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推しの芸人 第1031話・11.23

「やっぱ、そんなのやめよう」と蒲生久美子が何かつぶやきながらスマホを叩くように操作しているのを、横にいたパートナーの伊豆萌は不思議な表情で眺めている。

「久美子さん、さっきから何しているのですか?」萌の声にようやく気付く久美子。「ああ、萌ちゃんごめんね。ちょっと集中していたみたい」そういうと久美子はスマホの操作をやめて萌のところに行き、慌てて萌の両手を握る。
「あ、久美子さん」久美子に手をつながれると、萌は体をゆっくりと久美子の方に近づけた。表情がうっとりとする。
「萌ちゃんを寂しい思いにさせてごめんね」「あ、いえ、だ、大丈夫です。久美子さん」

 こうしてしばらくふたりの世界に入っていたが、やがて久美子は何かを思い出したのか、萌から離れてスマホを触りだす。今度は必死で指を動かしている。
「あの、久美子さん、あの、さっきから何を?」「え、あ、萌ちゃん。ごめん」慌てて萌のほうを見る久美子。
「いえ、いいんです。私は別に寂しくないですから」慌てて萌が答える。「あ、あ、ごめん、あの、実はね。萌ちゃん。ちょっと最近私にとって推しの芸人がいるの」と、久美子が言った直後に慌てて目を見開いた。
「あ、違うの、もちろん萌ちゃんは別だから」

 萌は慌てて作り笑顔。「わ、わかってますよ。久美子さん、私のことは、でも、その推しの芸人って誰ですか?」
 萌は純粋に気になった。久美子が個人的に推す芸人など誰でも良かったが別に最近久美子がテレビを真剣に見ている様子はないのに、推しの芸人がいると聞いたので気になる。
「誰だろう。テレビに出ている人で最近よく見るのは...…」

「あ、萌ちゃん!違う、テレビは出てないから」「え?」萌は驚いた。
 テレビに出ていない芸人だと、劇場でライブをしているようなお笑いの芸人、落語家とかそういうのを次に想像した。だがテレビに出ている芸人もあまり知らない萌が、テレビに出ていない芸人を知るはずが無かった。

「誰ですかいったい?」萌が問いただす。「うーん」久美子は固まった。またスマホを見る。萌は少し嫌な気分になる。「ちょっと、教えてください久美子さん!私に隠し事?」ちょっと強気に迫る萌。久美子は顔を上げるとスマホを萌に見せる。
「この人、私が推している芸人は」その芸人は動画で登場している。「そっか、動画、そういうことね」萌は久美子のスマホを眺める。だが萌が思っていたタイプの芸人ではないようだ。

「この人黙ったままね」萌はスマホの音量を上げてみる。だがやはり黙ったまま動いている芸人が映し出されていた。
「萌ちゃん、無理よ。それパントマイムだから」「え、パンと?」「そう、パントマイムは無言劇(むごんげき)ともいうそうだから、しゃべらずに身振り手振りのボディランゲージだけで表現するのよ」
「へえ、聞いたことはあるけど、こんなのまともに見たのは初めてかも」萌は真剣な表情で画像を見続けている。「でも、久美子さん、この人凄いですね」萌もパントマイム芸人の良さを理解してくれたことで、久美子も嬉しそうに口元を緩めた。

「それでね、萌ちゃん」ここから久美子が語りだす。久美子が言うには明日そのパントマイム芸人が近所の公園にきてパントマイムをするという情報を知った。それで行くべきかどうか悩んだ久美子は、そわそわしながらスマホを触っていたのだ。

「久美子さん、明日行きましょう。これ生で見ましょう」萌の一言で、久美子は決断できた。

ーーーーーー

 翌日、久美子の推しの芸人がパントマイムをするという公園に、ふたりは来た。仲良く手をつなぎながら来ると、すでに芸人の周りには何人かが囲ってその様子を眺めていた。
「あ、あの人よ!キャー」久美子は途端にテンションが上がる。萌はそんな久美子を見てやや複雑であったが、萌も芸人のパフォーマンスをじっくりと見ると「生で見たらやっぱりすごい!」と思わずうなった。

 芸人は黙ったまま手と足を使って繰り広げるパフォーマンスの数々、いつの間にかその芸に引き付けられる。まるで目の前が透明の壁があるかのように、手を開けたり、脚を小刻みに動かしながら喜怒哀楽の表情を使い分けて演じ続けるパフォーマンス。感動のあまり久美子も萌も思わず鳥肌が立つ。

 結局ふたりはそのまま30分くらい続いたパフォーマンスを見続ける。周りにいた人は途中から入替りなどしたので、最後までいたのは恐らく久美子と萌だけのようだ。最後のパフォーマンスが終わると、一斉に拍手が起こる。パントマイム芸人の前には、厚紙でできた箱がありお金が入っている。どうやらそこで投げ銭をするようになっていた。

「あ、あのう、萌ちゃん」「どうしたんですか久美子さん?」久美子が戸惑っている。パントマイムの方を見ながら萌の方を見ることを繰り返す。
「ごめん、近所の公園と思って油断して、そのちょっと小銭を貸してほしいなぁなんて」
「ああ、なるほど久美子さん、お金ね」萌は自分の財布から500円玉1枚を出す。「あ、ありがとう」久美子は萌に頭を下げるが、「どうせ一緒だから」と言って萌が久美子に渡さずに500円を芸人の前にある箱に投げ銭した。

「え、ああああ!」久美子は自分で手渡すつもりが果たせずがっかり。そのまま頭を下げて、静かに公園を後にする。
 いたずらのつもりでやった萌だが、久美子が落ち込むので萌は心配になった。

「久美子さん、そんなに落ち込まなくても、ごめんなさい」萌は謝る。「うん、いい、気にしてないから。家に帰ったら」
「あ、いいです。私おごります。だからね」「え、あ、でもこれって?」自分が投げていない投げ銭のおごりについて久美子は複雑な気がした。
 だけど目の前の萌が何度も謝るしぐさが可愛く感じたので、いつの間にか忘れて萌の手をやさしくつなぐのだった。


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