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脳構造マクロモデルで読み解く人間行動選択#15 デュフロ&バナジ―(3)“poor economics”を覆えす教育

認知科学の最新の研究や知見を基に、現在の複雑な貧困問題を理解して解決していく道筋を示し、2019年のノーベル経済学賞を受賞した開発経済学者のアビジット・バナジ―とエステール・デュフロ。

彼らの2011年の著作『poor economics - A Radical Rethinking of the way to Fight Global poverty』(邦題:貧乏人の経済学 – もういちど貧困問題を根っこから考える)をテキストに、初回に概観と飢えの問題、第2回で健康に関わる問題を取り上げ、現在の世界の貧困問題について、その構造を理解し、対処するアプローチを概観してきた。

現在の世界の貧困問題は、ひとつひとつ問題を詳細に見つめ、問題の性質とその地域の特性に応じて、その根本にある貧しい人たちの行動選択の背景となる要因を、構造的に理解することが不可欠である。バナジ―とデュフロがひとつひとつ問題を掘り下げているのは、ひとつひとつ深く丁寧に分析することが必要だからなのである。

また、第2回で観たように、私たちは、新年の誓いを立ててもすぐに破ってしまう。たとえば、今年は絶対に痩せる!という誓いを立てても、明日からでいいかと、おせち料理を食べ過ぎてしまう、といったように。この「時間不整合性」と呼ばれる、未来のことを先送りしてしまう傾向は、貧しい人たちに限らず、人なら誰でも持つ性質である。

豊田・北島の脳構造マクロモデル MHP/RT(Model Human Processor with Real Time constraints)を適用して理解した通り、行動選択は、人に共通の脳の構造がもたらすものである。つまり、私たちと貧しい人たちの行動選択は環境の違いがもたらすもので、本質的に違いはない。

poorな教育の問題を巡る
~構造的に潜む”共通な”行動選択の問題

『poor economics』読解の第3回は、教育の問題を取り上げる。

フランスの人口統計学者で現代最高の知性と称されるエマニュエル・トッドは、経済的な成長を含む近代の成長は、識字率の向上に現れるとした。家族構造に埋め込まれた価値観の違いが、その地域による成長の違いを説明する、成長の源泉である、と指摘している(本シリーズ#11参照)。

即ち、識字率の向上は、社会的な環境を含めた教育によってもたらされる。
教育は、現在の状況を抜け出すための成長の源泉であり、現在の"poor economics"を覆すトリガーとなる。

しかし、教育を巡る環境にも、飢えや健康の場合と同じように、人の信念、人の行動選択の構造的な要因に基づく問題が横たわっている。更に、教育特有の信念や行動選択の問題もある。

教育特有の問題も含めて、飢えや健康の場合と同様、根底に横たわっている信念や行動選択に起因する問題は、構造を同じくする。すなわち、教育の場合でも、貧しい人たちの教育を巡る問題を理解することは、私たちの教育についての問題を照射する。

poorな教育の問題:プロローグ:
インドの6児の母の未亡人と
学校に行きたがらない子供

バナジ―とデュフロは、貧しい人たちの教育の問題を、2009年夏に彼らが出会って話を聞いた、40歳で6児の母で未亡人となっていたシャンタラマさんの話から始めている。

彼女の夫は話を聞いた4年前に虫垂炎で急逝したとのことで、生命保険には未加入、家族が貰える年金もない、という状態だった。彼女の子供たちのうち年長の3人は少なくとも8年生までは学校に通ったとのことだが、その下の14歳の少女と10歳の男の子の二人は学校を中退していた。

この状況からは「父親の急死によって収入が激減し、生活が厳しくなったため、年少の2人は仕方なく学校から中退せざるを得なかった」と想定してしまいがちだが、彼女の話を聴いていくと、実態はそうではなかったことが分かる。

夫の死後、彼女は持っていた農地を人に貸し、日雇い労働者として働き始め、家族を養い学校に行かせる程度の収入はあったという。14歳の少女は、学校を中退した後に家でだらだらしているのはよくないと母親が考え働くようになったという。その下の10歳の男の子も、学校には自分から断固として行きたがらなかった、というのである。

学校自体は、多くの国でアクセス可能な場所にある。特に小学校には無料で通えるケースが大半で、ほとんどの子供は、入学はしている。シャンタラマさんのケースでも、14歳の少女と10歳の男の子は、学校に通える状況にあった。

一方で、デュフロとバナジ―らの調査によれば、子供の欠席率は14%から50%になるという。欠席の理由は、家での用事や病気のこともあるが、ほとんどは、子供自身が学校に行きたがらないことにある、という。

なぜ、子供自身が学校に行きたがらないのか?

学校に行きたがらない理由を巡って:
1.”供給”政策の失敗?

