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私の人生の原点 続編~別れそして出会い…私たちはずっと幸せだった。そしてこれからも~

「私の人生の原点 続編」
前回の記事は
こちらになります。


~祖父との別れ~

新しい年を迎え、
約1年間の休息を経た私たちは、
希望を胸に歩き始めていました。

そんな矢先のことでした。

それは、
平成19年1月3日の夜のこと。

「おじいさんがね
 いなくなってしまったの…」

実家の母から連絡が入りました。

午後3時頃、
近くの販売機に
飲み物を買いに行って、
それきり戻らないと言うのです。

家族で探しても見つからず、
今親戚にも連絡をしている
とのことでした。

祖父は大の甘党で、
UCCやジョージアの
ロング缶の甘いコーヒーを
好んで飲んでいました。

この日も、
缶コーヒーを買いに
出掛けたのだろうか…

私たちは
急いで実家に向かいました。

実家には、
連絡を受けた親戚の人たちが、
すでに20人ほど
集まっていました。

家の周りの田んぼや水路、林の中などは
数時間かけて
一通り探したとのことでしたが、
私たちは
居ても立ってもいられず、
同じ場所をもう一度探しました。

しかし、夜も遅く、辺りも真っ暗で、
その日の捜索は
諦めざるを得ませんでした。

翌日は、
警察や地域の方にも協力してもらい、
約100人態勢で
家の周囲2,3キロを中心に
捜索しました。

警察犬やヘリコプターでの
捜索も行いました。

この頃
祖父は80歳を越えており、
体力も随分と落ちていました。
自分の足では
そう遠くまでは行けないはずでした。

例年より
雪が少ない年でしたが、
辺りは一面雪景色が広がり
警察犬による捜査も
かなり難航していました。

もしかして、
事件に巻き込まれて
どこか遠くまで
連れて行かれたのでは…

良からぬ不安が
脳裏を過ぎりました。
もし、このまま見つからなかったら…
そう考えると
不安でたまりませんでした。

夕方になっても
手がかりがないまま、
この日の捜索も
打ち切りとなってしましました。

それぞれが帰路につき、
家の中では、
父をはじめ10数名で
今後についての話し合いが
始まっていました。

その時です。

消防団から
見つかった
との連絡が入ったのです。

発見現場が
水路の中と知らせれ、
皆が口にはしませんでしたが
祖父の死を悟ったのでした。

「きっと寒かっただろうから、
 毛布、たくさん
 持って行ってあげようね…」

叔母に言われ、
私は泣きながら毛布を握り締め、
車に乗り込み
発見現場へ向かいました。

大勢の消防団の人たちが
暗い寒空の下、
私たちが来るのを
待っていてくれました。

現場の水路は
実家から1キロも
離れていませんでしたが、
そこは、私はおろか
父さえも知らない場所でした。

というのも、
ここ数年、町の事業で
全ての田んぼが整備され、
実家周辺の景色も道も
だいぶ変わっていたのです。

祖父は、
なぜわざわざ
知らない道を通ったのだろう。
何をしようとしていたのだろう。

それは、後になって分かりました。

祖父はとにかく
体を動かして働くことが
好きでした。
私の記憶に残る
祖父の姿と言えば、
土にまみれ、汗を流して
いきいきと働く姿です。

しかし、ここ数年で、
すっかり体力がなくなりました。

休み休み
雪かきなどの家仕事をしては
気持ちを紛らわしていたようでした。

ちょうどこの時、
事故現場の近くで、
新しい会館を建てる
工事が行われていました。

生きがいをなくした祖父にとって
建築中の会館を見に行くこと
それはささやかな楽しみ、
冒険だったのかも
しれません。

若い頃であれば
簡単に行ける距離。
でもその時の祖父には
かなり体力がいる距離でした。

少しでも近道をと
知らない田んぼ道を
歩いて行ったに違いありません。

工事現場で
祖父を目撃した人がおり、
工事現場に祖父の杖も
残されていたことから、
工事現場に行った帰りの
事故だったことが分かりました。

冬の夕暮れは早く、
祖父は
杖を置き忘れたことにも
気付かず、
家路を急いでいたのでしょう。

慣れない道、迫る夕闇、雪道、
そんな悪条件が重なり、
うっかり農道から足を踏み外し
水路に転落してしまったのだと
