見出し画像

重なり合うつぎはぎの時空と不協和音

マガジンご購読の皆様、こんばんは。いつもお世話になっております。夏に向かい、いっそう元気があふれる感じで、このところ、私は食欲が旺盛になっています。といっても、私はもともと2食以上食べる習慣はありません。旅行中などでたまに多めの2食とか、時に3食もとると調子が悪くなってしまいます。数学が大好きな私の場合は、食生活は整数ではなく、無理数です。だいたい2の平方根(ルート2、約1.41)か3の平方根(ルート3、約1.73)のどっちかです。少し前まで、ルート2食だったのが、食欲旺盛になってルート3食になってきています。


さて、また間があいてしまいましたが、過日の連載の続きをお送りします。


5.  重なり合うつぎはぎの時空と不協和音 - 充たされざる者 -

カズオ・イシグロが 1995年に発表した小説 The Unconsoled (充たされざる者)は、人の過去の記憶がいかに繊細でうつろいやすく、それでいて複雑に折り重なるものであるかを描いている。非常に長い小説であり、他の作品の3倍以上はあるだろうか。それでいて、ストーリーそのものはほとんど展開しない。こみいった話が延々と詳しく語られる。カズオ・イシグロ作品は、Unreliable narrator(信頼できない語り手)を特色としているが、この作品はその観点では、極致、究極の域に達している。いかに信頼できないかは、自明なレベルであるので、読者を惑わすテクニックとして使われているわけではない。そうではなく、人の記憶とは、見方によって、いかに信頼できないものあるかと気づかされるところにむしろポイントがあるのだろう。

物語の主人公は、音楽家、ピアノ演奏家として世界的に有名なイギリス人 Mr. Ryderである。舞台は、中央ヨーロッパ、大ドイツ圏にあると思われる架空の街である。 Mr. Ryderは、その街に招かれ、不思議な数日間を過ごす。物語は、ホテル到着から始まり、数日後の「木曜の夕べ」というイベントが終わるまでである。

わずか数日間しかないスケジュールであるはずなのに、Mr. Ryderは具体的なタイム・プラン、何日目の何時にどこで誰に会って何をするのか、ということを全く知らされていない。何度か尋ねて知ろうともするのだが、うまく聞き出せないままである。

ホテルや、イベント会場や、街のなかのいろいろな場所の地理関係もはっきりしない。おそらく通常の2次元の平面的な地図に表示させることはできないと思われる。距離あるいは空間配置の概念が根本的に違っている。

Mr. Ryderは、多忙の極限で溺れそうな状況であるにも関わらず、その間に出会う人々と、あまりにも長く冗長な会話をしている。さらに割り込みの頼みごとを、断ることなく、次々と引き受ける。その結果、スケジュールはますます無茶苦茶になってゆく。ひょっとすると、これは、現代日本の研究所や大学で働く研究者の姿、あるいは、もっと一般的にサラリーマンのリアルな日常と重なる部分もあるかもしれない。プールのなかを速く走ろうとしても走れないとき、一種の焦燥感を感じるだろうが、この場合、そもそも速く走ることがありえない設定であることに気づくことが重要である。

Mr. Ryderは、わかっていない道を車で運転し、バスや路面電車に乗り、複雑な建物のなかをさまよい歩く。ただ、本当に困ったとき、必ず、誰かが急に現れて道を教えてくれる。実は、その場所は遠く離れたところではなく、同じ建物の裏側にあり、目の前の扉を開けて少し進むと到達できたりする。もう間に合わないのではないかというような時間の使い方をしているのに、結果としてはつじつまがあっている。時間の経過は、通常の時計では説明できない。夜は非常に長い。大勢の人と長い話をし、いろいろなイベントに出て、それでいてよく寝ている。木曜日は夜明けが2回あったりもした。

さらに、おぼろげで不確かな記憶が急によみがえり、現実と重なってくる。Mr. Ryderは、ホテル到着の時に荷物係としてスーツケースを運んでくれた Gustav に個人的な頼まれごとをされた。Gustav には、娘のSophie、孫のBorisという家族がいる。しかし、Sophieと直接会話することはなく、孫ボリスBorisを通して話をする。

Mr. Ryderは、SophieとBorisにカフェで会った。会ってみると Sophie は、およそあり得ないことであるが、Mr. Ryderと初対面ではなく、ずっと前からの知り合いのように話してくる。どうも、Boris を含めて、家族として暮らしていたということのようである。Mr. Ryderも、1週間ほど前に Sophie と電話で口論したことを思い出したりする。

もちろん、本当に家族なのであれば、ホテルで会った Gustav も家族の一員であり、矛盾が生じる。さらに、Sophie と Boris の住んでいる場所を知らないというのもあり得ないことである。

