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静かな情熱で常識を打ち破る 言葉を学ぶということについて

 私は昔から語学に関心がある。だから、外国語を学ぶのは好きである。苦手だという友人に言わせると、これは変な趣味だという。私からも言わせてもらうなら、これは趣味ではない。趣味という時、暗示するものはいくつかあると思う。真に純粋に好きだからやること、という意味と、もうひとつ。
 実利につながらないのに酔狂なことやってる、という意味。

 結論として、酔狂でも構わない。好き好まない人がいることはよく知っているし、私だって、自分が好きでもないことを毎日嬉々としてやっているという人には同じことを思う。ただ、私にとっては、それは単なる趣味ではない。毎日歯磨きするのが趣味です、という人はあまりいないだろうし、ご飯を食べる前にいただきますというのがやめられない趣味です、という人もいないだろうと思う。つまりそういうものである。それをやって毎日を過ごすのが当たり前のもの、なのである。

 毎日やっていれば、相当なものなのでは、と思われるのだが、これにも説明が必要である。語学に心血を注いだことのある人や、苦労の経験がある人にはきっとわかってもらえると思うが、毎日やるというだけで、おいそれと上達するものでもない。もちろん、継続は力なりをこれほど実感するものもないから、確かに多少は進歩している。ただ、語学に終わりはないし、多くの場合、それなりにサマになるまでに無数の壁があるので、なかなか前に進むことはできないのだ。だから、私には自信を持って、できます!と言い切れる言語はない。

 今の所、英語は最も長く勉強している。中国語がその次くらいに長い、といっても、長期にわたって中断してしまったので、信じられないくらい多くのことを忘れてしまった。数年分を取り戻さなければいけない。スペイン語は最も最近始めた言語だが、忘れている中国語をそろそろ超えそうになってきた。英語、中国語と、私なりに苦労を重ねてきたので、外国語を勉強するためのコツみたいなものが多少ある。だから、スペイン語を始めた時に、同じ轍は踏むまい、と反省をこめていくつかのことを試した。

 例えば、語彙を早期にたくさん取り入れること。入門だから簡単な言葉だけ覚える、というのは大人の学習者としてはもったいない。すでに高度な言語と概念のネットワークが脳内にあるのだから、それを活用しない手はない。英語を初めて勉強した時ならいざ知らず、りんごとかペン、とか言ってる場合ではないのだ。もちろん、身の回りの簡単なことを言えるのは大事で、りんごとかペンだって必要な言葉だ。だけど、さっさと次に進んで良いと思う。まだ、それらを使った文章をすぐに作れなくたって良い。なぜなら、語彙は繰り返すごとに記憶が定着するものなので、さっさと覚えて何度も使ったり目にしたりした方が良いのだ。

 言語習得の過程では、自分のこと、自分の周りのことが言えるようになるのは初期の段階であると言われる。もっと広い周囲のこと、たとえば社会的・国際的なこと、が言えるようになるためには、より高度な知識が必要になるとされる。だから、難しい語彙を自分で使えるようになるのは、少し先になるかもしれないが、覚えていれば、文章を読んだりする時に目に入ることがある。自分でまだ使えなくても、読んで理解した、というプロセスを経験できれば記憶の定着にまた一歩近づくわけである。

 次に、英語がある程度できるなら、似た語順の言語は英語で学ぶのが楽だと思う。その次は、さらにどの言語で学ぶかの選択肢が増える。日本語だけを入り口にする必要はなくなる。多くの人が経験している通り、英語と日本語の構造の違いが頭の中で理解する時の妨げになることは、長らく私を苦しめた。英語を英語の語順のまま理解する練習は役に立ったが、日本語の対訳と英語を並べて勉強する限り、構造の違いは頑然としてそこにあった。

 偶然、英語話者用のスペイン語学習アプリを見つけたことで、なんの気なしに、英語でスペイン語を勉強し始めた時、私はちょっとびっくりしたのだ。英語とスペイン語の近さに。まさに、単語を入れ替えていくだけで、文章ができてしまうのである。それこそ語彙さえ取り込めたら、ある程度まで一気に理解できてしまう。もちろん単純な文章から一歩先に進むと、単なる置き換えでは用が足りなくなるが、「ある程度」になるまでが、本当に簡単だったのだ。英語で苦労した甲斐があったのかもしれないけど、英語話者はこんなに簡単にヨーロッパ言語を習得できるのか、と嫉妬すら感じた。そのせいで、スペイン語簡単じゃないか、と油断したことも正直に明かしておきたい。すぐに次の壁にぶち当たり、そこで長らくもがいていた。今はようやくその壁を乗り越えようとしているところだ。乗り越えながらもう次の壁も見えてしまっている。でも問題はない。これは語学の通常のプロセスであり、この困難さを含めて私は好き好んでいる。