思われました。

祖父は
農道の下を流れる
水路のトンネルの中で
発見されました。

皆が祖父を確認しに
水路へ降りていきました。

私も後に続き降りて行きました。

「いたいた!」

誰かがトンネルを覗き
叫びました。

私も恐る恐る
トンネルの中を覗きました。

そこには、
見慣れた深緑色のセーターを着た
祖父がうつ伏せにになって
横たわっていました。

水路にはわずかに水が流れており、
弱々しく流れる水は、
祖父の体にぶつかり、
チョロチョロと音を立てていました。

まるで
ドラマや映画でも
見ているようでした。

水路のトンネルの中で
倒れているあの人が、
自分の祖父だなんて…。

「おじいさん、おじいさん…」

私は人目もはばからず
狂ったように叫び続けました。

こんな近くにいたのに
どうしてすぐに
見つけてあげられなかったんだろう…
一晩ここにいて
どんなに寒かっただろう…

悲しくて悔しくて
涙が止まりませんでした。

すぐに水路から引き上げて、
毛布で温めてあげたいと思いました。

けれど、
警察が来るまでは
祖父の体に指1本触れることさえ
許されませんでした。

その後、警察が到着し、
祖父の遺体は黒い袋に包まれ
実家へ運ばれました。

その後の医師の診断で、
祖父の死因は凍死と判明しました。

警察の捜査や医師の診断が終わり、
再び祖父に会った時、
祖父は寝巻きに着替え、
温かい布団の中にいました。

祖父は口を空けていました。

あぁ、悠ちゃんと同じ…。

でも、その顔は穏やかに見えました。
まるで眠っているかのようでした。

転落した時に顔を打ったのでしょうか。
頬の辺りが少し腫れていました。

兄がロング缶コーヒーを
祖父の枕元にそっと置きながら
言いました。

「たぶん、頭を強く打って
 意識を失ったんだと思うよ。
 だから、苦しまずに逝ったんだと思う…」

兄の言うように、
寒さに凍えて死んだのではなく、
苦しまずに眠るように死んだのなら…
そう願わずにはいられませんでした。

私は祖父の顔に
そっと手を伸ばしました。

思い返せば
娘を亡くした時、
ほんの一瞬この腕に抱いたものの、
娘の肌に触れることは
ありませんでした。

死んだ人の体にじかに触れるのは
祖父が初めてでした。

家族でありながら、
正直、怖いと思いました。

静かにそうっと
祖父の顔に手が触れました。

あっ

それは生きている人の
肌の感触とはまるで違って…

祖父の肌は驚くほどに硬く、
氷のように冷たかったのです。

これが死ぬということ…

私は祖父の死を
認めざるをえませんでした。


それからは、
とにかく忙しくて、
祖父とゆっくり過ごす時間は
ありませんでした。

あっという間に
火葬の日を迎えました。

私は生まれて初めて
火葬に参列しました。

思いの他、
儀式は淡々と進み、
気が付いた時には、
最後の別れの時を迎えていました。

焼き場の扉が開き、
祖父の入った棺は
静かにその中へ入って行きました。

再び棺の蓋が開けられた時、
そこにあの祖父の姿はなく、
白い骨と灰だけが残っていました。

祖父を見送りながら、
私は娘の火葬のことを考えていました。

主人はこうして
娘を見送ったんだ…。
どんなに
どんなに辛かっただろう…。

また、
父がしてくれたことも
思い出していました。
娘の骨を小さな骨を
残さず拾ってくれたことを。

私は、祖父の骨を
最後の最後まで拾いました。


葬儀の後の会席の場で、
年配のある男性に
「子どものいない人に
 命の尊さは分からないんだぞ」
と言われ、はっとしました。

私は、孫代表のお別れの言葉で
命の尊さについて話しました。

そのことに対して言っていたのだと
すぐに分かりました。

そして、それは
早く子どもを作りなさいという
激励なのだとも。

ただその時の私には
その言葉を受け止めるほどの
器がありませんでした。

その後私はトイレへ行き
声を殺して泣きました。

後になって、その方にも
子どもがいないことに気付きました。
その言葉は
その方が周りから向けられ
苦しんできた言葉でも
あったのかもしれません。

そして、また、
私の心の中にも
元気な子を産んであげられない
自分を責める気持ちがあることにも
気付きました。

(このように
何気ない言葉に傷付くということは
その後長い間続きました)