教育政策において需要主義の立場に立つ政策論者たちは、「子供自身が学校に行きたがらない」という理由を捉えて、供給ありきの政策の典型的な失敗事例だ、と批判する。

著名な国際的経済学者であるウィリアム・イースタリーに代表されるこのような需要主義の政策論者を、バナジ―とデュフロは「需要ワラー」と名づけている。

需要ワラーは「政府主導のトップダウン型政策で学校にとにかく入学させる」ような供給的教育政策はだめだという立場に立つ。彼らは「(教育に対する)強い潜在的な需要がまず先になければ、政策・対策による就学機会の提供などの供給政策は有効な結果をもたらさない」と主張するのだ。

しかし、こうした需要ワラーの主張も的確とは言い難い。

学校に行きたがらない理由を巡って:
2.”需要”はあり、家族は教育の価値を理解している

シャンタラマさんの住むカルナタカ州の州都バンガロールは、インドのIT産業の拠点の一つである。成長を続けるIT産業を筆頭に、教育を受けた人たちに対する需要は不足していることなどない

また、シャンタラマさんの年長の長男は、教師になるために大学にも通っている、という。つまり、家族は、教育の価値を知っているし、必要な費用を「投資する」意欲もある
(「投資する」という表現は第4章のバナジ―とデュフロの表現をそのまま引用した。子供の教育費用について投資という表現を用いることについては、気に障る人もいるだろう。その違和感は、教育の問題につながる行動選択の構造を理解していく端緒の一つになる。ここでは、投資する=子供の将来の収益を期待して負担する、という経済概念を盛り込んだ意味であることを含意する表現として、ひとまず読み流して貰いたい)

発展途上国では、子供たちは学校に通いません。これをアクセスの問題、知識を必要とする仕事対する需要不足、親が子供を受けさせようとしないといったことで説明できないなら、いったい問題はどこにあるのでしょう?」

(『Poor Economics』第4章、p.106)

(教育を受けた人に対する経済的)需要はあり家族も教育の価値を理解している、という状況は、需要ワラーの「需要さえあれば、自然と教育システムは回るようになる」というシナリオと完全に矛盾する。

シャンタラマさんの年少の子供たちのように、子供が学校に行きたがらない、という事象の背景では、いったい何が起こっているのだろうか。

今回もひとつひとつ、問題を掘り下げていくことでその構造が見えてくる。その構造は、日本でありがちな、「勉強したくない」、「学校が嫌い」といった子供の好き嫌いに、その理由を押し込むだけの表層的な分析では見えてこない。真の原因を探るために、構造を丁寧にとことん掘り下げていく、バナジ―とデュフロのアプローチに伴走して、DIVEしていこう。

STEP 1:
学校に行きたがらない子供を生み出すもの:
的外れな政策論争

貧困への援助の場合と同様、貧困者に対する教育政策も、激しい政治論争の種となってきた。論争の論点は、援助の場合と同様、政府が教育に介入するべきか、あるいは介入のやり方がわかっているのか、に集中している。

シャンタラマさんの例で挙げた、学校を立てるだけでは意味がないという需要政策主義者の批判はその一例だ。

バナジ―とデュフロは、健康の問題の場合と同じく、教育分野でも、供給(政府による教育政策への介入)か需要(教育に対する潜在的な需要の高まりに任せるべき)かの二極化したマクロな論争は「ほとんど的外れ」だと、一蹴する

どこがどう的外れなのか。政策論者たちの供給か需要かという2つの論点とそれらを巡る実際の調査結果を基に順に眺めてみよう。

STEP 1-1:的外れな教育政策論争
1:教育介入主義の成果?

バナジ―とデュフロは、供給が不可欠という教育介入主義の立場に立つ、多くの政策立案者たち(国際的な政策集団を含む)の考え方は以下のような考え方に基づいていると指摘する。

教育についての問題は基本的には単純なことで、子供たちをなんとか教室に連れてきて願わくば、よく訓練された教師が教えればあとはなんとかなる

(『Poor Economics』第4章、p.106の該当部分を抜粋)

こうした教育介入主義者の考え方を表す代表的な政策は、2000年に建てられた、2015年までに達成することで合意した国連の8つのミレニアム開発目標(MDG)である。

MDGの2番目と3番目は「2015年までにすべての子供が男女の区別なく初等教育の全課程を修了できるようにする」、「2005年までに可能な限り、初等・中等教育で男女格差を解消し、2015年までにすべての教育レベルで男女格差を解消する」となっている。

この結果、多くの国で、就学機会は大幅に改善されている。バナジ―とデュフロのデータでも、18カ国で最も貧しい人々(1日99セント以下で生活している人々)でも、就学率はデータのある国の少なくとも半数以上で80%を超えているという。

拠って、子供を学校に入れるようにするという重要な第一歩は、完全ではないにしても、大きく改善されてきている。プロローグで紹介したシャンタラマさんの学校に通わなくなった年少の二人の子供たちも、学校に通おうと思えば通える環境にあった。

