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いじめ・虐待の根本・・・孤立としての異端者への攻撃性、自由を掴む生き方

本記事は、人によっては気分を害される内容かもしれません。しかし、介護という仕事を通じて虐待という攻撃性から考察したことをまとめた次第です。ご了承ください。


■ 孤立と死


社会とは、多くの人間が集まり活動することで成立している。
しかし、それは野生動物で言うところの「群れを成す」とは違う。

野生動物は生物としての本能として群れという集団を構築する。
”個”が群れから外れたとき、最悪の場合それは死に直結する。

しかし、人間は何かしらの意図や目的をもって集団を構築する。
しかし、”個”が群れから外れたとしても、別に死に直結しない。

言い方を変えれば、孤立したところで生物として死のリスクはない。

このような考え方を言うと、「人間だって集団から孤立すれば死んだのと同じだろう」と反論されるかもしれない。

もちろん、そのような考え方はできる。しかし、私が言いたいのはあくまで肉体的な死である。突然周囲に誰もいなくなったところで、不安や孤独感はあれど肉体的な死が急におとずれることはない。


■ 孤立に対する攻撃性


私たちは人間関係とやらを異常なまでに気にする。他人の目を気にしたり、他人から言われたことを気にしたり、他人の行動を気にする。

他人と自分を比較したり、自分も他人と同じであろうとする。

それの理由は、社会における孤立を避けることである。
そして孤立を避ける理由は、他人からの攻撃を避けることである。

他人からの攻撃を気にするならば、他人と関わらなければいいと思うだろうが、人間という生き物は時に孤立している人間を攻撃することがある。

ちなみにここで言う「他人」とは、自分以外の個人あるいは自分以外の集団を指している。また、ここで言う「孤立」とは、他人と関わらない1人きりの状態も含めて他人から”異端者”として見られている状態も指している。

そして人間は、異端者という意味で孤立している対象を見つけたときに「攻撃してやろう」「あいつならば攻撃していいだろう」という心理が湧くときがある。

おそらく、これが社会問題である「いじめ」や「虐待」の根本だと思う。
つまり、いじめや虐待とは、孤立という異端者に向けた攻撃と言える。


■ 古代の名残に振り回されているだけ


なんだか極論な物言いとなったが、あながち間違っていないと思う。

人間は古代においては野生で生きていたわけであり、その時代の攻撃性が遺伝子として残っている。それが何かしらのタイミングで異端者を見つけたときに「攻撃してやろう」という感情が湧き上がる。

しかし、それは文化や文明が発展した社会においては不要な感情である。

特にこの平和で安全な国において、理論も情熱も品性の欠片もない攻撃性という感情は、現代においては非人道的と言える。

つまり、孤立としての異端者を見つけたときに「攻撃してやろう」という感情をもっていじめや虐待という行動をする人間は、ただ古代の名残に振り回されているだけである。

そこに気づくことができれば、「そうだった、自分は原始時代の人間ではない。文明と文化が発達した理性で生きる時代の人間だ」として、他人に対して攻撃しようとする感情を止められる。


■ いじめや虐待はなぜ悪いのか?


このように考えると「いじめや虐待という行為がなぜ悪いのか?」という理由が見えてくる。

このように言うと「暴力が悪いのは当たり前だろう」と言われるかもしれない。しかし、いじめや虐待とは何も身体へダメージだけではない。

陰口や悪口を言ったり、意図的に孤立させようとしたり、相手の経済状態や日常生活に支障をきたそうとしたりすることも同様なのだ。

つまり、いじめや虐待は、身体的なダメージを与えなければ問題ないという意味ではないということだ。

では、いじめや虐待という、孤立としての異端者への攻撃がなぜ悪いのだろうか?

――― それは、いじめや虐待は「人間の尊厳を失わせる行為」だからだ。

人間は本来は自由である。または自由を掴む努力を許されている。

他人の価値観や立場によって侵害されるべきではない。

よく「いじめられるほうにも問題ある」という意見もあるが、その当人に問題があるとしても、攻撃していい理由になっていない。

そもそも、いじめや虐待をする側は自分たちの勝手な価値観や決めつけで「孤立している異端者」とターゲットを定めている。

「いじめられるほうにも問題がある」の問題と、いじめや虐待をする側の価値観や決めつけは、決してイコールにはならない。

要は、いじめや虐待というのは、それを行う側の”いちゃもん” や”言いがかり”によって行われているという話だ。そこに大義は一切ない。


■ わざわざ他人を攻撃する理由


そもそも、いじめられる側に問題があると言うならば、当人に改善を促したり距離を置くといった理性的な対応ができる。

また、その当人にいくら問題があると言っても、そもそも問題のない完璧な人間はいないという事実がある。

少し話は逸れるが、問題があるというのは本人の素養というよりその時点における本人のあり方ということもある。本人が時間経過とともに改善されることだってあろう。
 
もしかしたら、その当時は気づかなくても「あの時期の自分は駄目だったな」と当人が振り返ることもある。

その時点における他人をいくら責めても変わらない。つまり、いじめられる側に問題があるとしても、わざわざ攻撃することはないのだ。

わざわざ、いじめや虐待などの非人道的な行為をとってまで他人を是正する必要なんてないのだ。というか是正困難なのだから。

・・・しかし、いじめや虐待を行う側が、わざわざ攻撃するには理由がある。それは攻撃する側のメンタルである。

他人を攻撃する(責めるなど)タイプはおそらく・・・

自分に自信がない
何か不安要素がある
実力不足を感じている
他人を羨んでいる
環境に適応できていない
自分の立場を維持したい

・・・などあるのだろう。
その不安や焦燥感という不快感を解消したくて、そこに「あいつは攻撃してもいいだろう」とターゲットを見つける。そして、色々な大義名分をつけては攻撃する。

そのため、いじみや虐待というのは、それをやっている者たちからすると自覚がないというケースが多いのではないだろうか?


■ いじめや虐待はどうすればなくなる?


いじめや虐待はどうすればなくなるだろうか?

――― 残念ながら完全消滅はできないだろう。なぜならば、人間には攻撃性という古代からの名残があるからだ。

しかし、あえて活路を見出すとするならば、「いじめられるほうにも問題がある」から転じて「いじめる側の問題に目を向ける」ことではないか?

私は介護という仕事において虐待という攻撃性を考えているが、その多くは虐待を受けている高齢者ではなく、介護をしている人たちや高齢者の身の回りにいる人たちの精神面や生活環境に問題があると思っている。

残念ながら、私が運営している介護施設においても虐待に該当する職員はいたし、忙しさに追われると口調が荒くなる職員も珍しくない。

しかし、虐待(疑い)行為をしている職員は、それを指摘しても自覚がない。あるいは自覚があっても感情のブレーキが止められないということを語ってくれた職員もいた。

このあたりに解決というか緩和策があると思う。


――― 最後に。

いじめや虐待において被害者は悪くない。

「いじめられるほうに問題がある」
「虐待をされても仕方がない」

このようなことを言うような人たちは、文明や文化において自分たちが生きているということを振り返ってはいかがだろう。すると、私たち人間は、感情ではなく理性をもって生きるべきだと気づくと思う。

他人を攻撃することを考えるのは、現代においては暇人である。

もしも攻撃したければ、その手の競技に身を投じればいい。(おそらくボコボコにされるだろうが)

そして、他人に対して攻撃なんかしている暇はなく、自分たちがもっと自由であるために行動するべきだと思っていただければ幸いである。

ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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