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silent「18まで聞こえていた」で感じること〜一括りにできないもの

「彼は18まで聞こえていたんでしょ」

 ドラマ『silent』でろう者が言ったそうですね。
この言葉の意味、
「聴覚障害者」に括られた中にある
違いについて考えてみたいと思います。

 少しマニアックかもしれないですが
奈々(主人公を想うろう者)や美央(奈々の親友)の状況が分かると
彼らの切ない想いをより共有できるのかなと思います。

あんたはろう者じゃない

 私の職場には「聴覚障害者相談員」という方がいます。
各都道府県、市町村に設置されてきていて、基本的には「ろう者」が担っています。
手話のできる聴者の場合もありますが、
少なくとも私の職場(地域)は日本手話を第一言語とする、生粋のろう者です。

 地域のろう者の生活の悩みや不安、心配事を聞き、
機関につなげたり、間に入ってろう者の思いを代弁する役割を担っています。
相談員も「ろう者」なのは何故か。
それは当事者だから分かる、理解してくれると感じることで
安心して話してくれることが往々にしてあるからです。

 しかし相談員は耳が聞こえなければいい、ということではありません。
特に高齢の生粋のろうの相談者は
中途失聴者や難聴者等の相談員の場合、こう言って交代を要求することもあります。

「ろう者じゃないやつには相談できない」


“ろう者” の対義は健聴者か?

 相談者の言葉を聞いて、
“中途失聴者や難聴者を、生まれつきのろう者が差別している”
と感じた方もいるかもしれません。
同じ仲間じゃないか!と。

私たち聴者は
聞こえるもの=健聴者
聞こえないもの=聴覚障害者
と自然に分類しています。
“障害”という言葉がいい意味の漢字じゃないから、
「障がい者」「ろう者」と言おう、という配慮を持つ方もいるのかもしれません。
いずれにしろ

聴覚障がい者(ろう者) 対 健聴者 (注:この対は対立でなく、対義の対)

 しかしそれはろう者からすれば
必ずしも現実を分類していないと感じているのです。

先ほどのろうの相談者の気持ちを代弁すれば、こうなるでしょう。

ろう者 対 聴者、中途失聴・難聴者


ろう者 とは誰のことか

 ろう者が中途失聴者、難聴者を含まないなら、ろう者の定義は何か。

「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」―これが、私たちの「ろう者」の定義である。

木村晴美、市田泰弘『ろう文化宣言--言語的少数者としてのろう者』現代思想 23 (3),1996

 上記は『ろう文化宣言』というものです。
この詳細は後日としても、
ろう者にはろう者としての文化、言語、アイデンティティがあります。
それは聴こえに依るものとは少し違います。

 ろう者からすれば
ろう者=手話を(第一言語として)話す者
中途失聴・難聴者=日本語を話し、日本語文化を持った、聴者と同じ側の人間です。

 声で喋らなくとも、単語が手話から引用されているだけで中途失聴・難聴者の言葉は「日本語の文(文法)」。
ろう者から見れば、彼らは音声日本語同様、理解できない言葉(日本語)を扱う側なのです。
そのことは以前の記事にも少し載せました。

 相談時に思いを受け取って貰うなら、自分の自然な言葉で話せて
その真意もしっかり理解してくれる人に相談したい。
相談者の気持ちは差別とは別次元のものとして、とても理解できるものだと思います。


中途失聴者とろう者

 中途失聴者はそれまで声(音)の世界にいました。
聞こえなくなればそれを扱えませんから、
聞こえない不便や、聞こえないことそのものに不満や憤りを感じるかもしれません。
それを感じることはとても当たり前のことで、責めるのはそぐいません。

 しかし、それを聞かされるろう者はどう思うか?
そのつもりがなかったとしても、聞こえないことを否定されれば
自分を否定されたように感じ、傷つき、分かり合えないと感じるかもしれません。

 中途失聴者からしても、途中で聞こえなくなった絶望や苦しみは、
元から聞こえないろう者には分からないと感じるかもしれません。
ろう者にはろう者のコミュニティがあり、ろう者の言葉で理解し合えます。
耳のせいで日本語の世界に居られなくなり、
でもろう者の世界にも馴染めない。
この辛さをろう者に理解して貰うのはとても難しいことです。

 私たち聴者が一括りにしがちな聴覚障害者の世界は、全然一つの括りにできるものではないのです。


分断ではなく、違いを見る

 『ろう文化宣言』が出た時、
聴覚障害者同士の分断を招く、という意見もあり日本で論争となりました。
宣言した方々も然り、私も『silent』の想(主人公の中途失聴者)側と、奈々や美央(ろう者)側を分断させようとは思っていません。
大事なのは、分断という2分する見方ではなく、きれいごとではどうにもできないそれぞれの違い。

 それこそパーソナルに恋愛や結婚、家庭を形成していく上で向き合うと
言語だけでなく、生まれ育った環境や感覚、聞こえないことに対する捉え方、見えている世界…これらには根本的違いがある
ということです。

もう好き同士で揺るがないなら何も心配はありません。
受け入れ乗り越えていってください。
もはや乗り越えているでしょう。
そういった方も、当然たくさんいらっしゃいます。
でも、揺れているのなら絶対的にこれらは大きな不安要素になりうるだろうと思います。


「彼は18歳まで聞こえていた」

 私たち聴者が一括りにして見ていたものが、実は大きな違いがあった。
意図しているかは別としても、すごく深いものを表している言葉だと思います。

 私はドラマ見ていないのでどんな展開か知りません。
奈星さんとそい先生のやりとりでこの言葉があったことを知りました。
そもそも誰(どの立場の方)がどんな状況で発言したのか?
もう想くんと奈々さんはすれ違っちゃったのか?
何も知らなくて申し訳ないです。

 でもこの発言では、とても切ないやるせなさを感じます。
愛する想い、分かり合いたい想いはあれど、現実で期せず傷つけたり、根本的違いを実感させられる、結局はあちら側の人だ、
そんな状態が表れた言葉なのかなと想像します。

 今更知ったのですが、お友達の美央役が那須映里さんで、
手話講師役に江副さんだったんですね。
それなら、だいぶろう者のこと反映されているのではないかと推測します。
これからも何か気になるフレーズや場面があれば、取り上げてみたいと思います。
寧ろ見ている皆さんの疑問もあればぜひ教えてくださいね。




想はなぜ声を出さないの? 母の悲しみってある意味差別では?
こういったsilentの疑問に、事例を交えつつ私なりに考えを示している記事。
ドラマ評は見てないのでありません。どうぞ鑑賞の参考に。
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もし、ろう者や手話にもっと興味持った!という方がいればこちらを
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