 ここまで書いたように、外国語を学ぶ時に避けて通れないのは、新しく言葉、つまり物の名前や単語、を知ることである。そして、そこには今まで自分が発したことのない新しい音が付随している。受験のために英語を仕方なく勉強した、といういわゆる語学嫌いの人にとっては、これこそがやっかいで面倒なことであったと思うのだが、しかしこれは私が言葉を学ぶ時にわくわくすることのひとつでもある。よく考えてみてほしい。多くの人は、大人になるまでに、少なくともひとつの言語を自分なりに操ることができるようになっている。この時、脳には言葉と概念のアーカイブができあがっている状態である。ある言葉を聞けば意味がわかり、頭の中にある概念を言葉を使って表現することができる、ということだ。本来はこれで十分なはずなのだ。人が人として思い、考え、理解するには、十分なネットワークがすでに完成している。ところが、新しく言葉を覚える時に起こることは、このネットワークをベースとして、新たな別のネットワークを作り上げるようなものなのである。音と概念のつながりが新たにまた構築されるわけである。思考のために十分な知識を持っているのにも関わらず、更に機能拡張するようなものなのだ。

 さらに、音声についても同じようなことが言える。多言語環境にある人を除き、一般的には聞き馴染んだ言語の音に取り囲まれて日常を過ごすことになる。しかし、外国語を学習する時は、聞き慣れない新しい音を聞き、そこから意味を掘り起こそうとする。ここでもまた、想像してみてほしい。これまで意味をもった音として聞こえなかったものが、意味のある言葉として耳に入ってくる初めての瞬間を。そこにある人の思考と思いが、意味を持った言葉とともに自分の頭に入ってくる様子も。これが、自分の脳が新しい扉を開いた瞬間でなくてなんなのだろう。今、目の前にあるそれは、ピーシーやスマホではなく、laptop(英)・ordenador(西)、筆電(中・台湾)かもしれないし、手机(中国語・簡体字)かもしれないのだ。
 外国語を学ぶことは、日常の当たり前をも、打ち壊していくことであるといえる。

 多くの場合、異なる言語には異なる発想が隠れている。例えば、空腹を訴える時、日本語でもいろいろな表現があるが「お腹がすいた」という言い方がある。わざわざ「私のお腹」と言ったりはしないが、そう言っている人のお腹が空腹なのだ、ということは聞く人にわかる。また、私が何かをしたのだ、という言い方ではないから、勝手に自然に、自分の意志とは関係なくそうなったのだ、という状況もなんとなくではあるが伝わる(ような気がする)。英語や中国語にも似たような表現がある。
 一方、スペイン語の場合は、こちらもいろいろな表現があるものの "Tengo hambre."という言い方がある。そのまま訳すとすれば「私は空腹を持つ」というような意味になる。「空腹」は手で持てそうにないものなのに、持っているという。それでも「持つ」という言葉からこれも私の個人的なイメージではお腹のあたりに何か抱えているような様子も想像ができるから、うんそうだね、お腹が空いたんだね、と理解できる気がする。日本語では空腹を表すのに、何かを持っているという表現をすることはないから、これは私の脳にとっては新しい発想だといえる。

 また、言語によってどんな視点で何に注目して語るかは異なる。人の感情の表し方や、比喩、事象を表すにもどこに目をつけるかが違うのである。だから外国語を学ぶ時には、あぁ、この言葉を使う人は、そういう感覚でこの感情を味わっているのか、と想像してみたり、描写するときの目線の違いを新鮮に眺めてみたりすることができる。目のつけどころが違う、というわけである。普段、人と話していて、あぁそうか!とひらめきを得ることがあるが、その場合も新しい視点が得られたときであることが多い。それが、言語を学ぶ時は常に起こるわけだから、これほどひらめきに満ちた時間はないのではないかと思う。
 新しい視点、新しい思考、新しい感覚。これらは、脳の中の、まだ使ったことのなかった新しい場所を刺激する。

 そして、もっと注目しなくてはならないのは、これほどに多くの言語を生み出した人間の脳の柔軟さである。笑ったり、泣いたり、怒ったり、という本質的には同じ感情のあり方を持ち、身体の反射的には同じ反応をする人々が、頭の中ではまったく違う音と構造を持つ言語で思考している。外国語として学ぶと、そんな音をどうやって出すのか、と絶望的な気持ちになるような音があるが、その言語の話者はいとも簡単にその音を発することができるし、できないのが不思議だとすら思っていたりする。
 言語は定義の仕方によって何をもってひとつと数えるか変わるので、専門家の間でも世界に存在する言語の数について完全に統一された見解はないようだ。しかし、ある定義によっては約7千の言語があると言われている。7千通りの、思考と感覚の表し方があるのだ。7千通りの、お腹すいた、があって、もちろん、7千通りの音の世界もある。
 自分が知っていることなど、7千のうちの1つ(あるいはマルチリンガルならそれ以上)を頼りない窓口にして得られた「限りなく限られた」情報だけであることがわかる。実際、7千の言語を学び、それぞれの新しい視点を得ることは不可能である。しかし、途方もない数の言語がこの世界に存在し、自分が知っているのはそのごく一部に過ぎないということを知っておくことは重要である。井の中のカワズが憐れなのは、そこが井の中であることを知らないからなのだ。

