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湯上りの不機嫌 第948話・8.30

「ごめん、ちょっとゆっくりしすぎたわ。でもエドワード!いいお風呂だったわね」日本語堪能な英国人ジェーンは、金髪をなびかせながら、先に浴場から出て待っていたパートナーのエドワードこと江藤に、テンション高く駆け寄ってきた。
「え?そうかなぁ。ここはそんなに......」対照的に江藤は不満そうにつぶやく。
「せっかく久しぶりに天然温泉の出るスーパー銭湯に来たのに、どうしてそんな表情するの?」江藤の不満そうな表情を見て、自らのテンションも急降下。
「だけどさ、天然温泉といっても町中だからどうせ循環だろ。それに浴槽が少ないし、第一、ここ狭いしな」

「エドワード!もう文句を言わない。そりゃ上を言ったらいくらでも広いところがあるわ。ここは家から近いし、私は大満足ね」
 そこまで言うとジェーンは、併設している食堂の方に向かう。「おい、ジェーン、ここで食うのか」江藤はここではなく、近くの別のところで食事をするつもりだった。だが「エドワード!もちろんよ」と、ジェーンはすでに店の中に入り、席に座ろうとしている。江藤は首をかしげながらも後をついていく。

「何食べようかなあ」ジェーンはカラーでラミネート加工したメニューをじっくりと眺める。「うーん、いっぱいあって迷うわね」
「どうしようかなあ、仕方がないビールを飲もうか」江藤はとにかく喉が渇いていたようだ。もしかしたらそれが不機嫌な理由かもしれないと、江藤は思った。ジェーンが食べ物で迷っている間、さっそく生ビールを二杯注文する。
「あ、エドワード、ここでビール飲むんだ」「当たり前だよ。俺、喉乾いてるんだ。ジェーンのも頼んだよ」

 江藤はビールを注文した後、そのまま店内を見渡している。ちょうど視線の先にはビールサーバーが見え、そこでスタッフがビールを注いでいる。そのビールが自分の前に来てほしいと願っていた。もう喉が渇いているからビールで癒すことしか頭にない。

 ジェーンは相変わらずメニューを眺めている。「どうしようかなあ。飲むんだったら、肴かな」そうすると、おつまみ系のメニューをいくつか頼んだ。
 江藤はジェーンのことを気にすることなくサーバーの方ばかり見ている。スタッフが中ジョッキに入った。二杯のビールを継ぎ終わると。それを手にもってこっちに向かってくる。
「よし、来たぞ来たぞ」江藤は、まるで中毒者のように、そのビールを飲んだ瞬間を脳裏に浮かべた。今は喉が渇ききっている。正直声に出すのもつらい状況。それが冷えたビールと、のどに刺激をもたらす炭酸が一気に口の中や喉の奥までを変えてくれるその瞬間を、頭の中で想像しているのだ。

「よし、来た来た!」江藤はあと2メートルくらいまで来たスタッフを見て思わず口元が緩んだが、ここで想定外のことが起こる。なんとスタッフは、江藤たちのテーブルを無視し、そのふたつ隣の席に行ってしまった。どうやら先に頼んだ老夫婦の方にビールのジョッキが向かってしまう。
「ええ、ちょっと!」江藤はまた不機嫌になった。よくよく考えると50人くらい入れる食堂である。改めてみれば結構多くの人が入っていた。やはりみんな湯上りに頼むものとは生ビールと相場が決まっているのだろう。

「よし、次、あれだ」江藤は早くも次サーバーに継がれているジョッキを見る。ところがこれは1杯しか継いでいない。「あああ、」江藤はその瞬間無意識に気持ちが憂鬱になる。案の定ビールは、反対側のテーブルの方に吸い込まれていった。

「エドワード!」ここでジェーンの大声が耳に入る。「え、な、なに?」慌ててジェーンの方を見る江藤。「もう、さっきからビールばっか見ている。なんでそんなにビールなの。私はワインの方が好きなのに」
 ジェーンの表情は明らかに怒っている。少しだけだが目を吊り上げていた。この状況に江藤は焦り、ジェーンの機嫌を直すことを考える。
「そ、そんなに怒るな。ジェーンたぶん腹減っているから機嫌が悪いんだよ」と、なだめるがジェーンは不機嫌のまま。
「It's boring to just look at beer!(ビール見てるだけじゃつまらない!)」とやや大声で叫んだ。

「ああ、ごめんなさい」江藤は体をすぼめてテーブルに視線を落とす。その瞬間「はいお待たせしました!」とのスタッフの声と同時に、黄金色をした液体の入ったジョッキが二杯、江藤の視線の上からテーブルに向かって降りてきた。接触と同時にテーブルと衝撃した音が鳴る。

「やっときた!」江藤はうれしい。だが目の前のジェーンの機嫌が収まらないか心配になり、表情には出さない。ところがジェーンの機嫌は収まったようで、先にジョッキを手にしていた。「エドワード!何しているの。乾杯よ」
 ジェーンにそういわれてようやく江藤はジョッキを手にする。「カンパーイ」でジョッキをぶつけた後、江藤は即座にジョッキを口に運ぶ。恐らく1秒もかからない乾杯と口に運ぶわずかな時ですら、今からビールの冷たい液体が口の中を覆うという、瞬間の感動が頭の中に浮かんだ。
 その直後、ついに舌と喉に冷たい感触がリアルに入った。

「う、う、う、」喉を動かしながらビールをどんどんと流し込む江藤。ジェーンは4分の1くらいを飲んでいったんジョッキを置いたが、江藤はまだそのまま喉を動かしながら、黄金の液体を次々と体内に入れていく。
「ふ、ふふぁあああ!」ジョッキを口から外した瞬間、江藤の快感を表現した息と声が聞こえる。

 さらに江藤の表情は恍惚していた。よほど湯上りのビールがおいしかったのだろう。ジョッキを見るとすでに4分の1以下になっている。
「もう、お代わりを頼んどこう!」と江藤。それを見たジェーンは、「湯上りに機嫌が悪かったのはそういうことか、途中で水でも飲んだらよかったのに」と頭の中でつぶやいた。

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