STEP 1-2:的外れな教育政策論争
2:教育の質は「需要」がないと高まらない?
―欠勤する教師たちと簡単な読み書きができない子供たち

では、子供たちが学校に通わなくなる問題の原因は一体どこにあるのだろうか。

バナジ―とデュフロは、この点を巡って、学校が提供する教育の質に関わる調査結果を2つ挙げる。1つ目は教師の無断欠勤、2つ目は小学生の読み書きの能力レベルの想定外の低さである。

教師の無断欠勤は日本では想像しづらいかもしれないが、調査結果を見ると目を覆いたくなるものである。2002年と2003年の世界銀行の調査によれば、バングラデッシュ、エクアドル、インド、インドネシア、ペルー、ウガンダの教師は平均して5日に1日は欠勤するという。さらにインドの調査結果では、公立学校の教師の50%が本来なら教室にいるべき時間に教室にいないという状況であった。

次に小学生の読み書きの能力レベルも、残念ながら小学校に通いさえすれば必要な能力を身に付けられているとは言い難い状況にあった。

インドの2005年の年次教育状況報告のために、インドの教育NGOブラサムが実施した調査では、7歳から14歳の子供たちの35%近くが簡単な1年生程度の文が読めず、60%近くが2年生程度の簡単な物語が読めず、70%が2年生レベルの算数(基本的な割り算)が出来なかったという結果であった。
(この調査を実施した教育NGOブラサムはこの後も登場する。1994年に結成され『poor economics』が出版された2011年時点ではインドで3億人を超える規模の貧しい子供の教育を対象に活動しているNGOとなっている)

この2つの調査結果の事例は、はっきりとした需要が無ければ教育を供給しても無意味だ、とするウィリアム・イースタリーらの「需要ワラー」に再び格好の論拠を与える。バナジ―とデュフロによれば、需要ワラーたちはこれらの事例から次のように主張するという。

教育の質が低いのは親が十分な関心を持っていないからで、彼らが関心を持たないのは実際面の便益(経済学者がいうところの教育の「見返り」)が低いと知っているからだということになります。教育の便益が高くなれば、政府が無理強いしなくても就学率は上がると言います。人々は彼ら向け私立学校に子供を入れ、もしもそれが高すぎれば地方政府に学校を作るように要求するはずだと」

(『Poor Economics』第4章、p.110)

つまり、需要ワラーによれば、教育の質が高まらないのは、親が十分な関心を持っていないことにその根本的な原因がある、ということになる。

先に述べた通り、貧困問題の教育分野における伝統的な対策は、「供給ワラー」が主流である(供給ワラーもバナジ―とデュフロの造語で、まず、教育分野においては、基本的な教育環境である初等学校入学についての格差・差別を解消し、すべての子供たちが入学できるように配慮することを優先する主張をする人たち、を意味する)。

先に挙げたFACTの通り、初等学校入学の環境はかなり整ってきている状況となっている。「単に量(就学機会)だけを供給しても、教育の質は高まらない」とする需要ワラーの主張する通り、政策的な対応は不要なのだろうか。

しかし、話はそれほど簡単ではない。プロローグのシャンタラマさんの例のように、教育を受けた人に対する需要はあるし、家族も教育の価値を理解している

つまり、問題は別のところにある。需要ワラーの主張も、供給ワラーの主張も、マクロな論争をしているだけで、実際の問題を的確に捉えていないのである。

実際の問題を掘り下げていく事例として、バナジ―とデュフロは、開発経済学の有効なツールとなったランダム化対照試行の最初の成功事例として世界に広がった、条件付き補助金プログラムの取組の歴史を紹介する。

条件付き補助金プログラムの取組は、マクロな政策的二元論争は的外れであることを如実に示している。そして、ランダム化対象試行、即ち、実際に対策を緻密にデザインして試行し、その結果を基に更に改善を繰り返していくというアプローチの有用性を示してくれる。

STEP 2:
問題の原因を示す明確な証拠:
:条件付き補助金の「奇妙な歴史」

需要ワラーの「教育に対する真の需要がないと学校施設だけを供給しても意味がない」という主張に対して、条件付き補助金プログラムの取組は、親の収入が、子供を学校に通わせるかどうかの親の意思決定に影響することを示し、国などによる供給重視の介入が必要であることを、明らかにした。

条件付き補助金プログラムは、ボストン大学経済学部教授だった、サンチャゴ・レヴィが1994年から2000年までの間、メキシコの財務省副大臣として取り組んだ福祉制度改革の一つとして始めたもので、世界各地に広がりを見せる素晴らしい成果を上げている。

STEP 2-1:条件付き補助金プログラムの最初の成果

レヴィは、複雑に構成されていた福祉制度の改革を任された。「生活保護費の受領を人的資本への投資(医療や教育)と結び付けることで、現在使われているお金を健康で教育の行き届いた世代を育てることに活かせば、短期だけではなく長期にわたる貧困の根絶を実現できる」という信念のもと、条件付き補助金プログラムを政策として開始した。

