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ひとり旅が好きだ             ぶらぶら街を歩いて見つけた癒しと冒険

 旅が好きだ。

 といっても、バックパックでどこへでも身軽に行くというタイプではないし、リスクはできるだけ回避したいし、準備の前の準備(わかる人にはわかると期待している)が猛烈に苦手だ。 
 それでも、いったん旅に出ると不安やいらいらは消える。あぁ、いつもと違う場所にいる、と感じるだけで私の中の何かが奮い立つような気がする。
忘れていた好奇心の根元なのか、それとも冒険心なのか。

 普段はひっそりと心の奥底に身を潜めている、いたずらっ子のような何かが、旅に出るとむくむくと起き上がり、ここぞ独壇場とばかりに活発に動き始める。私が好きなのは、旅なのか、それともこの感覚なのか。もはやその二つは分けて感じ取ることができない表裏一体の何かであるようだ。

 気を使わない間柄の誰かと行く旅は好きだ。一緒に感動や興奮を分かち合い、あるいは分かち合えないものの自分が気づかなかった観点を知り、一人では食べきれない食事を分け合って楽しんだりすることもできる。それになにより、心強い。旅が好きだとはいっても、そこは住み慣れた場所ではないから、予想外のできごとに対処するにはいささか心許ないし、もうひとり誰かいれば、自分になにか良い知恵を授けてくれるのではないかと思う。

 しかし、私はひとりで旅をするのも好きだ。

 ひとりで旅をするのは、誰かと旅するのとはまったく別のことだ。少なくとも私にとって。誰かと出かける旅は、おしゃべりしたり、相談したり、折り合いをつけたりすることがある。これは普段から仕事や人との付き合いの中でやっているのと同じことだ。こんな時私は、私と、それから相手に対処する私のふたつを眺めている。決して、自分を押し隠しているというわけではないけれど、相手にとって居心地の良い自分でいるための努力を続けている。だから、平たく言ってそれは本当の私のすべてではない。
 表裏のない人、という人が世の中にはいて、いつ誰と接していても同じだ、と評されたりしている。でも、人から見えているのは結局のところ全部表なので、本当の裏は誰も見ていないはずだと思う。そんなわけで、自分をいくつか使い分けるというのはごく当たり前の自然な行動であると思う。表裏のない人なんて、きっといないんだろう。
 誰かと旅をするときは、誰かと接するための私、それから本当の私、が一緒に旅をすることになるから、まぁなんだかややこしい。相手もきっと同じだろうから、もしふたりの旅なら、そこに四人の私たちが存在するかもしれない。などと面倒なことを考えたりすることになる。

 さて、ひとり旅ではもっと単純だ。私は私とだけ対話すればよい。
 どこへ行くか、いつ寝るか、何を食べるか。私は私と相談する。裏だけでよくて表はいらない。気分を害していないか、疲れていないか、気にしてあげる必要はない。だから私が向き合うのは、とりつくろった表の私でも、一緒に旅してくれる友人や家族でもなく、冬眠から目覚めて生気を取り戻し、生き生きと動き出したあのいたずらっ子、である。

 それは私を誘う。あれを見よう、あそこでいい匂いがする、この景色をもう少し見ていたい。実に自由に、何の気兼ねなしに誘い、期待ほどでない結果をもたらしたとしても、くすくすと笑ってごまかしたりする。私はひとりでいても、ひとりでいることの孤独は感じないし、押し隠した自分をなだめすかしたりする必要もない。ひとりであり、ひとりではない。しかし、ふたりでもない。やはりなんだかややこしいけれど。

 リゾートのようなところでのんびりするのも良いかもしれない。時にはそんな旅をしたいと思うこともあるし、そんな旅を楽しんだこともある。ただ、どちらかと言えば、ぶらぶらと街を歩いたり、ちょっとつまみ食いしたりして散歩するような旅が好きだ。歩くと、景色は変化し、その変化と同じスピードで時間が過ぎているような気がして落ち着く。普段の生活では、同じ景色、たとえばパソコンの画面や部屋の壁、いつもと同じ窓の外の景色を見ているうちに、時間だけが勝手に動いていってしまうように感じることがある。旅先でのんびり歩いているときは、歩いているスピードと、景色の変化と、そして時間が過ぎる速さが同じであるように感じる。だから、何かこれでよいのだ、というような落ち着いた気分になる。