火葬が終わって
数日経ったある日のこと。

その日は、
ニ七日か三七日の法要の日で
実家には
親戚が10人ほど集まっていました。

法要が終わり、
みんなで和やかに
団らんしていたその時。

ふと、私は
あることに気が付きました。

数日前まで
私の中にあった
深い悲しみや寂しさがなくなり、
心はとても穏やかで
安らいでいたのです。

そして、
不思議と
祖父が身近に感じられ
深い安心感をおぼえました。

祖父は生きている…

祖父の遺影に目をやると
ずっと側にいるからな…
そう言って
微笑んでいるように見えました。

おじいさん、ありがとう…

祖父に見守られ
私はとても幸せでした。

私にもいつか必ず
死が訪れる。
もしかしたら
それは明日かもしれない。
だからこそ、
今日という日を
悔いのないよう精一杯生きていこう…。
私は強く心に誓いました。


~3度目の妊娠~

祖父の49日法要の翌月。
生理が遅れていました。

これまでの私なら、
1週間の生理の遅れを待って
すぐに検査薬で調べていましたが、
今回は、なかなか
そういう気持ちになれませんでした。

妊娠していてほしい
と願う一方で、
妊娠することが
不安でもあったのです。

ただただ
時間だけが過ぎて行きました。

生理予定日から
2週間経っても生理は来ず、
つわりのような症状も
すでに始まっていました。

結局、
自分で確かめることも
出来ないまま、
病院へ行きました。

「今日はどうしましたか?」
受付でたずねられ、
生理が2週間遅れていること。
検査はしていないことを伝えました。

すぐに尿検査をすることになりました。

尿検査の後、看護師さんが、
「妊娠の反応が出ましたよ」
とこっそり教えてくれました。

「そうですか」
私は素っ気無い返事を
してしまいました。

喜ぶのはまだ早い…
まだ早い…
たとえ妊娠していても
無事に育つかどうかは
分からないのだから…
私は心の中で何度も繰り返しました。

また傷付くのが怖かったのです。

いよいよ検診が始まり、
超音波検査を受けることになりました。

機械が挿入され、
私の子宮の中が映し出されました。

そこには…
小さな
小さな赤ちゃんが
うつっていました。

その姿を目にした瞬間、
自然に涙がこぼれました。

私たちの赤ちゃん…

私はその瞬間
幸せの中にいました。

すぐに主人に連絡しました。
「良かった良かった…」
主人も心から喜んでくれました。

~不安な日々~

その後しばらくの間は、
いつ襲ってくるか
分からない流産に怯え、
不安な毎日を過ごしました。

唯一の救いは、
つわりが
続いていたことでした。

つわりがあるということは
赤ちゃんが
元気に育っているということ、
そう自分に言い聞かせました。

つわりは
日増しにひどくなり、
食べ物を口にすることも
動くことすら、
辛くなっていきました。

ピーすけの散歩も
時々休むようになりました。

今まで平気だった
ピーすけの匂いも
だんだん
苦痛に感じるようになり、
何となくピーすけを
避けるようになっていきました。

散歩にも行けない、
私の様子もどこかおかしい…
ピーすけはきっと
不安を感じていたに違いありません。

でも、その時の私は
自分のことでいっぱいいっぱいで
ピーすけの気持ちを考える
余裕がありませんでした。


そんな日が幾日か続いた
ある日のこと。

「ピーすけごはんだよ」
いつもなら
呼べばすぐにやってくる
ピーすけが
ずっと丸くなったまま
動こうとしません。

結局
朝ご飯は食べませんでした。

昨日からしきりに
お尻の辺りを
舐めているのも気になりました。

お尻の辺りを見てみましたが、
特に変わった様子は
ありませんでした。

お昼になっても、
食事には手をつけず、
相変わらず元気がありませんでした。

そして、やはり時折、
お尻の辺りを気にして
舐めていました。

主人からのメールに
相変わらず元気が無いことを
伝えました。

午後になり、
お尻を舐める回が増え
やがてそれは
止まらなくなりました。

やっぱり、
お尻の辺りに何か原因がありそう…

そう思った私は、
思い切って尻尾を持ちました。
「キャン」
ピーすけは
ひどく嫌がりましたが
「大丈夫、見るだけだよ」
そう言って半ば強引に
尻尾を持ち上げ、
お尻の辺りをよく見てみました。

