日程を合わせなくたって会える人たちがいること
4年前、大学生活1年目のとき。
地元を離れ一人暮らしをする中で、大変なことに気がついた。
急に気が重くなったり、喜びをシェアしたくなったりするとき、その様子にまなざしを向けてくれる人がいない。
雰囲気を察して、「何があったの?」と聞いてくれる人がいない。
いつも自分のことを見てくれていた頼れるおばさんに「あんたなら大丈夫」って、言われることがない。
モヤモヤした胸の内や、ポワポワした温かな気持ちを誰かに伝えるには、LINEを開いたり、Twitterを開いたりしなくちゃいけない。
じっくり話そうと思ったら、気合を入れて日程調整しないといけない。
「じゃ、再来週に話そう!」だって?
そんなに経ったら感情も薄れてるだろうし意味ないよ。
と、こんなふうに感じるのって、僕が寂しがり屋だからなのか、他にも同じような思いを抱える人が多いのか。
<日程なんて合わせなくていい>
高校生のときまでは毎日ほぼ必ず会う人が何人もいました。ただ何も考えず登校すればよかった。
僕にとって、その人たちの存在は大きかった。特に、自分で仲間を集めて設立した生物同好会の4人。あと、朝一緒に勉強してくれた子たち。
彼らは「良き他者」でした。
良き他者とは、僕の中では、自分のできないところではなくできるところを見てくれて前に進む気持ちを湧かせてくれるような相手のことです。
辛いときや周りが見えなくなっているとき、自分が何を大事にしていたのか、どこに向かいたいのかを思い出させてくれるような存在。
この人たちがいるから自分を大切に思えるし、彼らが誇れるような存在であろうとがんばれるみたいな存在。
そんな存在と毎日直接会って、彼らが自分に目を向けてくれている状態がどんなに有り難かったか。
大学生になってからの生活が寂しさでいっぱいの自堕落なものになってやっと理解できました。どれだけスマホをダラダラ見る時間が増えたことか。
スマホに良き他者の不在を埋めることなんてできません。良き他者と過ごす時間はエネルギーを増やしてくれますが、スマホは奪っていってしまいます。
<街には多様な顔が必要>
こじんまりやっているバーやカフェに行くと、店の人と話すことがあると思います。僕はあれが大好きです。
人はたまに同僚でも友人でも家族でもない話し相手を求めていて、そういう時にバーやカフェに行くのかもしれません。人によってはタクシーに乗って運転手と話したり、キャバクラや交流会に行ったりする。
利害関係がなく、フラットにかつ肯定的に聞いてくれる、優しい人柄が滲み出ているマスターになら本音が言えるみたいなことってありますよね。
寂しい時に話したいバーのマスター、熱い思いを語りたい時に会いたい古着屋のオーナー、どうでもいい雑談をただ聞いてほしい時に会いたい喫茶店のママ。
別に話をしなくても、ただ役割を背負っていないときの自分を知って見ていてくれる人がいるだけでもぜんぜん心持ちが変わる気がします。
「あそこに行けばあの人がいる」という、タイプの違ういろんな顔が街にあると、いろんな気持ちを受け止めてもらえますよね。
通い慣れた店のマスターくらいの絶妙な距離感が、社会にいっぱい散らばっている方が、小さな悲しみややるせなさを減らせるんじゃないか。
僕の観察では、同じように思う人はたくさんいて、だから「いつか小さな喫茶店をやりたい」的な夢を持つ人が多いのかもしれません。
でも、場所を持つって、お金がかかって仕方がない。
実際、飲食店を始めたものの苦戦している方が多く、回転率を上げないと成り立たないからと結局お客さんと会話ができていなかったりする。
だからこういうのありかもと思ったのが、リモートで稼げる個人が、地方の安く借りられるところで儲かる必要のないカフェをやるというものだったりしたわけです。
<拠点を作りました>
寂しい一人暮らしの中でダラダラそんなことを考えていて、あれからしばらくが経ち、カフェではないですが、この度ビルの一階を借りて拠点をオープンしました。
日程調整をしなくてもふらっと立ち寄ったら僕がいて、対話によって自己認識を深められる場所です(僕はライターで話を聞いたり言語化したりは比較的得意だし好き)。
ふらっと寄ってもらって、しゃべる。
たまにちゃんと時間を決めて、取材する。
その繰り返しで、来てくれた人が自分の人生を前より少し愛せて、未来に希望が持てて、自分の価値観・好きを使って自分なりのやり方で挑戦しようと思えたらいいなと思っています。
もっとちゃんと掘り下げた理由とか、背景はこちらに書いたのでぜひ読んでみてください↓