 

 ほんの4〜5日だけど、時間がぽっかり空いたことがあった。

 その頃の私は、リモートで働き始めて1年ほど。企業から委託された仕事もあったから、完全に自分の自由なスケジュールで働いていたわけではなかったけど、毎日出かけて働いていたときよりも、自分で生活をコントロールできる余裕があった。
 ある時、オンラインで行なっているレッスンが立て続けにいくつかキャンセルされた。キャンセル自体は私にとって問題ないし、受講生の方に大きな問題があったのでなければ特に心配はない。ただ、続けてキャンセルが出るのはちょっと珍しいことだった。そのときは、もともと委託先から会議の招待があってブロックしていた日があり、その前後の日のレッスンがキャンセルになった。いずれも受講者の方から、仕事の都合が変わった、とか、用事があったのに忘れてた、とか、メッセージで聞いた理由が心配なさそうなものだったので、前向きにそうなのかと安心して受け止めた。
 さらに、会議がキャンセルになった、と連絡がきた。主要メンバーの一人の都合がつかなくなったのだという。一気に3日間の予定がすっかり空いた。
 その後も偶然は続いた。毎週決まった時間に行われる、委託先主催の会議があったが、これも急遽キャンセルされた。この定例会議がキャンセルされたのは、私が参加するようになって初めてのことだった。
 なにもかも、偶然が偶然でないかのように連鎖し、気づくと私は4日間の自由な時間を手に入れていた。この、ふいに降ってわいた天啓のような休みを無碍に過ごして良いのか、いやそんなはずはない、という気持ちになってきていた。また、こんなに立て続けに珍しいことが起きる時は、予想できないなにか新しい展開が動き出しているのではないか、とも思った。
 そして本当にそれは起こった。さらに1件のレッスンがキャンセル、というより、日程を変えて欲しいというリクエストが来た。変更先の日程は問題がない。もちろん承諾して、ぽっかりと5日間が空白になった自分のカレンダーを眺めた。正確に言えば、自分で調整のできるスケジュールはまだいくつかそこに残っていたが、そんなことは問題ではない。誰にも迷惑をかけずに、突如として5日間の自由な時間が私に与えられたのだ。

 行かなくては、と私は真剣に考えた。家にいても、実際のところやりたいことはそれなりにある。ここまで旅が好きだと言い続けておきながら、私は家でのんびり過ごす休日も大好きだ。しかし、である。連続した5日間だ。変わらない景色と、動き続ける時間のはざまで、いびつな感覚のまま過ごすのはいやだ。それにその自由時間は、もう明日から始まるのだ。
 私はパソコンを開き、仕事で使うアプリケーションを全部終了した。それから航空券のチケットを検索し始めた。

 5日間あれば、それなりに遠いところにも行けそうである。だが私は少し疲れていたし、移動を楽しむ時間よりも、ぶらぶらと散歩する時間をたっぷり取りたかった。私に与えられた自由時間にぴったりのフライトを見つけ、購入ボタンを押した私は、すでに心の中のいたずらっ子の存在に気づき始めていた。

 空港っていつもワクワクする


 翌日、私は空港にいた。台北行きの飛行機への搭乗をまもなく案内する予定である、と単調で早口のアナウンスが告げ、私は満席で座るところのない待合スペースで所在なく突っ立っていた。窓の外で羽をひろげる飛行機が小雨に濡れている。これから私を旅へ連れて行ってくれるそのジャンボ機も、私と同じようにただそこでその時を待っているように見えた。

 私は離陸の瞬間が好きだ。さぁ始まる、と思う。目的地に着陸した時にそう感じる人もいるかもしれないが、私は飛び立った瞬間にすべてが始まったように思う。窓の外の景色が斜めに傾き、私に始まりを知らせる。重力の偏りをお腹のあたりで受け止め、私は子供のように足をぶらぶらさせそうになるのをぐっとこらえた。