肛門から
白い膿のようなものが
出ていました。
それは、
拭いても拭いても
あとからあとから溢れてきました。

一体どうしてこんなことに…

あまりのショックに、
つわりの気持ち悪さも
一気に吹き飛んでしまいました。

すぐに主人に連絡し
主人の仕事が終わりしだい
病院に連れていくことにしました。

いつもなら
玄関に出迎えるはずのピーすけが、
居間で丸くなって
じっとしているのを見て、
主人は一気に
心配になったようでした。

「ピーすけ大丈夫か、
 すぐに病院に
 連れて行ってあげるからな」

そう言って
主人はピーすけを
抱き上げました。

私たちは
病院へと急ぎました。

先生に症状を話すと、
すぐに肛門付近を圧迫し、
膿を搾り出しました。

「ギャン」
ピ―すけが苦しい悲鳴を上げ
主人にすがり付きました。

ピーすけの肛門からは、
血の混じった
灰色のゴマのようなものが
たくさん出てきました。

「細菌が入って
炎症を起こしたのでしょう」

細菌が入った原因までは
分かりませんでした。

確かなことは、
ここ数日
私の体調が悪かったこと。
それによって
ピーすけの生活リズムも
狂ってしまったこと。

ピーすけごめんね…

薬の投薬で
ピーすけの症状は
すぐに落ち着きました。

その後
1ヶ月以上
つわりが続きましたが、
できるだけ
普段通りの生活を心がけました。

ピーすけの一件から間もなく、
また、新たな心配の種が…。

それは、
妊娠3ヶ月を
迎えたばかりの頃でした。

通院していた県立病院の先生が
突然こう言いました。
「産婦人科が無くなることに
 なりました。
 1ヶ月以内に新しい病院を
 決めてきてください。
 紹介状を書きますので」

そ、そんな~

突然のことに、
頭の中が真っ白になりました。

とにかく
次の予約の日までに
別の病院を決めなくちゃ…

ところが…

県立病院の患者が
数少ない個人病院に
一気に押し寄せたため
既に受け入れが出来ない病院がある
との噂を耳にしたのです。

次の予約まで待っていられない…
そう思った私たちは
直接個人病院に
電話をしてみることにしました。

最初に希望した病院は
既に患者がいっぱいとのことで
受け入れを断られました。

このまま転院先が
見つからなかったら
どうしよう…
私は不安でいっぱいになりました。

幸いにも、
2件目の病院で
受け入れてもらえることになり
事なきを得ました。

(あれから17年。
街の産婦人科は減り続け
最後に一つだけ残っていた病院も
近々なくなくなる
との噂を耳にしました。
17年の間に
私たちの街は
子どもを産めない街になりました)

