タヌキの創作? 第937話・8.19
「今日の夜はやけにバイクが多いな」夜が寝静まった深夜、片道2車線のバイパス道路には、今日も爆音を鳴らしたバイクの集団が走っている。
その道路から少し外れたところ、邸宅のような大きな古民家がありその入り口に大きなタヌキがいた。タヌキといってもいわゆる信楽焼の置物である。
だが驚いたことに、深夜誰もいないときにタヌキは言葉を発した。「まあいいだろう。どうせあいつらはここには来ないからな、ふぁあああ、ちょっと休憩だな」
外見上タヌキの表情は焼き物だから変わらない。だが声が出ている。焼き物の中に魂のようなものが入っているのか?タヌキには意識があった。そして、夜間など人がいないときにだけ言葉を発するのだ。
「さてと、今日日付が変わって8月19日か、うん、そうそうこの日は俳句の日とか、後ろの家の主が得意げに言っておったな。そんなに言うなら俳句の一句でもと思うが、口先だけ偉そうなこと言っておきながら、どうせ俳句も川柳も作らぬ他愛のない野郎だ」
タヌキは家の主に愚痴をぶつけた。これはいつもではない。機嫌のよい日は主をむしろほめたたえる。今日不満を口にしたのは、目の前の状況であった。家主が悪いわけではない。今日暗くなる直前に犬の散歩を連れた人がいたが、こともあろうにタヌキの目の前で犬が糞をした。
にもかかわらず犬の飼い主は、それを全く気にせず、掃除もせずにとっとと先に行ってしまった。もう夜で時間帯が遅いから家主も気づいていない。
「朝になって慌てて掃除するんだろうか、ちっ嗅覚で、この臭いのわからんか?」
タヌキは目の前の糞が臭くて仕方がなかった。だが意識はあれど体は動かない。そこはしょせん信楽焼の陶器。目の前の糞をどうにかしたくても何もできないのだ。
「くそ、せっかくの深夜の休憩タイムが台無しだ」愚痴をこぼすタヌキ。とはいえ誰も聞いていないし、むしろ声を聞きつけて「タヌキがしゃべっている」ことがばれたらもっと大ごと。そのあたりタヌキとしても悩ましいのだ。
「何か気がまぎれんかなあ。バイクの奴が間違ってここにきて、この糞でも踏みつけてそのままたタイヤにつけて行ってくれりゃあいいんだけど、あああ、こいつらか、また来たよ」
タヌキがさらに不機嫌になったのは、ハエの存在だ。奴らは犬の残した糞に何を目的としているのかわからないが湧いてくる。
ハエが糞に群がるのは、そこから彼らなりに栄養を手に入れているということのようだが、タヌキにそのようなことがわかるわけがない。
タヌキは嗅覚に続き、視覚と聴覚にまで悩まされる。このときほど動ける人間がどれほどうらやましいか。
「何か気を紛らわそう、といっても何するんだ。うわ、もう嫌!」
タヌキは大いに苛立った。だがこのいら立ちが、タヌキに新たな知能を芽生えさせるきっかけになったのだから何とも不思議なこと。
「俳句って、確か5・7・5だったな。よし、ならば」ここでタヌキは置物でありながら一句を詠み始めた。
「『臭いハエ 家主も悪い ダメ散歩』どうだ、犬の散歩の奴が最も悪いが、気づかぬに掃除しない家主もダメだ。もうハエどもはうざいし臭い!」
不満をぶつけるも、それ以上に初めて創作なるものにチャレンジし一応それらしきものができたことで、内心満足気なタヌキ。
ところがここで想定外のことが起こってしまった。「おめえさん、まったく俳句をわかっちゃいないな。そりゃどちらかといえば川柳だぜ。ま、所詮、生命体ではないからな」ここでタヌキに話しかけてくるものがいる。「だ。誰だ!」タヌキは思わず声を荒げたがすぐに声を止めた。
もし声の主が人間であれば大ごとだ。そうであれば間違いなく「お化け!」と騒ぐだろう。だが翌朝になれば、頭の良い人間たちは音の主がタヌキの置物とわかる。そうなれば気味悪がれ、ここから連れ出されてしまう。最終的に粉々に破壊されてしまうかもしれない。
タヌキとしては、それだけは避けなければならなかった。
だが声の主は人ではなかったようだ。驚いたことに、目の前の糞に群がっていたハエの一匹。
「驚きなさんな。おめえさん同様にだ、俺たちハエも実は言葉が話せるんだぜ」一匹のハエはタヌキの目線に合わせてほぼ停止した状態で飛んでいる。
「ほ、本当か!」それには正直に驚くタヌキ。
「ああ、おめえさん同様人間たちにはわからねえが、つまりそういうこっちゃ。ていうかおめえさん、俺たちのことを『臭い』とか『うざい』って言わなかったか?」見事にハエに聞かれた暴言。タヌキは本当はそんなことがないのに、背筋から汗のようなものがしたたり落ちる気がした。
「い、いやあ、それ、あんたじゃねえよ。あんたが群がっているそれだ」タヌキは必至で言い訳。
「ふん、まあいいだろう。おめえさんには臭いものと映っているこの糞は、俺達には大事なもの。そんなに心配するなよ。さてと、今から空が荒れるな。俺たちゃ、そろそろずらかるぜ」米粒のような小さなハエの方が圧倒的に貫禄のある口調。タヌキは動けない分、明らかに不利だ。
「そうか、わかった。まあこれは夕方の散歩人間と後ろの家主の問題だ。あんたたちハエに言ったわけじゃねえからな。気分を損ねたら許してくれ」タヌキは丁寧にハエに謝罪する。
「もういいぜ、あ、そうだ、おめえさん、大事なこと言うの忘れてた。俳句っていうのは季語が必要なんだぜ」「キゴ?」どうやら聞いたことのないキーワードだったようで、思わずタヌキの声が高く裏返る。
「おう、俳句の中に季節の言葉を入れるということだな。今だったら『夏の夜』から初めて考えてみたらどうだ。じゃあ、あばよ」
そういうと一匹のハエは、タヌキの前を立ち去ると、糞に群がっていた他のハエたちも、それに追随し、糞の前からハエの存在は消えていた。
糞は先ほどよりも乾燥したためか、臭いが収まっている。やがてタヌキの背中越しから強力な風が吹き始めた。糞の臭いも風に乗って遠くへ飛んで行ってくれる。
しかしタヌキはそんなことよりも、本気で俳句を考えようと頭をひねる。「夏の夜か、なつのよる、うん、なつ、そうそう、で、えっと」こうしてタヌキは明け方まで本気で俳句を作ろうと頭を悩ます。
夜からの風は近くに台風が接近していたためのもので、やがて雨まで振り出した。どちらにせよタヌキは何もできない。でも頭の中は俳句のことで、ほかのことは何も考えられなかった。暴風雨は明け方まで続き、日の出の時刻のころにようやく収まる。気が付いたら暴風雨により糞はどこかに流されてしまったようだ。
この間タヌキは、暴風雨により体がよろけながらもどうにか倒れずに、持ちこたえた。
「うーんこんなのでも良いかな?まあ一句思いついただけ、家主に勝ったぜ」台風の風が強く雨はやんだが、引き続き収まらない風。それにタヌキは思いついたようだ。
「夏の夜 ひねる頭で 風に耐え」
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