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森林の中に入っていけば 第847話・5.20

「コンクリートのビル群とは大違いだ」社会人2年目の彼はひとりでハイキングに来た。バスに乗って終点のバス停まで来ると、もう歩いて向かうしかない。アスファルトの道路もここで終わっており、そこからは直接土が露出しているような道、ハイキング道となっていた。
「入社してからもらった有給休暇の初消化。これで今日から3連休だからな。ほんのしばらくだけど、あの息苦しいオフィスとはお別れだ」

 彼はそう言って勢いよく道に入っていく。最初は誰かが造ったような木の階段が続いていたが、やがてそれもなくなる。道はわかりやすくなっていてハイキングの道が続いていた。
 だが彼はあまりハイキングに来たことがない。来たことがないけど、ここに来たのはあまりにも都会での仕事で神経をすり減らしていた矢先、テレビで森林浴の特集のような番組があって、そこで映し出される緑の木々があまりにも美しくついつい憧れてしまったのだ。

 というわけで日帰りできそうなところを探して山に入った。だがこれが間違いだったようだ。よせばいいのに初心者用ではなく、中級者向けと書かれていたコースに入ってしまったから。
「ふん、俺は20歳代前半だ、余裕余裕」と、彼は山を舐めているとしか思えない態度で森林の中に入る。最初はよかったが、道幅が狭くなっていたのにそれに気づいていなかった。どうやら道を間違えて本来のコースから外れたようなのだが、彼は気づいていない。そこはいわゆる獣道。
「なんだこの植物は、シダ植物だっけ。気味が悪いな」彼の前では、いつの間にか前に進めなくなるほどの様々な草や木があるような森林で覆われだしていた。「あれ、前に進めないな。弱ったなあ」ようやく彼は気づいたが、今度はここがどこなのかわからなくなっている。

「あれ、途中で道を外した?」彼はしぶしぶ先に進むのをやめて引き返そうとするが、引き返したら途中から同じような森林に見えてしまい、本当にどこにいるのかわからなくなってしまった。
「ええ、マジで遭難とか」彼はスマホを取り出す。驚いたことに、山の中で電波が届かない。つまり電話ができないという最悪の事態。
「ち、ちょっと待てよ」急に焦りだす彼、全身から血の気が引いた気がした。耳に伝わるのは急に速度を上げた心臓の鼓動。
 その音が聞こえるだけでも気味が悪い。

「と、とりあえず頑張って戻るしかない。なあにまだ午前中だ。スタートしてからそんなに立っていない」
 彼はそう言いながら少しでも見た風景を見ながら戻っていく。だがやはりそこは慣れていない彼である。やはり完全に道に迷ってしまったようだ。「えっとこういうときは、確か上った方が良かった気がするな」
 どこで聞いたのか?彼は、勾配になっている山道を登ることにした。「登って頂上まで行けば視界が良くなる。そこまでくれば登山道があるはずだ」

 そんなことを言いながら彼は森林の中を斜面を這うように上る。目の前の草をよけながら少しずつ高度を上げていく。勾配はそれほど急ではないがそもそも登山道ではない。何もない木の覆われたところを歩いているから、なかなか前に進まないのだ。彼はそれでも「上がろうと」少しずつ上がっていく。若いから多少息が切れても大丈夫なようだ。それでも口の呼吸が激しくなる。休憩したいが森林の木々しかなくそんな場所がない。また勾配が激しいところでは足を滑らしたらひとたまりもなかった。
「す、少しでも広場になっていれば......」
 彼はそれでも賢かったのは水筒を持って来ている。まだ真夏ではなかったが汗がにじみ出ており、のどが渇いていた。これで水筒を忘れていたらシャレにならなかったのかもしれない。

 大木に身をゆだねると彼は水を勢いよく飲んだ。のどぼとけを動かしながら水を体内に吸収する。あっという間に水筒の3分の1は飲んだようだ。「よし、行くぞ」彼はまた森林の坂を上る。
 服には小さな虫などがついているし、もう結構汚れているが、そんなこと言ってられなかった。「うん、開けてきたぞ」ようやく彼にとってうれしい状況、上の方の視界が開けてきたようだ。「よしあの丘に登れば視界が見えるはずだ」

 彼はそう心の中でつぶやき、坂を上る。「あれ?」彼は途中から異変に気付く。その丘の上、山の頂上と思っていたところをよく見ると建物が見える。さらに車の音が聞こえた。そのうえよく見たらやや腰の曲がった白髪の老人が犬と一緒に散歩している人がいるではないか?

「あれ。あれれれ?」彼はさらに歩くと完全に森林から抜けていたが、上の丘に登る最中のところは緑の芝生になっていて、完全に人の手が入っていた。
「どういうこと」彼はスマホを見ると電波が入っている。位置を確認して気づいた。「これ、新興住宅地じゃん」と。

 やがてコンクリートの階段があったのでそれを上ると、「○○台」と書かれた住所表記のところに出た。

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 新興住宅地は標高の高いところにあり、その周りをバスが循環している。このバスに乗れば駅まで帰られるのだ。
「ちょっと、拍子抜けしたな」1時間近く迷った結果が新興住宅街。もう少し追い詰められていたら喜んでいたかもしれないが、何しろコンクリートのビルから逃げるように、森林のあるところに逃げてきた彼にとっては中途半端。

「でも、来た道は戻れんからね」彼は住宅地のバス停にいてバスを待っている間、谷の方向を見た。谷の底は森林が生い茂っている。そして暗い。「やっぱり自信ないもんな」最後まで谷を降りて帰ろうかと思ったが、やはり彼はあきらめ、ちょうど来たバスに乗り込むのだった。


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