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Q:なぜ私たちはコミュニケーションが苦手なのか? ⇒ A:人類としてまだ発展途上だから

介護の仕事はコミュニケーションが主体である。

オムツ交換や入浴介助といった体力作業でも、1つ1つの動作ごとに声掛けというコミュニケーションを図ることが重要となる。

なぜなら、1つ1つの声掛けがないと介助を受ける高齢者は自分の身に一体何が起こっているのか不安を抱いたり、次に何をすればいいのか困惑する。

不安や困惑を与えることは、高齢者介護および認知症ケアにおいて避けるべき事項である。だからこそ、体力作業であっても介護においてはコミュニケーションが必要なのだ。

また、いつもは不機嫌で介助に応じない利用者(高齢者)であっても、コミュニケーション次第で介助に協力いただけることもある。
ときには、最初は「自分には介護なんていらない!」と頑なだった利用者でも、徐々に信頼関係ができていくことで受け入れていただけることもある。

おそらく不安や困惑があるからこそ、不機嫌・怒鳴るという行為に至ってしまうかもしれない。それを少しでも緩和するためには、ただ介助を行っているだけでは成立しない、コミュニケーションという潤滑油が必要なのだと実感させられる。




このような話をすると「お年寄りと何を話せばいいのか分からなくて・・・」とか「コミュニケーションが苦手でして・・・」と悩む介護者がいる。

そして、コミュニケーションへの苦手意識が、日常の介助への苦手意識にもつながってしまう介護者もいるようだ。

特に相手(高齢者)が無表情であったり何を考えているのか分からない場合、認知症の症状の1つとして急に不機嫌になる・怒鳴り出すといったことがある場合など、まるで腫れ物を扱うかのように話しかけている人もいる。

そして、予想通り不機嫌になったり怒鳴られることが重なると、どんどんコミュニケーションに苦手意識が増幅していく。さらに介助そのものが恐くなってしまうという悪循環も生まれる。

介護の仕事を辞めるという理由の1つに「人間関係」が挙げられるが、このような高齢者に対するコミュニケーションへの苦手意識と、その状態で介助を経てのストレスが要因になっているのかもしれない。

もしそうならば、少しでも緩和できないものだろうか?
ただでさえ心身を摩耗する介護のストレスを軽減できないものか?




とは言え、ここで「こうすれば高齢者とのコミュニケーションができるようになりますよ」「高齢者との会話はこうすればいいですよ」と言ったところで、おそらく効果はないと思う。

辛辣なことを言うが、コミュニケーションというものに即効性あるメソッドはないという事実を受け止めたほうが良いと思う。もちろん、ないことはないだろうがそのメソッドは万人に通じるものではないだろう。

例えば、高齢者介護および認知症ケアにおけるコミュニケーションの基本でありスタートは「傾聴」「受容」である。しかし、傾聴1つとっても相手によって聞き方は変わるし、何をもって受容とするかも相手次第だ。

現実ではシミュレーションゲームのように目の前に3つ選択肢が出てくることはないし、仮に選択肢を選べたところで「パーフェクトコミュニケーション!」なんて表示が出て、相手の反応が分かることもない。

すべてはこちらの想像と仮説の域を出ない、それがコミュニケーションの現実だと思ったほうが良いかもしれない。

また、コミュニケーションに関するメソッドや考え方は世の中に数多とあるが、それを行動したり継続する人は少ない。それは「お金持ちになる方法」と同じくらいの話だと思う。




そもそも、コミュニケーションをとるのが苦手なのは当たり前である。
それは個人の話ではなく、人間という生物単位での話である。

と言うのも、長い長い歴史から考えると、人間が社会全体で言語を用いてコミュニケーションをとるようになったのは最近のことだ。

どこを起点として”最近”とするかは微妙だが、少なくとも文字や言語を用いてやり取りしていた時代であっても、人間はコミュニケーションよりも武力をもって種の繁栄を基本としてきた。
それがようやく平和と文明を基盤として、言語をもったコミュニケーションをとれるようになって現代に至る。

戦後から考えると、現代のようなコミュニケーションを主とした生活を私たちができるようになってから、まだ100年も経っていない。——―そう考えると、コミュニケーションが苦手なのは当たり前と言えないか?

しかも、コミュニケーションの基本スキルに誰もが不安を抱えたまま、現代ではスマホやSNSといった便利ツールも出てきてしまった。そのため人間は、便利になりつつもコミュニケーションというものに困惑しているのかもしれない。

冒頭で高齢者が不安や困惑が原因で感情的になる旨の話をお伝えしたが、コミュニケーションにおいて不安や困惑をしているのは、結局のところ高齢者だけではなく、現代を生きる全ての人達が対象と言えるのかもしれない。




つまり、高齢者とのコミュニケーションが苦手以前の話として、私たちは人類としてコミュニケーション能力が未だ未成熟なだけと言える。

このようなことを言うと、「いや、自分の周りの人達はコミュニケーションができている。それに比べて自分は・・・」と反応する方もいる。

しかし、そのような方が言う周囲の人たちに「あなたはコミュニケーションが得意だと思いますか?」と質問すれば、おそらく大抵の人はNoと回答すると思う。一方で「あなたはコミュニケーションに苦手意識がありますか?」と質問すれば、これは大抵の人はYesと回答するだろう。

これは確認しないと何とも言えないが、世の中で人間関係に悩む人が多いということから考えると、これは間違いとも言えないだろう。

となると、自分と周囲を比較したところで「自分も他人もコミュニケーションが苦手」となる。自分も含めた誰もがコミュニケーションが苦手と言うならば、それは苦手という概念は消失を意味する。

ちなみに、コミュニケーションが得意そうに見える人、あるいは得意と言う人がいるが、それは一部の勘違いを除いて言えば、誰よりも他者とのコミュニケーションを重ねて試行錯誤しているだけである。つまり、コミュニケーションに慣れているのだ。

それをコミュニケーションが苦手と思っている人たちが見たとき、自分と比較して「ああ、自分はコミュニケーションが苦手だ」と思うだけだ。比較するだけ無駄とは言わないが、比較対象にしないほうが良いかもしれない。



――― 極端かもしれないが、ここまでお伝えしてきたような理屈で考えれば「コミュニケーションが苦手」というのは当たり前と思えないか?

それはコミュニケーションというツールを、人間がまだまだ使いこなせていないだけということである。それを苦手というのは早計と言える。

コミュニケーションが苦手と悩むならば、私たちはまだまだ言語を用いての意思疎通が人類として発展途上だと思っていただきたい。


・・・ということを、私自身がコミュニケーションが不得意であることの言い訳にしておくとしよう。



ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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