このような調子で、異なる時空間の接続部分はことごとく破れている。にもかかわらず、何事もないかのように、さもそれが当然であるかのように話は進行してゆく。

この街にとっては、芸術・文化が非常に重要である。街の人々は、現状、危機に陥っていると認識して、新たな道を探ろうとしている。そもそもなぜ、Mr. Ryder が招かれたかと言えば、そのような転換点にあって、アドバイスを必要としているからである。だということのようです。

チェロ演奏家の Mr. Christoffは、これまで街に長く君臨してきた音楽家である。今では、芸術的水準が高くないと多くの人に言われているため、もうすぐ街を去らなくてはいけないし、その結果として妻のRosa にも捨てられるであろうことを覚悟している。

Mr. Leo Brodskyは、指揮者である。アルコール中毒になり、街の人々と摩擦を起こしていたが、「木曜の夕べ」イベントで再起を果たそうとしている。Miss Collinsは、Mr. Leo Brodskyの元妻である。

もう1人、音楽関係者として、Mr. Ryder の滞在しているホテルの責任者 Mr. Hoffmanの息子である Stephan Hoffman がいる。幼少時から英才教育を受けていたが、挫折した経緯がある。比較的最近再起して、「木曜の夕べ」イベントの前座で演奏することになった。

いろいろな場面で、市民たちは芸術・文化が熱く語っている。時には、特定の楽曲の細かな解釈も論じている。しかし、その割には、自分たちがどんな芸術・文化を求め、どのように生活のなかに取り入れてゆきたいのかは明らかではない。

第一、提供する側とみなされる演奏家や、芸術・文化の指導者たちの頭の中にあるのは、自分たちの名声や評価ばかりである。それは Mr. Ryder にしても、あまり変わらないのかもしれない。彼はどんな演奏をしたいのだろうか。どんな芸術・文化を街の人たちに語りたいのだろうか。その魅力は何なのだろうか。そもそも、なぜピアノの演奏をするのだろうか。その原点は何だったのだろうか。それらをすべて放置して、評判ばかりを気にしていて、臆病で小心にも見える。

もう1つ、この小説で、重く取り上げられているのは、うまくいかない家族の問題である。そこに芸術・文化が重なっている。Mr. Christoffと Rosaの関係、Mr. Leo Brodskyと Miss Collinsの関係、Stephan Hoffmanと両親の関係、さらにMr. Ryderの父と母の関係、そこに投影されていると思われる SophieとBoris の関係が取り上げられている。そのどれもがうまくいっていない。どの個人も一所懸命なのであるが、うまくやろうとする方向がどうも不器用にずれている。相手を思いやり、気遣っているように見える場面でさえ、本よい方向に進まない。

きっとごく普通の人たちは、もっと自然に振る舞うだろうと考えられる。無理しなくても、もっと楽しく毎日を一緒に笑ったり泣いたりして過ごしている。何よりも時間を共有すること自体が有意義で、かけがえがないものである。その蓄積じたいが幸せである。この小説の登場人物たちには、そこが大きく欠落している。

このような家族の問題は、Mr. Ryder自身の問題でもある。Mr. Ryderの父母は仲良くなかった。しかし、なぜだか、この「木曜のゆうべ」の演奏を聴くためにやってくるという設定になっている。Mr. Ryderはなんども主催者にちゃんと手はずは整っているのか、丁重に扱ってくれるかとしつこく確認している。その割には、いつどうやってやってくるか、そもそも元気なのか、これまでどうしていたのか、Mr. Ryderは何一つ知らない。実のところ、Mr. Ryderの父母が演奏を聴きにやってくるというのは、勝手な思い込みに過ぎないのだが、なぜそう思い込んだのかさえ、本人も含め、誰にもわからない。

物語のなかでは、時間は相対的であるが、時折、特に、Sophie が、時間の有限性、不可逆性に言及して警告を発している。「あっという間に時間が過ぎてゆくのよ」と。

老いた Gustav は「木曜のゆうべ」の直前に亡くなった。Gustav がいつまでも若いと時と同じように壮健で働けないこと、Borisが幼くて、親に甘えて過ごす時間は、その時にしかないことを Sophie は何度も言っている。

物語の最後は、読み始めた時には、まず予想できないものではないか。なぜならば、Mr. Rydeは、「木曜のゆうべ」で、結局、ピアノ演奏を行わないのだから。それだけではない。そこで起きることは、ことごとく予想を裏切るものばかりである。「木曜のゆうべ」では、Stephan Hoffmanがピアノ演奏をするというのに、両親は立ち去ってしまった。本人はピアノを離れ、両親を追うが、聴衆はそもそも演奏ではなく、技術者がテスト、調整をしているのだろうとしか思っていないので、何の騒動にもならない。彼は再びピアノに戻って、演奏を行った。この演奏は立派だった。その次は、Mr. Leo Brodsky指揮で、オーケストラの演奏である。だが、その Mr. Leo Brodskyは、あろうことか、コンサート直前に飲酒運転で交通事故を起こした。さらに、ありえないことに、車に挟まれて出られなくなったということで、足をのこぎりで切断されてしまった。そのような無茶苦茶に見える設定のもとでも、本人はやる気まんまんである。アイロン台を松葉杖のようにして使って、ステージに登場した。直前に転倒したが、それでも、気丈に立ち上がり、指揮台に立った。聴衆は、ずっとただの酔っぱらいだと思い込んでいるので、Mr. Leo Brodskyの覚悟がわからない。第1楽章はよかったのだが、第2楽章に入って、指揮者と演奏者の不調和が目立ち、また聴衆の集中も解けてきた。Mr. Leo Brodskyも、足の痛みがひどく、途中で、ついに転倒し、演奏は中断することになった。Miss Collinsは、Mr. Leo Brodskyの指揮を見に来てくれたが、結果としては、自分の最後の心の整理をし、完全に別れるきっかけとすることになってしまった。