さて、一難去ってまた一難。

安定期を目前にした
4ヶ月のこと。

朝トイレに行った際
突然下腹部が張り、
痛み出しました。

我慢できない程の痛みでは
ありませんでしたが、
これまでの妊娠で
経験したことの無い症状でした。

過去に
様々なお産のトラブルを
抱えていたため、
先生には気をつけていきましょう
と言われていました。

不安になった私は、
すぐに病院へ行きました。

検査の結果
赤ちゃんにも母体にも
特に異常は
見つかりませんでした。

良かった…
悪いことばかり
想像してしまっていた私は
心からほっとしました。

しかし、
その後も
同じ症状が繰り返し起こり、
最終的に
薬の服用を余儀なくされました。

~喜びに満ちた日々~

つわりに加え、
ピーすけの一件、
突然の転院、
張りと傷みの症状、
様々な出来事が次々に起こり、
不安な日々が続く中、
ようやく
嬉しい出来事が起こりました。

それは、
妊娠5ヶ月に入って
間もなくのことでした。

私のおなかの中で
何かが動きました。

それは
とても懐かしい感覚でした。

それが胎動だと気付くまでに、
時間はかかりませんでした。

看護師さんからは
「胎動を感じるのは
 もう少し先でしょう」
と言われたばかりでしたから、
こんなに早く分かるなんて…
と自分でも驚きました。

これからは、胎動を通して
毎日赤ちゃんの無事を確認できる…

すぐに主人にも話しました。
「あのね、この辺がね、
 ポンコポンコって動いたんだよ」

ちょっと変な表現ですが、
その時の動きを表現するには、
この言葉がぴったりだったのです。

この日から、
自然とおなかの赤ちゃんを
『ポンコ』
と呼ぶようになりました。

私は、毎日
ポンコとたくさん話をしました。

始めのうちは
主人が手で触れても
分からないほど
小さな小さな動きでしたが、
6ヶ月にもなると、
主人の手にも伝わるほど
元気に動くようになりました。

主人は
手のひらを通して
ポンコの命とつながる喜びを
感じていました。

朝起きた時、
仕事に行く前、
帰って来た時、
居間でくつろいでいる時、
布団に入った時、
主人は1日に
何度も私に尋ねてきました。

「ポンコ元気?動いてる?」

私たちはきっと
心のどこかで
思っていたのでしょう。

ポンコに
もしものことがあったら
今度こそ
最初に気付いてあげられる人で
ありたいと。

あの時の悲しみは、
ポンコへの思いを
より深いものにしていきました。


転院先の病院では
性別は教えてもらえず、
相変わらず、
私たちはおなかの赤ちゃんを
『ポンコ』と呼び続けました。


7ヶ月。
ポンコは順調に成長し、
おなかの膨らみも
だいぶ目立つようになりました。

「おめでたですか?」
近所の人に
声をかけられることも
多くなりました。

胎動も日ごとに激しくなり、
手で触れなくても、
おなかを見ているだけで、
動いているのが
分かるようになりました。

その様子に、
主人は目を丸くして驚いていました。

「ポンコくすぐったい」
と1人でけらけら笑っていると
「いいなあ、お母さんは…。
 俺もお母さんになりたいよ」
主人はうらやましそうに
言いました。


この頃
私は再び裁縫を始めました。

以前作った
肌着のほとんどは
娘に着せたり
棺の中に入れてしまったので
ポンコに着せる分は
ほとんど残っていませんでした。

チクチク針仕事の日々。

肌着を数枚作った後
娘の時には作らなかった
スリングにも挑戦しました。

出来上がったスリングで
試しにぬいぐるみを
抱っこしてみました。

「あら、いい感じ!」

はしゃいでいる私を見て
ピーすけが、
ぬいぐるみにやきもちを妬いたことは
言うまでもありません。

今までずっと、
私と主人を独占してきた
甘えっ子のピーすけにとって、
ポンコが生まれることは、
人生最大の試練に違いありません。

正直私たちは
そのことが一番心配でした。

でも、そんな中、
ある方の子育てに
勇気をもらいました。

その方とは
『ベルナのしっぽ』の著者である
郡司ななえさんです。

郡司さんは、27歳の時に
ベーチェット病で失明しました。

失明しても、
郡司さんは決して
希望を失いませんでした。

健常者と同じように
子どもを産み
自分の力で育てたい…
そう強く願った郡司さんは
犬嫌いを克服し、
盲導犬の訓練を受け、
盲導犬と共に子育てをする
という夢を実現させました。

あの賢い盲導犬でさえ、
やきもちをやいて
郡司さんを困らせたと言います。

でも、その後の
子どもと盲導犬の姿は、
まさに本当の兄弟のようだった…
郡司さんはそう言います。

ピーすけも
いつかこの試練を乗り越えられる…
そして2人が
仲良く生活できる日がきっとくる…
私たちはそう信じました。


8ヶ月。
地域の運動会に参加しました。
もちろん、私は
専ら応援に徹しました。

私のおなかを見て
「ずいぶん大きくなったね」
「楽しみだね」
「無理しちゃだめだよ」
「日の当たらない一番良い席に座って
 ゆっくりしていてね」
と地域のみんなが私の妊娠を喜び、
温かく迎えてくれました。

家に帰ってから主人も、
「なんかさ、ポンコが産まれるのを
 みんな楽しみにしているみたいで
 嬉しかったね」
と喜んでいました。

ポンコは私たちの、
いえ、地域の、日本の、この世界の
大切な大切な宝物なのだと思いました。

どんな命も
かけがえのない大切なもので、
皆で大切に守っていくもの…
そんな風に思いました。


9ヶ月。
妊娠生活もあとわずかとなり、
急に気ぜわしくなってきました。

あれも作っておきたいな、
そろそろ買い物も済ませないと。

主人も何だか、
そわそわ落ち着かない様子です。
それに、
娘の妊娠中の時よりも
さらに輪をかけて
親ばかな言動が
目立つようになりました。

そんな主人を見て
義母は言いました。

「子どもが産まれたら、
 仕事に行かなくなくなるんじゃない。
 俺が主夫になるから、
 今度はなおちゃんが仕事をしてくれ
 なんて言い出すんじゃない」
「十分ありえますね」
私も笑いました。
当の本人も言いました。
「俺は親ばかになると思う」と。