 残念なことだが、今は世の中に嘘やフェイクや、本気の悪意も巧妙に紛れ込んでいる。もちろんこれらは人間の生み出したものなので、はるか昔から存在はしただろうけれど、さらに巧妙に、良くも悪くも人というものを研究し尽くして効果的な方法で仕掛けられていることは想像に難くない。だから、今はなんでも素直に情報を信じるというわけにはいかない。いや、実際はどうすべきか自由に決めて良い。しかし、疑うことの大切さが高まってきていることは間違いないと考えている。そのために、何を知り、何を活用するかは人によって異なるだろうと思う。
 私の場合はそのひとつが外国語を学ぶことである。そのために学んでいるのではないが、結果的にそうなっている。国際的なニュースも、それを扱う言語や国、地域によって切り口は異なる。人々の話題になるものも違うし、受け取られ方も違う。外国語を学ぶプロセスでは日常のありふれたものについてすらも、常識は簡単に打ち破られる。気づかなかった視点から見た世界は私たちに、それまで見ていなかった別のものに注目させようとする。

 サピア=ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)というものがある。ある観点では批判的に論じられることもある有名な仮説である。言語が思考の習性に影響を与えるという主旨であるが、そんなはずはない、人には普遍的な言語のルールが備わっていて言語と思考とは関係がないのだ、とする反論もある。(主張と批判は多くの場合、枝葉末節について完全に対立しているわけではなく、また、ここでは端的な表現に留めたため、批判のあり方として適切な表現ではないかもしれないことを言い訳しておきたい)
 ただ、私の個人的な感覚では、異なる言語から覗いたこの世界は、同じだが違う。見えているものは同じだが、どこに注目するのか、どの視点からそれを語るのかは、やはり違う。同じ色を違う色だと感じ取るというわけではない(と思う)が、同じ色を違った方法で表現する。膨大な数の、その数だけの方法が存在する。ある感情を自分の体の中にあると表現する人もいれば、外から自分に影響を与えられた結果起こったものだと表現する人もいる。見るものや感じるものが同じでも、それの表し方が違うのだから、人の感情や認知の存在が普遍的であることを否定できないものの、感じ取るものやそれらをどんな概念とつなぎあわせるかは違ってきて当然ではないかと思う。先述したように、言葉と概念のネットワークは、言語の数だけ存在するからだ。

 これは私の勝手なイメージであって、それこそ普遍的な考えなどではないが、言葉にこだわる人、言葉の機微に敏感な人は、ある種の繊細さを持ち合わせているように思う。偏見からものを言うことは最大限避けたいが、暴力的な言葉を容易に使うことができないのもこの種の人たちである。言葉の持つ力を知っているからだと思う。力任せに振り回したりしなくても、言葉はすでに力を持っていて、それはあらゆるものを切り開き、明るみに晒し、また静かに覆い隠すこともできる。それらを知ろうとするときも、燃え盛るような、瞬時に燃え尽きるような激しい炎でまだ見ぬものを煌々と照らすのではなく、静かに燃え続ける小さな灯りで少しずつ、巨大な氷塊を溶かすようにして前に進む。それは、ドラスティックに、掻き乱すようにして常識を壊すことはない。静かに、それでも消えない情熱で、少しずつ思い込みや自分自身の思考の癖を明らかにする。

 自分が知っていることを疑うこと、そして疑うために知ること。

 それを繰り返すうちに、たどり着ける場所があるのだろうか。言葉の学びに終わりはなく、その答えはいまだわからない。しかし、見ようとしていないだけかもしれない何かは、在って当然にそこにあって、もしかしたら私たちがそれに気づくのを待っている。日常の中に、当たり前が当たり前でないことを知るチャンスが隠れている。それを見つけることが外国語を学ぶ過程には含まれている。
 まだ見ぬものを知りたい、そして、新しい視点を持ちたい、それに応えることができるのも、言葉の学びなのである。

 終わりのない旅を始めてしまった私は、今日も疑い、知り、そして静かに自分が作り上げた常識を壊し続けている。


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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
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言葉では言い表せないくらいとっても喜びます。
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言語と思考が無関係ではありえないと私は思うけど、本当にそうだろうかと常に疑うことも必要なのですね
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