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五百万石の田植えが終わって

「岡林さん。どうですか調子は」ちょうど田植えが終わった田んぼに来たのは内田という男。作業服姿の彼はある酒造メーカーの酒米担当である。
「あ、内田さん。今年も無事に田植えが終わりました」内田に応えたのは田んぼの主、岡林佳子。長靴を履いていて首には白いタオルを巻いている。そして水色の虫よけ帽子をかぶっていた。
「そうですか、今年もこの五百万石が無事に育ち、秋に首を垂れてくれれば、この冬からの日本酒の仕込みも楽しみです」
 内田は田んぼを改めて眺める。田植えが終えたばかりの稲はまだ小さいが、緑色した葉が浅い水の中で秩序を保っていた。そして真上を向いている。何の根拠もないが、ただ見ているだけで、元気に成長するような気がしてならない。

「ただ、息子がですね」佳子は小声で愚痴をこぼす。
「ああ、小学6年生の」「はい、蓮なんですが、最近米作りに興味をもってくれたんです」「それはいいではないですか! それが何か問題でも」

「ええ、興味を持ってくれるのはいいのですが、そのために私に難しい専門的な質問をしてくるんです」「へえ専門的な質問ですか」
「はい、でも私その質問に答えられなくてどうしたものかと」佳子はそういうと、首に巻いたタオルで汗がにじみ出ている顔を拭く。
「素晴らしいですね。蓮君はきっと後を継いでくれますよ。そしたら私が彼の疑問を解いてあげましょう」

「あ、今日は遊びに行ってます。たぶん帰ってくるのは夕方でしょうね」「そうですか」内田は顔を上げる。青空が広がっているが、この日は雲も多く浮かんでいた。

「うーん。そうしたら、もし岡林さんが良ければ、蓮君が遊びに行かない日を教えてください。僕そのときまた来ますよ」
「え、そんな。わざわざ蓮のために」まさかのことで慌てる佳子。

「いいですよ。蓮君がコメに興味を持ってくれて、この酒米づくりの後継者になることが、我々にとっては何よりも重要。酒は酒米がないと作れませんから」

ーーーーーー
 数日後、内田は再び岡林の田んぼの前に来た。この日は佳子の息子、蓮の質問に答える日。
 あらかじめどんな疑問を持っているのかを佳子から聞き出したので、内田の準備はばっちりである。
「蓮君、今日はお母さんに変わって、おじさんが答えます。どんどん質問してみて」内田は心配そうな佳子に、一瞬目で合図をおくる。佳子はその合図に小さくうなづく。その前には好奇心旺盛な蓮が目を輝かせていた。
「あ、お、おじさん。質問があります。ママは答えてくれないので」
「なんでもいいぞ。遠慮はいらない」

 内田はあえて余裕のあるしぐさを見せる。子供は大人が想像する以上に勘が鋭い。余裕がないとわかれば間違いなく舐めてかかられる。
「あの、五百万石というのは何ですか? 僕、最近江戸時代のこと勉強しています。そしたら大名という殿様は、10万石とか100万石とかそういう領地をもらっているような話を聞きました。でも僕の家は普通の農家です。そこに万石といわれても殿様のような豪華な生活してないし」

「ああ、なるほど五百万石のことだね」内田は余裕の笑みを、ふたりにわざと見せると軽く深呼吸。そしてゆっくりと答え始める。

「先に答えを言うと、コメの種類です。コシヒカリというコメは知っているかな」「もちろん!」
「そうか。そのコシヒカリは、食べるご飯のためのコメです。でも五百万石は違う。これは酒を造るためのコメです」「サケ?」
「うん、えっと、ええ」ここで内田は口をつぐんだ。そして佳子のほうを見る。その理由は佳子の夫、つまり蓮の父親は昨年病死した。そのことに触れていいかどうか戸惑う。

「あ、あのう。そう。パパが夜になったら良く飲んでたでしょ」機転が利いた佳子がすかさず話に入った。
「あ、パパ......」蓮の声のトーンが下がり一瞬落ち込んだ表情になる。優しかった父が突然病気に倒れて帰らぬ人となった。佳子はどうにかそれを受け入れられたが、蓮はそうではないのかもしれない。
「あ、うん、わかる。お酒ね!」しばらくすると蓮は元の表情に元気に答える。内田は安心した表情になると「そう、そのお酒を造るのに使うコメは、蓮君のお母さんが今作っている、あそこの田んぼで育てられています。そのコメの種類が五百万石なんだ」

「それは、わかった。けど何で殿様の領地のような名前なの」蓮の質問は鋭い。だが内田はこれも想定内。
「良いところに目を付けたね。そうさっきも蓮君が言ってたように、昔の殿様は100万石とか50万石とかいう単位で領地をもっていました。あの石(こく)の意味が分かるかな」
 内田による逆質問。蓮はこれは知らない。首をかしげて「わかりません」と答えた。

「うん、難しいかもな。石はコメの単位です。昔からお金は流通していましたが、日本はコメを主に生産していたので、多くの領地があれば多くのコメが取れます。100万石ならそれだけ多くのコメが取れた領地をもっていた、殿様になるんだ」
「ふうん、コメを多く作れるかどうかなのか」「そう、できたコメを売ればお金になる。そうするとその殿様の領地は多くの金を持つことになるんだ」
 蓮は内田の説明がわかりやすいのか、何度も嬉しそうにうなづく。それを見ていた佳子もようやく安どの表情を浮かべた。

「昔は石とか斗とか升という単位を使っていたんだ。でも今はリットルとかそういう世界の共通単位になりました。でも日本酒は昔からのこの単位を今でも使っているんだ」
「うん。で、五百万石という名前なのは? 僕の家そんなに多くのコメ作ってない」
「そう、ここで五百万石の説明にはいるね。日本酒を作るコメは、食べるコメもだけど、人工的に違う種類を交配してよりいいコメの種類を作ろうと努力しているんだ。この五百万石も今から80年ほど前、1938年に新潟県で人工交配によって完成しました。五百万石の父の名前が『新200号』母の名前が『菊水』と呼ぶんだって」

「ふうん、コメにもパパやママがいるんだ」驚きの表情をする蓮。このときには佳子も笑顔でうなづいている。
「そしていよいよ答え。最初は交系290号という記号のような名前でしたが、もっとなじみのある名前をつけることになったんだ。そして1957年に新しい名前が付けられて五百万石になりました。ちょうどその年は新潟県の米生産量が五百万石を突破したの。だからそれを記念したんだ。だから五百万石という名前が付いています」
 こうして内田は無事に答えることができた。顔では笑っているが、内心ほっとしている。
「おじさん、わかりました。五百万石の意味が。そうか新潟県のコメ生産の量なんだ。じゃあ僕の家もその一部かなあ」
「もちろんそう。だから蓮君がコメ作りに興味を持ってくれたら、ママやおじさんに相談しなさい」

ーーーーーー
「お忙しいところ本当にありがとうございました」帰り際に何度も頭を下げる佳子。
「いえいえ、岡林のご主人様をなくされたのにもかかわらず、こうやって田んぼを守り抜いている奥様には脱帽です。蓮君が後を継いでくれたら完璧ですね」

「ええ、そうなるといいのですが」佳子は少し硬い表情になる。
「また相談してください。田んぼを守ることが私たちの酒造メーカーの役目です。あ、それから」「はい」
「もちろん。蓮君の親代わりでも何でもしますので、では」と言って内田は車に乗り込んだ。

「蓮の親代わり......」佳子は内田が去ってからこの意味を考える。そして無意識に顔を赤らめるのだった。

 


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