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脳構造マクロモデルで読み解く人間の行動選択#7『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(4/結)

<シリーズ2> ジョナサン・ハイト
『社会はなぜ左と右に分かれるのか?』
~The Righteous Mind~
最終回
(4)もっと建設的に反対しようよ

ジョナサン・ハイトの『The Righteous Mind』読解の最終回は、本書第三部に描かれている人間の集団性を読み解きながら、意見の違いを乗り越えていく方策の展望を探索しよう。
本シリーズで前回までに眺めてきた、人間の道徳の直観主義的本質「まず直観、それから戦略的思考」、そしてハイトらが主張する人間の認知モジュール構造に基づく道徳基盤のアメリカのリベラル派と保守派の価値観の違いという「現実」に対して、私たちは、どうそれを乗り越えることができるのか?を眺め、本稿の基盤となるおなじみの豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RTを使って、一緒に思索したい。

”Can’t we all get along?”

今回の本稿の日本語タイトル「もっと建設的に反対しようよ」は、第3部最終章の第12章の原題”Can’t we all disagree more constructively?”の直訳である(日本語版では、disagreeは議論と意訳されている)。そして、本書をお読みの方は、お気づきだと思うがこの第12章の原題は、本書の「はじめに」で冒頭に取り上げられたロドニー・キングの言葉である”Can’t we all get along?”をベースにしている。
ロドニー・キングは1991年のロサンゼルス暴動の際、4人の警官から激しい暴行を受けた人物である。キングのこの言葉は、日本では耳にしたことのある人は少ないだろうが、ハイトによればアメリカでは、「キングのこの言葉は、あまりにも頻繁に引用されてきたため、今では一種の決まり文句と化し、相互理解を求める真剣な訴えというより、笑いをとるためのキャッチフレーズになってしまった感がある」(p.12、はじめに)

なぜ、このフレーズでハイトは本書を始めたのか。まずここに本書全体、そして第三部を読み解くカギがある。ハイトがこの言葉を取り上げた理由は二つ。一つ目は、現在のアメリカでは、このフレーズは、米議会等において、相互の信頼関係に基づく建設的な議論のやりとりというよりも、まるでお互いを憎むべき敵と捉えた戦場と化しているかのような民主党と共和党の間の協力関係の崩壊を象徴する場合が多いから。
二つ目は、このフレーズの続きにある。「お願いだよ。ここで仲良くやっていけるはずさ。必ず仲良くやっていけるはず。誰もが、ここでしばらく生きていかなきゃならないんだ。だから、やってみようではないか。」(p.13)ハイトは、この引用に続き、本書について、「皆で仲良くやっていくことが、なぜかくも困難なのかを考える本だ」としている。

人は集団を志向する~自然適応における集団選択の再考

どうやって対立、分断の現実を乗り越えていくかの思索に向けて、第3部の論理の核である「人は集団を志向する」と「ミツバチスイッチ」についての読み解きから始めたい。
人は、100%で利己的でもないし100%利他的でもない。利己的であり、集団性志向を併せ持つ。これが第3部の核となるメッセージの前半部分である。人が集団性志向を持つことは一見当たり前のように思われるかもしれないが、アメリカでハイトが研究を始めた当時は当たり前ではなかった。アメリカでは1970年代以降、集団性志向を裏付ける進化論における集団選択については、学術界では打ち捨てられていた。人は集団種である、という主張は、当時アメリカのインテリ層にも受け入れられないという状況が常識的であったからである。

ちなみに、ちょっと横道にそれるが、当時の常識を打ち破るためにどのようにアプローチしたかという方法論、そして、そのアプローチについて直観を超えて読者の理性に伝わるにはどうすればよいかという記述スタイルの2つの側面を通じて、「現在の対立、分断を乗り越えるにはどうすればよいか?」のヒントに繋がるメッセージが複層的に、メタ構造として埋め込まれていることが本書をより味わい深い本にしている。(前回の第3回の第二部の読解で、途中に、第一部の冒頭にあるハイトの研究の初期のアプローチと内容を詳述したのも、このためである)

読者の直観と理性双方に訴えるべく、第9章でも、ハイトは自分自身の直観をまず記載した上で、その理由を探求していくというアプローチを取っている。

第9章「私たちはなぜ集団を志向するのか?」を、ハイトは2011年9月11日の同時多発テロの後に強く覚えた自身の愛国心的な衝動の告白からスタートする。ハイト自身はリベラル派を自認しており、それまでは自身の愛国心について、自覚する機会はなかったという。それがなぜ、衝動的なまでの愛国心を覚えたのか?という直観で共感を促し、論理的に探索を始めていくという記述スタイルになっている。