そんなわけで、Mr. Ryderは、ピアノ演奏は結局行わないことになった。そもそも、Mr. Ryderは、いったい何のために、この街に来たのだろうか。「木曜のゆうべ」ではピアノ演奏もなし、スピーチもなし。その前のパーティーでもスピーチすることになっていたが、実は、一言、何かを叫んだだけ。だが、翌日以後、いいスピーチだったという話で持ち切りだったと誰もが話している。「名声」や「評価」とは何かということを、ある意味、皮肉に示すエピソードと言えそうである。

他方、「木曜の夕べ」はただのから騒ぎではなかった。若い Stephan Hoffmanは、「木曜の夕べ」の前座の演奏で、想定外の拍手をもらったが、同時に、その自分の演奏の未熟さを悟り、聴衆の評価の基準というものも理解するようになることができた。異常な条件のもとで行われた Mr. Leo Brodsky指揮の演奏の音楽としての水準の高さを理解し、評価することができた。他の誰もがわからなくても、Stephan Hoffmanは自分の目と耳とすべての感覚を使って、正しく受け止めることができた。その結果として、街を出て、広い世界でもっと学ぼうと決意するに至った。

Mr. Ryderは、「木曜の夕べ」イベントの事件の後、誰もが朝食をとり、歓談するのに忙しく、やがて、会場に戻るのではなく、帰宅してゆくのを見た。誰も自分などに、もはや関心を持っていない。

Sophie と Boris の姿を見つけ、追いかけるが、Sophie は、これまでとは違って今度は Mr. Ryderを頼ったり、迎え入れようとしたりしない。「次のヘルシンキでのお仕事をしっかりなさったら」みたいなことを言い、冷たくあしらった。Boris は一緒にいたそうだったが、結局、Sophie とともに去って行った。残された路面電車のなかで、乗客と語り合い、朝食をとり、少し元気をだすというところで物語は終わる。

人には、忘れていたはずのことが、実はどこかで眠っていて、何かのきっかけて浮かんでくるという場合がある。そして、異なる時期の過去の記憶が重なるパラレルワールドが脳裏に描かれる。この小説では、それらが無理やり折り重なり、あちこちに不連続部分がむき出しになっている。その不連続なところでは、たいてい誰かが不機嫌になり、Mr. Ryder自身、あるいは Sophieが怒ったりしている。どうも、不連続部は誰にとっても苦手のようである。パラレルワールドのどの部分も、それなりに真実の重みがあるが、自己の意識に投影されるとき、そこに齟齬が生じることがあるのだろう。それが自分で許容できないということなのかもしれない。

Mr. Ryderに寄り添って読んだ読者には、ピアノ演奏もせず、街の誰からも関心を持たれないまま、ただ去るしかないラストシーンの痛みは沁みるだろう。人生とはこのようなものだとわかっていても、Mr. Ryderは寂しく、悲しい。だが、そんな Mr. Ryderも 親切に語りかけてくれる見知らぬ乗客に元気づけられる。到着の時に名士としてちやほやされていたのとは、まったく違う暖かさがそこにはある。


マガジンご購読の皆様へ


私の有料マガジンをご購読の皆様に御礼申し上げます。数あるnote のクリエーターのなかから、また多くあるマガジンのなかから、わがマガジンをお選びくださいまして誠に有難うございます。

2021年は、よりよいものに改良します。2021年、私はマガジンご購読いただいている皆様とのコミュニケーションをよりよいものとする1年にしたいと願っております。

今後とも、マガジンをよろしくお願いいたします。

ここから先は

95字

本マガジンでは、桜井健次の記事をとりあえず、お試しで読んでみたい方を歓迎します。毎日ほぼ1記事以上を寄稿いたします。とりあえず、1カ月でもお試しになりませんか。

現代は科学が進歩した時代だとよく言われます。知識を獲得するほど新たな謎が深まり、広大な未知の世界が広がります。知は無知とセットになっていま…

この記事が参加している募集

読書感想文

いつもお読みくださり、ありがとうございます。もし私の記事にご興味をお持ちいただけるようでしたら、ぜひマガジンをご検討いただけないでしょうか。毎日書いております。見本は「群盲評象ショーケース(無料)」をご覧になってください。