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もっと前向きになってと言う前に考えたいこと

 人から自分がどう見られるにせよ、私は内向的だ。頭の中で思考がめぐっていない瞬間はほとんどない。思考は多くの場合、幸せな気分になるようなものばかりではなく、なんなら憤りや焦燥、不安や恐れに満ち満ちている。
 私の場合、不安には余計な想像を含むから、実際に発生する出来事よりもずっと深刻な状況が頭の中をめぐることもある。自分で気づいているのだけど止める術はない。考えうる限り最悪の状況を想像する。そして自分で慄く。さらに良くないのは、その思考に囚われてしまうことだ。振り払うのはとても困難で、何度も頭の中で不安を蘇らせることになる。

 以前、あまりに不安を増強させている自分に「不安」になり、自らの思考の癖について改めて考えてみたことがある。
なぜ、最悪の事態をいとも簡単に想像し、自分を不安にさせるのか。
なぜ、一筋の希望を見つけ出し、それを心から信じることができないのか。

 今のところ、それは自分で心の準備をしておきたいからだろう、と考えている。突然、最悪の事態が起こるのは怖い。だから前もって、こういうことが起きるかもしれない、と自分に言い聞かせている。準備をしていたって、いやなものはいやだ。ただ衝撃は少ない、ように思う。

 もうひとつ理由が考えられる。
 私は、至極現実的な考えの持ち主である。これが、小さな希望をあてにしない考え方に影響していると思う。決して、もしかしたら、という一縷の望みに賭けたりはしない。事実から想定できる結果を、あまり高望みしないで見ている。ただそれだけのつもりである。天界から差し出された細い蜘蛛の糸にすがり、それがちぎれない前提で物事を考えるわけにはいかないのだ。そんなものはあっさりとだめになる。ほんの少しの望みは、初めから幻であったかのように、いとも儚くたち消えるものなのだ。あてにするわけにはいかない。
  
 現実的であるからこそ、つらい思いや経験をしたら、ただつらいと思うし、試練を与えられて幸せだなどとは思わない。運命をうらむし、神も仏もない、と心から思う。前向きな気持ちになんかなれない。

 だからといって、自分を後ろ向きな人間だとは思っていない。自分の出す結論が必ずいつもネガティブなわけではない。進歩のために自分を奮い立たせることもあるし、自らの思考の癖に向き合って軌道修正することもある。きちんと現実的な可能性も見ている(つもりだ)。ネガティブの一言でまとめてもらっては困るとも思う。

 一方で世の中には、いつでもポジティブな人がいる。苦境を乗り越え、苦難を蹴散らし、いつだって前向きであり続ける。
 そして、何かを越えたあとでこう言う。
 乗り越えられない試練は与えられないのです、私はまた強くなれました、この苦難を得て幸せです、と。
 本気でそう思える人は、それで良いのだ。人によって考えは違うし、それを私は心の底から認めている。だからこそ、これから話すこともそれと同じではないか、と問いたいのだ。
 
 確かに、ポジティブな人たちの言葉は、人々の励ましになる。それを聞いた人々は励まされ、人生は幸せに満ちている、と満足する。そう感じるのは当然だと思う。私も、そうやって励まされた経験がある。

 しかし、私のように、こうなったらもう先はない、という現実的な結論を出すと、人々は言うのだ。そんなにネガティブに考えてはいけない、そんなふうに思ってはいけない、もっと前向きに考えなくちゃ。前向きに生きることこそ素晴らしいんだよ。
 明るい未来を語らなければ、聞く人は納得しない。

 だが、乗り越えられない試練は当然あるし、失うばかりで何も得るもののない苦難はふりかかる。泣き言しか出ないことだってある。いつでもポジティブであることは、本当に自然なのだろうか。なぜ、前向きな答えが期待され、後ろ向きな答えは受け入れられないのか。なぜ、ポジティブではない答えは、学びに気づけなかった残念な結論だと評価されるのだろう。
 ことさらに片方に蓋をして見ないふりをするほうが不自然ではないか。

 しかし、傍観者であるべき人々は、ポジティブな結論をいつも求めるのだ。なぜなのだろう。

 本当は、自分がそれを聞きたいだけではないのか。安心したいからではないのか。自分が、現実を直視することを恐れているからではないのか。どれほどの困難に出会っても、人はまた明るく前向きに蘇り、未来に向かって進んでいけるのだ、と確信を得たいからではないのか。越えられない困難なんてない、そう信じていたいからではないのだろうか。

 全ての人が同じように、苦難の中から奮い立ち、前に向かって進む力を得るわけではない。この苦境を得てよかった、と心から思うわけではない。聞くものの期待と安心感のために、本心から出た答えが捻じ曲げられるようなことがあってはならない。

 この世のことは、必ず対になっている。すべてのことがそうだと思う。前向きであることは、後ろ向きであることと同時に在る。そうでなければ、前向きさを評価することすらできない。前向きな答えもあれば、後ろ向きな答えもある、それでいいはずなのだ。 

 ポジティブな答えの要求、また当然のようにポジティブであり続けることを期待することは、私を含むある種の人たちにとってはほとんど暴力的である。ささやかな霜柱を長靴で踏みつけるようなものだ。ようやく、自分なりに立ち、考え、どう在るかを結論づけたのに、きらきらとした明るさを伴う、ややもすれば自虐的ともいえる答えを出すことを周囲が期待する。つらい思いをした、それでも良かったと思う、その答えを要求するのは、紛れもなく暴力的な強要である。繰り返すが、真にそう思う人の考えを否定しているのではない。そうでない考えを否定することを問題視している。どちらもあって然るべき、だたそれだけのことなのだ。
 前向きさだけが取り立てて高く評価されることに、私は少し危機感を感じている。前向きでいられないことを恥じなくてはいけない気になる。そう思わせてしまうかもしれないし、後ろ向きな考えは表に出してはいけないという無言の圧力を醸成しかねない。

 前向きに人生を生き、自分だけでなく周囲の人さえ幸せにしている人がいる。そうであれば、それはつまり、そうでない人もいる、ということだ。
 ネガティブな考えの否定、諦めへの咎め、立ち止まることへの批判、これらはすべて同時に包括的にポジティブの存在をも否定している。ともにあるものを、ともに認めるしかないのだ。

 もっと前向きにならなくちゃ、だなんて実に大きなお世話なのだ。あの人を見てごらん、あなたもあんなふうにならなきゃ、だなんて実にデリカシーのない発言なのだ。他の誰かみたいになんてなれないし、そんなことを強要できる人はいない。でも、残念ながら反対側を見ない人は多い。

 ポジティブの強要はただただ暴力的である。決してそれは励ましにはならない。ポジティブを大切に思うなら、ネガティブも同じだ。明るくいなさいと迫ってはいけない。後ろ向きなことを考えてはいけないと責めてはいけない。後ろ向きな気持ちであるときは、それを恥じる必要はないし、堂々と表に出して、必要なら泣いて助けを求めたっていいと思うのだ。

 前向きになってと言う前に、そのままでいいと言える、そんな前向きさが社会の中にほしい。
  
 

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