~奇跡~

出産予定日当日の真夜中のこと。

わずかに
おなかの痛みを感じました、

明け方になるにつれ
その痛みは
十数分間隔で
訪れるようになりました。

いよいよその時が来たのだ
と思いました。

私は静かに気持ちを整えました。

シャワーを浴び
朝食を済ませ、
病院へと向かいました。

病院に着いて程なく
予想よりはるかに早く
分娩室へと通されました。

やがて陣痛は
激しくなっていきました。

この苦しみの先には
希望が待っている…
生きた我が子を抱ける…

その一心で
激しい陣痛に絶えました。

間もなく
正午を迎えようという頃
痛みがふっと消え楽になりました。

おめでとうございます。
男の子ですよ。

看護師さんの言葉に

ああ、生まれた…

ほっとして涙が溢れました。

一瞬だけ息子の姿が見えましたが
息子はすぐに
隣の部屋へ連れていかれました。

私はしばらく放心状態でした。

数分後
戻ってきた息子を見て
涙が溢れました。

生きてる…

ただただ嬉しくて
あとからあとから
涙が溢れました。

生まれた直後は
気付かなかったのですが
思い返せば
息子は産声を上げませんでした。

実は、へその緒が
二重に巻き付いていた
という事実を
後になって知りました。

無事でよかった…
心からそう思いました。

それからしばらくの間
私の気持ちは高ぶっていて
自分は一睡も出来なくても構わない
と思うほど
子育てに没頭しました。


さて、
心配していたピーすけですが…

ピーすけと息子が
初めて会ったのは
里帰りを終え
ひと月ぶりに
我が家へ戻った日でした。

ピーすけがどんな反応を示すか
私たちには
全く想像が付きませんでした。

息子に危害を加える事だけは
なければいいと
願っていました。

息子を抱いて
居間のソファーに座ってみました。

ピーすけは
ソファーに飛び乗り
私の隣に
ちょこんと座りました。

息子におっぱいをあげてみました。

ピーすけは、
おとなしく座ったまま
息子の様子を
じっと静かに見守っていました。

「幸せ過ぎて涙が出る…」

夢にまで見た世界に私はいる…

私は、幸せでいっぱいでした。


息子が生まれる前、
私はこんな未来を想像していました。

楽しそうに遊ぶポンコとピーすけ、
ピーすけのご飯を食べようとするポンコ、
私たちの目を盗んでいたずらする2人、
おもちゃの取り合いをする2人、
「いい加減にしなさい」と叱る私、
足の踏み場も無いほど散らかった我が家、
「やれやれ」と片付けをする私、
遊び疲れて眠る2人、
そして夜…
4人並んで布団に入る私たち。

私の思い描いていた未来は
本当に現実のものとなりました。

息子が生まれた後、
13年間
私たちは4人で
夢にまで見た
幸せな日々を過ごしました。

そして、
2020年9月26日
ピーすけは
私たちに見守られ
天国へと旅立ちました。

ピーすけとの別れはこちらを。

~おわりに~

これまでの人生には
たくさんの別れがありました。

辛いこと悲しいことも
たくさんありました。

でも、それらは
出来事のほんの一面であって
それらの別れや悲しみの裏側には
同じくらいの喜びや幸せがありました。

出来事の一面しか見なければ
私はいくらでも
自分を不幸にすることが出来
苦しみの人生を選択することも
出来たでしょう。

でも、ある時思ったのです。
私はこの命を
幸せになるために使っていきたい
そして、私の幸せが
周りを灯していけるような
そんな人生を生きていきたいと。

娘やピーすけ、主人、家族
人生で出会ったたくさんの人たちが
教えてくれたのです。

どんな時も
私は愛と共にあった
そしてそれはこれからも
変わらないのだと。



長きに渡り、
「私の人生の原点」
にお付き合いいただき
本当にありがとうございました。

ここからまた、
一歩一歩前へ進んでいきます。

naomi

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