さて、人は集団選択を受けた集団種である、という論理を辿る旅に戻ろう。

道徳的な真理の核心をなす利己心と互恵的利他主義が、集団選択の影響をどのように受けたかについて、ハイトは、「ほとんどの道徳真理は啓蒙された利己心の一形態としてとらえられるだろう」(p.298)とする。ダーウィンの進化論、即ち個体レベルで作用する自然選択の結果、という考え方を適用することで、道徳真理が啓蒙された利己心であることを、ハイトは次のように説明する。

遺伝子は利己的であり、利己的な遺伝子は多様な心のモジュールを備えた人間を生む。そしてこれらのモジュールのいくつかは、普遍的で誠実な利他主義ではなく戦略的な利他主義へとわたしたちを導く。こうして私たちの<正義心>は、血縁選択に加え、ゴシップと評判の操作を含めた互恵的利他主義によって形作られる。」(第9章, p.298、太字は本稿筆者)

リチャード・ドーキンスのフレーズを引用しているこの論理は、ジョセフ・ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』の内容とも通底しており、本稿をここまで読んでくださっている読者には、すんなりと受けいれていただけている=直観的に否定されていない、と思う。

ハイトは、更に進んで、上記だけでは不完全であるとする。すなわち、人は戦略的利他主義を選択できるようになっているが、それは上っ面だけのことこの上っ面をはがせば利己心が垣間見えるというようなものだ、という批判を認める。しかし、その上で、人は集団を志向するのも事実だ、と主張する。人間の集団志向とその起源を正しく理解できなければ、道徳、政治、宗教を、保守主義も社会主義・共同体主義も真に理解することは出来ないだろう、とし、次のように主張する。

「人間の本性は利己的だ」というとき、それは、脳には仲間の利益よりも自分の利益を優先させる、さまざまな心のメカニズムが備わっていることを意味する。それに対し、「人は集団を志向する」とは、他集団と競争するにあたって、自集団の利益を促進するように仕向ける、数々の心のメカニズムが備わっているということだ。私たちは聖人ではないが、ときに、よきチームプレーヤーになる。(第9章, p.299、太字は本稿筆者)

ハイトは、上記で指摘した、進化適応における集団選択の再考の必要性、すなわち、人が集団種であることを示すものとして、次の4つの証拠を挙げて詳しく説明している。証拠A-『主要な移行』による超個体の発生、証拠B-意図の共有による道徳マトリックスの形成、証拠C-遺伝子と文化の共進化、証拠D-迅速な進化の4つである。

本稿では、これらの詳細な説明は割愛するが、証拠Cについては、本稿読者には見覚えがあると思う。ハイトが引用している研究は、本稿の前シリーズのジョゼフ・ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』でも引用されている、人類学者のロバート・ボイドとピーター・リチャーソンの『文化と進化プロセス』の主張と事例である。

本稿読者には『文化がヒトを進化させた』読解の第3回で触れた「集団脳」の話を思い出して貰いたい。人は成員数が多く、かつ、成員間のコミュニケーションを円滑で密であるほど、自然選択の中で適応する可能性を高める「集団脳」を形成し世代を超えて集団的に維持することが出来たのである。「人は、100%で利己的でもないし100%利他的でもない。利己的であり、集団性志向を併せ持つ」こと(別の側面として、ヘンリックやハイトらが当時の常識を打ち破って、私たちが直観的に理解しうる新しい常識としてフォーカスしてくれたこと)について、改めて得心いただけていることを願う。

私たち人間は「自分よりも大きく貴いものの一部でありたいと願う利己的な霊長類」という、矛盾した存在なのである。あるいは、「私たちの90パーセントはチンパンジーで10パーセントはミツバチだ」とも言える。そう言えるほど人間は集団を志向し、自らの根城を守ろうとする。それはあたかも、条件が揃うとオンになって集団志向性を活性化するスイッチが、私たちの頭のなかに埋め込まれているかのようだ。」(第9章, p.342、太字は本稿筆者)