開始当初、プログレッサと名づけられたこの政策は、「子供たちが規則正しく学校に通い、家庭が予防的ヘルスケアを実施(つまり定期検診を受診)」することを条件として、家庭に補助金を配布するという仕組みを基本として実施された。補助金については、小学校より中学校の方が、少年より少女の方が高くなるように設定されていた。

更に、レヴィは、この政策を政権が交代したとしても継続されるよう(前任者の政策を新任者が撤廃してしまわないよう)、誰の目にも明らかな成功の証を示すことにも挑んだ。

レヴィは無作為に選ばれた一部の村だけを使って、選ばれた村と選ばれなかった村の成果を厳密に比較できるように試験プログラムを設計し実施したのである。

これらの努力の結果、最初の試験プロジェクトは、大幅に就学率が上がることを実証した。特に中等教育では、女子については67%から75%に、男子でも73%から77%に就学率が上昇した

STEP 2-2:就学に条件や補助金は本当に必要なのか?

レヴィの取組は大成功を収め、ランダム化対照試行の有効性・説得力を最初に証明する事例となった。

条件付き補助金のプログラムはあっという間にラテンアメリカじゅうに広まり、当時ニューヨーク市長だった、マイケル・ブルームバーグもニューヨーク市でこの取組を試している。そして、レヴィの狙い通り、メキシコでも、政権が変わっても、名称こそ変わったが、取組が継続されることになったのである。

更に、条件付き補助金プログラムは、バージョンを変え、改良を加えられて、世界中に広まった。そして、その一つである、アフリカのマラウイ共和国で実施された取組の結果が、条件付き補助金プログラムを更に見直す契機を生み出すことになった。

マラウイでは、補助金の予算額が十分でなかったことから、学齢期にある少女のいる家庭に補助金を出すにあたり、次の3通りのケースを実施した。第1のグループは、補助金は就学を条件とした。第2のグループは就学を条件とせず補助金を支給した。そして第3のグループは補助金を出さなかった

この結果、第3のグループでは、中退率は11%だったのに対し、補助金を受けた第1と第2のグループでは、6%に留まった。一方、第1のグループと第2のグループには差がなかったという。

すなわち、第3のグループでは中退率が高く、補助金の効果が高いことは確認された。しかし、第1と第2のケースでは違いが無かった、という事実から、補助金が就学についての条件付きであることの効果は確認されなかったのである。

このマラウイでの結果が意味することは、子どもを学校に通わせるように親に強制する必要などなく(条件付きでなくても親は子どもを学校に通わせる)、金銭を与える財政的援助さえあればいいことを示している。この結果は、マラウイ以外でもモロッコでの調査でも類似の結果が得られているという。

STEP 2-3:金銭の援助が効果をもたらす理由

金銭の財政的な援助が効果をもたらした要因は何だろうか。

子供が学校に行ったことで得られる将来の収入を当てにして、今子供が学校に通うための借金をするという選択肢は考えにくい。なぜなら、子供が期待に応えて職につき稼ぎを得たとしても、それは将来の話である。

第2回の「時間的不整合性」の解説で観たように、人間は将来必要なことは先送りし現在を優先する判断をする。

拠って、子供を学校に通わせる余裕が今は無い場合には、わざわざ借金はしないが、今貰える補助金により子供を学校を通わせる金銭的余裕が今出来たことは、子供を学校に通わせる「あと押し」になった可能性がある。すなわち、どうしても子供が働いて得る収入が必要な家族の場合、援助によって子供を学校に入れる余裕が生まれたのかもしれない。

更に、子供一人当たりの教育費は、世帯の収入が増えると、世帯の総支出よりずっと急激に増えることになる。

なぜなら、教育費が家庭の支出全体に占める割合は、1日99セント以下で暮らす人たちより、1日6ドルから10ドルで暮らす人々の方が多いことが明らかになっている。そして、世帯当たりの子供の数は収入の増加に伴って激減するのである。

親の収入が親の教育への投資の決定に大きな影響を与える、というマラウイでの調査結果は、需要ワラーの主張を明確に否定する。

需要ワラーの主張するように教育機会の提供を市場に任せているだけでは、すべての子供に出自にかかわらず能力に応じた教育を受けさせることはできないのである。

STEP 3:教育の質を変えるための2つの壁

条件付き補助金のプログラムがその取組の歴史で示してきた通り、需要に任せているだけでは、すべての子供に教育機会を与えることは実現できない。

一方、STEP 1-2で観たように、教師は欠勤し、子供の能力レベルも上がっていないという状況では、学校への入学機会を与えているだけでよいはずもない。

つまるところ、需要か供給かというマクロな二元論争の正解はどちらか?に固執していても、具体的な問題は解決されない。バナジ―とデュフロが指摘する通り、マクロな二元論争は、「ほとんど的外れ」で意味を為さないのである。

