女優を目指したが為に ⑵

昨日の続きです。

東京にオーディションに行ったあれは何だったんだろう?って言うくらい拍子抜けするイベントだった。えらく沢山の女の子達が来てて、 全然大した課題もなく良く分からないまま終わり、結果は郵送でお知らせします、、的な。
後で考えるとどこかのプロダクション会社がオーディション開催するだけで儲かる仕組みを作っただけのイベントだったと思う。 期待して出掛けたのが馬鹿みたいだった。
でもありがたい事に母は特に何も言わず一緒に東京滞在を楽しんで帰った。

特に他には何も行動しなかったのに、高校受験が近づいてきて志望校を決める時に
本当に何も深く考えずに先生にこの辺りなら、と勧められた学校を選んだ。
見た事も聞いた事もない学校を適当に選んだのだ。

何故か?
それは高校卒業するまでの間に ”上京して芸能界に入る” と言う予定だから取り敢えず入れる高校ならどこでも良い、、と漠然とでも本気でそう思ったのだ。
大きな夢を持ってる割には重大な決断をやたら簡単に決めてしまう。

しかし高校に入ると他の事で忙しくなってしまい、”女優になる計画” はしばらく忘れてしまう。
他の事というのは ”彼氏を作ってデート” したりする事、
そしてバイトだ。
後はあの当時盛り上がっていたニューミュージック系の音楽に惹かれて、ミーハーだった私はコンサートに行きまくっていた。
サザン、レベッカ、ハウンドドッグ、アイドル系では聖子ちゃん、チェッカーズなども行ったなー。

そしてうちの高校ではバンドが盛んだった。上級生が文化祭でバンド出演してるのを見て憧れた。
高2の時にバイトで貯めたお金で買った Yamaha DX7 と言うシンセサイザーを使って友達と組んだ ”レベッカのコピーバンド” を文化祭で披露した。
その後も定期的にリハーサルを行い幾度か地元のイベントなどに参加した後解散した。

卒業後の進路

芸能界などに入りたいと思っている私に ”大学に行く” と言う選択も憧れも全くなかった。バンドをやっていたのでその流れでミュージック系の専門学校に行く事も頭をよぎったがそれはやめた。周りに流されてマスコミ系に就職したいとか思ったりした時期もあってジャーナリズムの専門学校も願書だけは出したけど最終的にはやめておいた。ずっと心の中に ”女優になる” と言う夢だけが残っていたのでそれ以外で本当にやりたい事がなかったんだ。
私の母は小さい頃から私に ”これからは女でも大学くらいは行かないといけない” と私に近所にあった奈良女子大の受験をずっと勧めていたが、暖簾に腕押し。

しかしたった一つだけ、若い間にやっておきたいと思っていた事があった。
うちは家庭事情がとても複雑だったので中学生の頃は早く自立して一刻も早く家を出たいと思っていた時期があった。その時期から自分の中に ”放浪癖” と言えるような感覚が芽生えて、それは自分の中でむくむくと育っていたのだろう。
どこか自分の事を知ってる人間が一人もいないところに行tってそこで暮らしてみたいと言うサバイバル的な願望が少しづつ膨らんでいた。 最初は日本国内でどこか住み込みの仕事を探すとか、冬の間スキーリゾートで働くとかそう言うのをイメージしてただけだったが。

当時 ”ライスカレー” と言うテレビドラマが放映されていた。中井貴一と時任三郎だったと思う。細かい内容は忘れたが英語も話せない日本人がカナダで奮闘しながら暮らしていくと言う内容だった。その頃友達の一人がアメリカに行くと言う話も耳に入ってきた時期だった。私も言葉も分からない、誰も自分を知ってる人間がいない外国でどこまで生き延びれるのか挑戦したいと言う思いが芽生え始めた。

その後、フリーターで2年みっちり働いて貯めたお金で1990にニューヨークに来た。語学留学で1年だけ滞在する予定だったが、最初の1年の英語研修の間に色々と考えるところがあり、自分の人生計画にはなかった大学進学を果たす事になる。
この留学する事になった細かい経緯は別の機会に書く事にしよう。

めでたく大学に入れる事になり、専攻を決める時になってまた ”女優になる”
本当の夢を思い出した。女優になりたいと思い始めてから随分経つがいつも他の事に流されてしまっていたがその想いはなくなる事はなかった、そこでアメリカの殆どの大学には演劇学部がある事を知り、
あ、、もうこれしかないと思い決断して、アメリカの大学で真面目に演劇を学ぶ事になる。
上京して芸能界入りする計画だったはずが、その前に ”たった一人で誰も知らない土地に行って生活する” と言う漠然としたサバイバルゲームが、そのままそこから ”女優” への道にまた繋げていく事になる、しかもアメリカで。
22歳の時だった。

続く



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?