雨が降ったりやんだりしていた


 一年ぶりの訪台だった。日本から近くて時差も1時間しかなく、そして比較的治安の不安が少ない。日本からの女性のひとり旅も多い。日数が短くても、せかせかと欲張らずに旅行するのにうってつけの、私のお気に入りの場所である。
 小雨の東京と比べ、台北はずっと暖かく、あいにくの曇り空ではあったが休暇の始まりを実感させた。
 鉄道やバスに乗る時に使えるプリペイドカードには、前回の旅行で使い残したチャージがまだあるはずだ。現金も少し、旅行用の財布の中に残っていた。私はさっそく空港を後にし、市内へ向かうバスに乗った。

 ホテルに荷物を置くと、近くで夕食を探すことにした。どこで食べてもかまわないし、持ち帰ってホテルでのんびり食べてもいい。ひとりでいる気ままさで、私は小さなポーチを下げてぶらぶらと歩いた。前回は、どこにいても日本語が聞こえてきたが、その時はちょっと様子が違っていて、日本人観光客が少ないようだった。道ゆく人はみんな台湾華語を話している。夕食どきだったが、座席が混み合っていないお店も多くあり、パンデミックの余韻を感じさせた。
 結局、美味しそうなスープを啜っている人を外から見かけて、あるお店に入り、持ち帰りたいといってスープやご飯、おかずを買って帰った。浮き足立つようにホテルに帰り、旅の始まりを味わう。 

昭和生まれの日本人は、お祭りと金魚を連想する
魚のツミレ団子とセロリのスープ


 何年も中国語を勉強しているが、いまだに旅行で何の苦労もない、というレベルには達していない。もともと中国の中国語を習ったので、台湾で使われる言葉や発音の違いもまだ勉強中である。そんなレベルであるが、旅行では恥ずかしがらずに使ってみることにしている。ひとりなので平気だ。できるんだ、と大袈裟に褒められたり、意外に下手だね、と思っていそうな落胆の顔で見られたりもしない。その代わり、発音が悪かったり声が小さかったりすると、容赦無く「は?」とか「あ?」などと聞き返される。もちろん覚悟の上なので、気にしない。よく知られているように、台湾では流暢な日本語を話す人もいるし、単語だけなら日本語を使ってくれる人も多い。それでも、最初は日本語を使わずに話をしようといつも試みている。最終的に、お互いに英語を使ったり、指で指したりして、忍耐強い台湾の人々に私の要望や質問を理解してもらうことも多いが、ひとり旅で下手くそな現地の言葉を試すのは実に楽しい。

日本語を学ぶ人が多い台湾
書店で日本語テキストを見て回った
日本への旅行のガイドブックもたくさんあった

 残り4日間、私は思う存分、気ままに歩き回った。
 見つけた景色を切り取りたくて、写真を撮った。見たままを自分の目にも焼きつけて、じっと佇む時間もしっかりとった。疲れたらホテルに戻って昼寝をして、美味しいコーヒーの香りを頼りにカフェに入ってぼんやりした。

 気の向くままに路地を曲がり、バスや地下鉄に乗って移動し、地元の人が並んで買っているものを何であるかも知らずに並んで買ってみたりした。何と言っているか聞き取れなかったが、私の前にいた数人が発していた言葉をそのまま真似したら、老闆(店主)から同じものを渡してもらえた。せいろから出したばかりの肉まんは、日本で食べるものより香辛料が少し強めだったが、ここが台湾であることと、今自分が予定外の休暇を楽しんでいることを同時に実感させる、なんとも香り鮮やかなスパイスだと思った。

 人々は概ね親切で、私の下手な言葉で私が日本人であることに気づき、ゆっくり話してくれたり、知っている日本語で説明してくれたりした。臆せずひとりで火鍋の店にも行ったが、困っていないか、量は大丈夫かと、何度もテーブルを見に来てくれた。人々のホスピタリティは、マニュアルのないところにもあふれているし、たとえ面倒な様子で対応されたからといって、それだけですべての印象が悪くなるわけではない。
 いつもと違う場所にいる。それが私の旅での楽しみなので、いつもと違うことそれこそが良いのだ。私の中のいたずらっ子は、わくわくと成り行きを見守り、予想が外れると笑う。いつもと違う、それが旅なのだ。