では、どうすれば、教師の欠勤の問題や学校に行っても簡単な文章の読み書きができるようにならない子供たちという教育の質の問題や、プロローグのシャンタラマさんの子供のような、学校に行きたがらない問題を解決することができるのだろう。

STEP1-2で紹介した世界最大の教育NGOブラサムの取組が、希望の光を照らしだす。

STEP 3-1:「子供の友達」がもたらした成果

インドで1994年に設立された教育NGOブラサムは、貧しい人たちへの教育への取組で素晴らしい成果を挙げ続けている。

ブラサムのリーダーのマドハブ・シャヴァンはアメリカで教育を受け「すべての子供は読むことを学び、学ぶために読むべきで、それができるはず」という信念を固く持ち続けている。

彼のパッションに導かれるように、『poor economics』が出版された2011年で、ブラサムは、インド全国で3億4500万人の子供にプログラムを提供している、恐らく世界で最大の教育NGOに成長している。

このブラサムが、2000年に西インドのムンバイとヴァドダラで始めたプログラムが、「子供の友達」という名前を持つバルサキである。

このバルサキというプログラムは、それぞれの教室でもっとも助けを必要としている20人の子供を選び、苦手なところを一緒に勉強してくれる地元のお姉さん「バルサキ」を派遣するというシンプルなものであった。

このバルサキの効果は絶大で、ヴァダドラでは、インドにおける私立学校の平均的な効果の約2倍をあげたという。

バルサキとなった地元の少女たちは教師として特別な訓練を受けた訳ではない。10年程ふつうに学校に通い、ブラサムによって1週間の研修を受けただけである。平均的な私立や公立の学校の教師よりもずっと教師に必要な教育を受けた時間は短かったのである。

STEP 3-2:「子供の友達」の成功が指し示す課題

ブラサムはこの結果に満足することなく、地元の人たちのみでこの取組が実施できるように取組を拡大した。

ブラサムのボランティアが村々を回り、まず子供たちが何が分かっていないかを調べるテストに参加してもらった。そして、地元からも子供たちを助ける若者が出始め、ブラサムの1週間の研修を受けて、無報酬で夜間講習などを手伝うようになった。

この取組拡大の効果も絶大であった。プログラム以前には字が読めなかった参加児童の全員が少なくとも字が読めるようになったプログラムが始まったときに字が読めるのがやっとだった子供は、プログラムに参加しなかった子供に比べて短い話が読めるようになった割合が26%も高かったのである。

このブラサムの素晴らしい成果をもたらす取組は、インドでも更に広がっているし、他の国へも広がろうとしている。

素晴らしい話だ。しかし、バナジ―とデュフロの詳細な探究は、ここで終わらない。このブラサムの成果は、逆に次のような疑問を投げかける。

このような簡単な取組で、劇的に子供の学力が底上げできるのなら、このような取組みは、なぜ学校制度の中では実現できないのだろうか。また、親もなぜその実現を要求しないのだろう。

実際、ブラサムの拡大プログラムの夜間補習に参加した子どもは、インドのジャウンプル地方では字の読めない子供のうち13%だけだったという。

この理由として、バナジ―とデュフロは、教育特有の重要な問題が横たわっていると指摘する。親にも教師にも、つまり社会全体に、教育が何を実現するのかという期待の特異さがある、のだと。

教育に特有の期待の特異さ、とはなんだろうか。

STEP 3-3:教育に対する期待の特異さ(1)幻のS字曲線

親たちは、教育における最初の数年間は、その後の数年間に比べて割がよくないと考える傾向がある。つまり、小学校に通わせることで期待できる収入よりも、中学校に通って得られる収入の方が多くなる、というように考えるのである。

しかし、多くの調査データで、教育を受けることで得る収入は、概ね教育を受けた年数に応じて増えることが示されている。つまり、事実として、教育を受ければ受けただけ、収入は増えるのである。

教育の費用対効果を「小学校<中学校」と考えてしまう、事実に反する信じ込みを、『poor economics』読解の第1回で登場した貧困の罠を表すS字曲線になぞらえて、バナジ―とデュフロは幻のS字曲線と呼ぶ。

「幻」は現実には存在しない、ものである。

幻のS字曲線があると信じ込んでいる親は、複数の子供がいた場合、子供全員を平等にあつかわなくてもよいと考えてしまう

つまり、小学校は割に合わないと親が考えている場合には、自分のすべての子供をまず小学校に通わせるべきだとは考えない。教育に掛ける費用を子供全員に均等に分散するより、もっとも才能があると思う子供にすべての教育資金をつぎ込むことが、彼らにとっては道理にかなうのである。

