこまではいきませんが、過去の脱獄の行いが悪かったようで」受刑者は小刻みにうなづきながら笑う。

「そのときはどこに?」「札幌の刑務所です。ここはさすがに厳しかった。常に4人が監視してましたからね」
「それでも4回目の脱獄をしたんだな」
「へい、死刑だけは嫌でしたからね。壁と天井は特別仕様で無理でしたが、実は床があった」
「床!」「ひそかに作ったのこぎりで、少しずつわからんように床を切りました」「相当な努力家だな。普通はそこまでできんだろう」
「床の下には土があるんです。で、食器と手を使って2メートルほど掘ったらあっけなく外に出られたんです」「本当に恐ろしい奴だ」
「その日雪が積もってましたから塀は簡単に出られましたね」「ふん、お前からすればな」
 看守はあまりにも壮絶な話が続くので、もう驚かない。「このときは1か月逃げましたが、職質を受けてつかまりました」「あれだけ苦労したのに捕まったのか?」
「その警官タバコくれたんです。だから彼の手柄にと自首しました」
「そうか。お前、根は、本当にやさしいんだろうなあ」看守は再び目に水が沸き出てきた。後ろを向き慌ててふき取る。

「でも、今度はいいことがありました。刑期が死刑から懲役になったんです。それも終戦後に日本に来たGHQが助けてくれたんです」
「GHQが?」「ええ、今までの刑務所では、俺に対する人権侵害が激しいからと、彼らの命令でこの府中に入れてもらいました」

「そうだったのか、でもここでは脱獄は考えなかったのか?」「全くありません。だってそれまでと違い。ここでは人間扱いしてくれましたから」と受刑者。ここで年配の看守が戻ってきた。

「よし、準備は終わった。出ろ」「へい」こうして受刑者は仮釈放される。「もう戻ってくるなよ」「へいお世話になりました」受刑者は一礼すると、ゆっくりと部屋を出た。ここで若い看守は思わず受刑者を追いかける。そして「さっきの話はありがとう。今度は正々堂々とシャバで過ごせよ」と、声をかけた。

 これは1961年の東京府中刑務所のできごと。4つの刑務所を脱獄した男・白鳥 由栄(しらとり よしえ)。昭和の脱獄王と刑務所の看守たちが恐れる存在であった男が、脱獄ではなく堂々と刑務所を出所した瞬間である。



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