みんな食べてたから夜市で水餃子を食べた
美味しかった

 ひとりでふらふらと、急ぐ様子もなく歩いているから、しょっちゅう道を聞かれた。これは台湾だからこそかもしれない。日本人の私は台湾人の集団の中にあって、特別目立つ存在ではない。服装などで多少見分けがつく場合もあるが、私自身もすれ違う人から日本語が聞こえてくるまで同胞の人だとわからないことも多い。このバスは天母に行くのか、とか、このなんとか餐館知らないか、とか、人々は容赦のないスピードで私に尋ねる。さすがに道を聞かれていることと、それを説明する情報が私にないことはすぐにわかるから、いつも私は、すみません、私は旅行者なのでわかりません、と答えることにしていた。そうすると、あぁそうなの、ごめんね気にしないで、という人もいるが、へぇそう、で、ここ知ってる?と質問を続ける人もいた。私は、一時的にであっても、道を聞けそうな人だと誤解されたことが楽しくて、そのまま一緒にgoogleマップを見ながら歩いたりもした。
 気の向くままに、時計も見ないで、ある時は知らない誰かと、またある時はやっぱりひとりで、私はうろうろと町を歩いた。楽しかった。

うろうろしたりしたり、猫さんを見たりした

 向き合うべきは、私の中のいたずらっ子だけ。何がしたいのか、何を見たいのか、何を感じたいのか。いつもはおとなしくしてくれているのだから、こんな時くらいは楽しませてあげたい。失敗しても困った顔はしないし、なんなら楽しそうに笑ってくれる。コンビニで買い物をして、袋はいらないと言ったのに、あぁわかったよ、と合点がいったような顔をした店員に買ったものを袋にいれてもらったりしても、言葉が通じなかったことを残念がるよりも、おもしろがっている。目的もなく歩くことを楽しみ、計画を立ててTodoリストを埋めるように行動することもしない。

 移り変わる景色と、時間の流れと、そして歩いている自分が、同じ時の流れの中にあることに安心し、すべてはひとつなのだと気づく。いたずらっ子も私の一部で、私自身なのだ。もう一人の私ではなく、それが私なのだ。
 その二つは分けて感じ取ることができない表裏一体の何かであり、どちらも私そのものなのだ。

 表と裏の私も、結局のところひとつであるし、いたずらっ子もまた然りでそのまんま私である。いつもの生活から抜け出して違う場所に行きたい、旅に出たい、と思うのだが、ひとりでいる旅先で思い出すことは、自分の中に全部隠されていた、ということである。癒しも冒険も、喜びも驚きも、全部もう自分の中にあるのだということ。
 取り出すか取り出さないか、気づくか気づかないか、見ようとするか見ないままでいるか。ただそれだけのことである。確かに旅は重要なきっかけであり、それがないと見出せないものは多い。
 問題は、ふだんそれに気づかないふりをしていることなのだ。

 旅に出たいのは、いたずらっ子に会いたいからなのかもしれない。
私が見つけたいのは癒しでも冒険でもなく、いたずらっ子の私なのだ。

台北101の近く、四四南村にて
扉の緑と明るい空がどちらも綺麗だった


 台湾から戻って以来ずっと考えていることがある。いつもと違うことを楽しむのが旅ではあるけれど、いつもと同じでもいたずらっ子を楽しませることができないか、ということ。
 私はいたずらっ子に向き合う時間を普段ちっとも作っていない。旅に出ようとしたその時から、待ち構えていたようにうずうずと飛び出してくるのだから、きっと普段は我慢をしているはずだ。

 さて、今日は何をしようか。時にはいたずらっ子に尋ねてあげたい。
カレンダーを埋め尽くす予定をこなすことだけではなく、時間と同じスピードで動きたい。思うがままに過ごし、わくわくしたりくすくす笑ったりして日常を暮らせたら、きっと毎日が旅のように楽しくなるだろう。

 それでも、時にはひとりで旅をしたい。
 私は旅が好きだ。


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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
お気軽にスキ・コメント残してくださると
いたずらっ子がとっても喜びます。
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ときどき徒然書いています


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