この信じ込みが産み出す幻のS字曲線の罠は、たとえ話ではなく、現実に行動選択となって現れることがデータで裏付けられている

ブルキナファソでの調査では、知能テストで高得点を取った若者は就学率が高くなるが、兄弟が高得点をあげると就学率が下がることが分かった。

コロンビアのボコダの事例もこの幻のS字曲線の信じ込みを裏付ける。コロンビアでは、条件付き補助金プログラムにおいて資金が限られていたため、抽選で条件付き補助金を支給することにした。

家族の子供全員がこの抽選を受けられるのだが、家族の中で誰か一人だけ抽選に通った場合、抽選に落ちた同じ家族の残りの子供たちの就学率は、全員が抽選に落ちた家族の子供たちの就学率よりも低くなったのである。

実際には存在しないS字曲線があるという親の「信じ込み」によって、すべての子供が等しく学校に通えなくなるという、本来存在しないはずの貧困の罠が産み出されてしまうのである。

STEP 3-4:教育に対する期待の特異さ(2)エリート主義がもたらす圧力

もう一つの教育における特異な構造は、エリート主義である。

エリート主義とは「教育の役割は、一番の優等生が難しい卒業試験に合格するのに備えることである」という教育制度全体の圧力である。

このエリート主義の「圧力」は、カリキュラムをどんどん難しくする方向へ、教育制度に含まれる仕組みや教育に関わる人たちを誘導する

つまり、エリート主義という集団的価値観がもたらす「圧力」は、すべての子供が必要な基礎学力を身に付けることとは正反対の方向へ、教師たちを向かわせることになる。

このようなエリート主義がはびこっている証拠も『poor economics』の第4章に数多く挙げられている。一例を示そう。

デュフロが関わったケニアでの事例では、教室を再編し、学習の進度に応じて教師を無作為に最高のクラスと最低のクラスに教師を割り振った。この結果、最低のクラスに割り振られた教師は、その後の追跡調査で教壇にすら立たなくなり、職員室でお茶を飲んでいることが多かったという。

STEP 3-5:「ステレオタイプの脅威」がもたらす負のループ

教育者や教育環境全体が持つエリート主義の高い野望と、生徒自身の達成度への低い期待がセットになると、状況はさらに悪化する

子供たち自身が難しい授業についていけないので、どんどん授業に対する期待だけでなく、学校は自分に合わない→自分はダメだ、と自分に対する期待を持たなくなってしまうのである。

冒頭で紹介した、シャンタラマさんの年少の子供たちが学校に通わなくなった理由は、これですっきりと説明することが出来る。

授業が難しすぎることに背景があり、授業で難しい内容を丁寧に分かるまで解説してくれないことにつまづきの原因があるのに「自分が出来ない理由は自分にある」と自分で自分はダメだと思い込んでしまう、のである。

つまり、子供自身が自分の能力を評価する際、社会心理学で「ステレオタイプの脅威」と呼ばれる論法を使ってしまうのである。「ステレオタイプの脅威」は、「時間的不整合性」と同じく、貧しい人たちだけでなく、すべての人に当てはまるものである。

社会心理学者のクロード・スティールによる次の「ステレオタイプの脅威」についての2つの事例を紹介しておこう。

  • 女性が数学に弱いというステレオタイプはこのテストに限っては当てはまらないとはっきり伝えられると、女性は数学のテストで成績が上がる。

  • アフリカ系アメリカ人は、解答用紙の最初にアフリカ系であることを書くように求められるとテストの成績が悪くなる。

多くの発展途上国では、優秀な生徒を一人でも多く出すというわかりやすい成果が優先されてしまう

拠って、このエリート主義とステレオタイプの脅威という、信念や信じ込みがもたらす弊害は、教育カリキュラムという制度の中にまで埋め込まれてしまっている。例えば、インドでは教育権法でカリキュラムが定められてしまっているのである。

ブラサムの「子供の友達」プログラムが成果を上げた理由もこれで説明がつく。公立学校の教師でも出来ない生徒に教える方法は十分理解しているし、教えること自体も厭わないのだが、夏季補習以外の通常の期間の仕事は、そうした対応には全く向けられないのである。

エピローグ:poorな教育を巡る問題:
社会的信じ込みがもたらす行動選択の弊害

思い切って、基礎能力に焦点を絞って取り組めば、実はかなり簡単に「信念と思いこみ」の弊害や問題を取り払って、すべての子供に基礎能力の習得が出来ること、その環境や仕組みを実現できることは、はっきりと分かっていると、バナジ―とデュフロは、実際の事例やプログラムの例を複数挙げて、第4章を締め括っている。

たとえ貧しくも、すべての子供が学校で基礎を学ぶのは十分に実現可能なのである。

ここまで詳細に問題を掘り下げ、構造的要因を理解し、解決に導く事例を積み上げてきた、バナジ―とデュフロは第4章の最後で、静かに言い放つ。

「もっと広い、社会的レベルで見ると、このような信念と行動のパターンは、多くの学校制度が不公平かつ無駄だということを意味します。金持ちの子供が通う学校は、単にもっと多くのことを上手く教えてくれるだけでなく、子供を思いやりをもって扱い、本当の潜在能力を発揮できるよう助けてくれます。貧乏な人々は、傑出した才能を示さない限りはお呼びでないと露骨に言われるような学校に通うことになり、つまり「落ちこぼれるまで苦しめ」と要求されるに等しいわけです。」

「これは、大きな才能の無駄を生んでいます。小学校から大学までに中退してしまった人々と、そもそも学校に行かなかった人々の多く、いやおそらくほとんどが、どこかで生じた判断ミスの犠牲者です。諦めるのが早い親、まともに生徒に教えようとしない教師、生徒自身の気後れ。これらの人々のなかにはまちがいなく、経済学教授や大企業家になれたはずの人々もいたでしょう。それが日雇い労働者や商店主になり、運がよくても泡沫の事務職につくのがせいぜいです。彼らが埋めることのなかったポストのほとんどは、子供が成功するあらゆる機会を与えるだけの余裕のある親のもとに生まれた、二流の子供が埋めることになるのです。」

(『poor economics』第4章、p.136)

非常に厳しい、バナジ―とデュフロの言葉を噛みしめておきたい。

まとめ:『poor economics』読解の最後に
~MHP/RTによる読解と共に

教育の問題でも、教育的な環境の供給か、教育に対するニーズ・需要が必要かというマクロな二元論の論争は用を為さないこと、詳細に問題の構造を掘り下げていくことが重要であることが理解いただけたと思う。

詳細に問題を掘り下げていくことにより、子供が学校に行きたくなくなる要因や複数の子どもがいた場合に優秀な子供以外の就学率が下がってしまう要因は、教育に関わる人たちすべての「エリート主義」、親たちが実在しないのに想定してしまう「幻のS字曲線」、本人たちがどうせできないと思い込んでしまう「ステレオタイプの脅威」に象徴される、信念と思いこみという人間の認知に基づく行動選択の問題に行きつくことも確認できた。

貧しい人たちに関わる教育の問題は、バナジ―とデュフロが明確に訴えたように、「エリート主義」「幻のS字曲線」という思い込みを、まずは、教師や教育政策に関わる人たち、そして、親から捨て去らせることにある。そして、子供たちにも、「ステレオタイプの脅威」が産み出す自分自身への期待値の低さを払底させる必要がある。

そうして、すべての子供に、質の担保された基礎的な教育を受けさせることが出来るようになる。

しかし、信念や思い込みは、そんなに簡単に、払拭できるのだろうか。

信念や思い込みの正体~これまでの読解から

信念や思い込みは、本シリーズのジョゼフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』の第2回で観た「自己家畜化させる」社会規範で触れた通り、その人たちが育った社会的な環境による影響が大きい。

更に、人は集団種であり、ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右に分かれるのか』の第4回で観たように、集団志向性を強化させるミラーニューロンのような「ミツバチスイッチ」が作動することにより、社会環境の影響は集団的に強化されていく。

このような社会環境による影響は、家族構造に埋め込まれた価値観に象徴される。社会的なイデオロギーや成長を生み出す原動力は、家族構造がもたらす価値観が異なる集団や地域で差異化していることを、エマニュエル・トッドの『世界の多様性』のマクロな社会科学的考察で詳細に確認してきた。

ハイトの第2回で観たように、IQの高い人でも、通常は自分の決めた判断や信念を強化する方向にしか情報を集めようとしないため、思い込みを見直すというような緻密で注意深い内省的な思考は簡単ではない。けれど、不可能ではない。

社会環境がもたらす思考の偏りである「思い込み」を、時間制約を緩めることでそれが思い込みであることを注意深く自覚して見直すことが出来れば、思い込みを払拭する対応が可能となる場合もある。

J.ハイトが取り上げた、ジョシュア・グリーンの事例を解説した#7のMHP/RTの読解で示したように、社会規範の影響を、少しでも緩和させるには、遅い論理思考系のsystem2が、早い直観に基づいて自立的に動くsystem1の判断に引きずられてしまわないように、結論を出すまでの制約時間を緩める必要がある。

今回は、自分自身の可能性を狭めてしまう「ステレオタイプの脅威」を対象にして、この信念や思い込みの影響力、そして影響力を低減しうる可能性を、豊田・北島の脳構造モデルMHP/RTを用いて、解読してみよう。

「ステレオタイプの脅威」とは

「ステレオタイプの脅威(stereotype threat)」とは、Wikipediaによれば、「自分の属する社会集団のステレオタイプ」に適合しようとするリスクによって生まれたり、感じたりする窮地である、とされる。

同じくWikipediaによれば、「ステレオタイプ(stereotype)」そのものが、「特定の社会集団に対する一般化された信念」である。

拠って、「ステレオタイプの脅威」は、おおざっぱに纏めると「社会集団に対する一般化された思い込みが、その社会集団に属する自分にも適用されると思い込むことによってもたらされるリスク」となる。つまり、「社会的に信じ込まれている」思い込みについて、それを「自分自身」で思い込んでしまうという、二重構造になっている。

例えば、この原稿でも取り上げた、バナジ―とデュフロが取り上げているクロード・スティールの事例でいえば、「女性は数学に弱い」という思い込みは、第三者的に社会的にそのように信じている(見做している)集団と、そのように信じてしまっている人(女性)自身という二重の思い込みの罠によって生み出される。

同じように、「アフリカ系アフリカ人は頭が悪い」という思い込みも、この思い込みを第三者として信じている人たちと、そう信じてしまっているアフリカ系アフリカ人自身という二重構造を持っている。

この二重構造は、これまで説明してきた本稿シリーズの内容で理解することができる。

すなわち、自分の外部にある特定の(自分の属する)社会集団に対する思い込み(ラベリング)は、社会規範と捉えることが出来る。そして、自分の属する社会集団の規範を遵守しようとすることは、ミツバチスイッチなどの集団指向性によってその仕組みを理解することができる。

言い換えれば、自分に近い社会集団の価値観や社会規範の影響は不可避なのである。

「ステレオタイプの脅威」という不可避な信念や思い込みは、どうすれば、少しでもその影響を回避することができるのだろうか。

信念や思い込みはどうすれば払拭できるのか?
MHP/RTを用いてsystem1とsystem2の働きの違いを捉える

この原稿中で紹介したクロード・スティールの事例で取り上げられているステレオタイプの脅威の回避策は、J.ハイトの第2回で取り上げたプライミング効果の一種である。

信じられていそうな思い込みや信念を具体的に第三者が本人の前で否定することにより、こうしたプライミング効果を起こすことができるという事例である。

つまり、自分の外部にそのような信念や思い込みというバイアスが存在することを認識出来ている第三者がいる場合には、スティールの事例が示す通り、先ず作動する直観的なsystem1に影響を与える形で情報を提供すれば、短期的な影響の回避ができる。

不可避な影響を自分自身の力だけで少しでも回避するには、どうすればよいだろうか。論理的には、不可避な影響があること自体を認知して、時間をゆっくりかけて判断する遅いsystem2系を働かせて思考するしかない。

何度も本稿で登場しているA.ニューウェルの人間の動作の作動時間帯域の図表と、脳構造が二重過程モデル・デュアルプロセスの並列分散な情報処理を行うモデルであることを示した、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RTを用いて、このことを理解してみたい。

A.Newellの人間の行動の動作時間帯域の階層図
MHP/RT概念図

図表で黄色は遅い論理思考のsystem2系の作動帯域、黄緑は早い自律自動処理のsystem1系の作動帯域を示す。

スティールの事例では、単純に数学の問題を解くと聞くとsystem1の早い直観的判断が、本人の記憶に埋め込まれているいつものステレオタイプの脅威の方に倒れてしまおうとする。

これを、女性が数学が出来ないというのは間違いだと伝えることにより、system1の自動的な直観による影響が働くことを抑制し、遅いsystem2の思考による判断が起動してくるまでの間の時間を稼いでいると捉えられる。

即ち、社会規範の影響力は大きいが、ちょっとしたプライミング効果によりその影響力を減衰・減殺させる程度のことである場合もある

前回の『poor economics』の第2回の健康の稿で観た事例を思い出して貰いたい。ダール豆が貰えることで予防注射に足を運んだように、信念や思い込みはそこまで強固でない場合もあるのだ。

言い換えれば、遅いsystem2の思考が少しでも働くようになっているか、もしくは、system1系の判断そのものに影響を与える情報の与え方をすれば、社会環境の影響による盲目的で直観的なsystem1の判断を、抑制することが出来る。

しかしながら、多くの場合、J.ハイトの第6回で取り上げた"WEIRD"な人たちのように、system2系を適切かつ十分に発達させないと、自力で、早い自動的なsystem1系の判断に待ったを掛けるほど強力には機能しない。

例えば、今回の教育についてのバナジ―とデュフロの「基礎的な教育をすべての人に与える機会を持つべき」というメッセージを、単純に、「エリート主義が全ての元凶だ。すべての人に平等な教育を」と捉えてしまうようなsystem1優位の「言語読解能力」では、system2の「論理思考能力」機能が十分に働いているとは言えない。

貧しい人たちへの課題は、バナジ―とデュフロのような真のトップエリートが、一つ一つ詳細に問題を解きほぐして当たることで、解決の道筋は見えてきている。

一方で、日本のsystem1優位性に基づく諸問題は、貧しい人たちの問題以上に根が深く、簡単には根本的な解決に向かえないだろう。

残念だが、この状況を認めた上で、それでも、進める道を一歩ずつ歩むしかない。

(the Photo at the top by @Photohiro1)

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