ミツバチスイッチ

上記で触れた「スイッチ」は単なる比喩ではない。ハイトは、第10章「ミツバチスイッチ」で、人間が集団としての行動に喜びなどの情動を感じる事例について、陸軍の基礎訓練の行進、世界各地での儀式に盛り込まれている熱狂的な踊り、自然への畏敬の念、アステカ族のキノコに含まれる幻覚作用を取り入れた宗教儀式、現代の音楽イベントにおけるレイブ(RAVE)まで幅広く紹介している。
こうした事例と符合する、デュルケームや進化論の新しい大家ウィリアムズの説を引きながら、人間の集団志向性を、集団レベルでの適応の結果獲得されてきた能力だとハイトは主張する。

ハイトは、この集団を志向する性質、それを起動させるスイッチをミツバチスイッチと名付けている(ちなみに原文の表現はhive switchだが訳者の高橋洋氏がミツバチスイッチと意訳した。私もこちらの方が日本語として記憶に残りやすいと思う)。

「私たちは、(特殊な条件のもとで)自分より大きなもののなかに(一時的に、そして陶酔的に)自己を埋没させ、超越する能力を持っている。この能力を、私は「ミツバチスイッチ」と呼ぶ。そしてそれは、ウィリアムズが述べるように、「集団選択の理論によってのみ」説明可能な、集団レベルの適応だと主張したい。」(第10章, p.346)

比喩としてだけでなく、集団志向性を活性化する私たちの身体に埋め込まれている機能としてのミツバチスイッチの候補も紹介されている。オキシトシンミラーニューロンである。

オキシトシンは視床下部で合成されるホルモンと神経伝達物質である。オキシトシンはもともとは母になる準備を整えるためのホルモンで脊椎動物にも広くみられる。オキシトシンは人間については、他者への信頼を増す効果や他人に信用されたときに高まるなど、家族を超えた効用があるとされる
ただし、オキシトシンも万能ではなく、自分の属する集団への信用や愛情と連携は深いが、自分の属さない集団へは適用されない。すなわち、他集団とより効率的に競えるように、自らのパートナーや属する集団へと結び付けるのであって、人類一般への結びつきを拡大するようにはなっていない。これは最近の研究でも検証されている。

もう一つのミツバチスイッチの有力候補はミラーニューロンである。ミラーニューロンは1980年代にマカクザルを使って大脳皮質の個々の細胞がどのような微細な運動をコントロールする働きをしているのかを研究していたイタリアのチームによって偶然発見された。自らの動作をしているときに発火するニューロンは、自分が動作せず他者が同じ動作を実行しているのを観ているときにも発火したのだ。
この後に続く研究によって、ミラーニューロンのほとんどは、身体の運動だけでなく、より一般的な意図や目標が示された行動を見ても発火することが分かっているという。そして、ヒトのミラーニューロンは、情動に関係する脳領域と強いつながりを持っている。まず、島皮質につながり、島皮質から扁桃体と大脳辺縁系領域に接続されている。

「人間は互いの苦痛や喜びを、他の霊長類よりもはるかに強く感じている。誰かがほほえんでいるところを見ただけで、自分がほほえんだときに活性化するニューロンのいくつかが発火する。要するに、誰かがあなたにほほえみかけると、あなたの脳も幸せな気分に満たされてほほえみたくなり、それがまた別の誰かの脳へと伝わっていくのだ。」(第10章, p.365、太字は本稿筆者)

ただし、ミラーニューロンも人類すべてに通じるわけではない。神経学者のタニア・シンガーのチームの研究では、ミラーニューロンが発火するのは条件があることが確認されている。シンガーの実験はこのようなものだ。初対面の二人に経済ゲームを実施してもらう。このとき、二人のうちの一人は友好的に、もう一人は利己的にプレイした。実験の次のセクションでは、被験者の脳をスキャンしながら無作為に、手に軽い電撃を加えた。この結果、友好的なプレイヤーが電撃を受けると、それを観ていた被験者の脳は同じように反応したが、利己的なプレイヤーが電撃を受けた場合は、脳は共感を著す反応を示さず、喜びを感じる場合すらあったという。

私たちは目に入ったすべての人々に無条件に共感するのではない。その意味では、人間は条件付きミツバチであり、自分の道徳マトリックスに反するものより従っているものに共感し、後者の行動を模倣することが多い」(第10章, p.366)

ここまでの内容を纏めると、ヒトは、自然適応の結果として、利己主義だけに留まらない、集団指向性を特定の条件下で発動させるミツバチスイッチを持つ。しかし、集団指向性は、人類全般ではなく、競争を有利にさせるよう、特定の集団、道徳マトリックスを共有する集団に共感するように仕向ける。これが、第三部でハイトが展開している道徳の第三原理「道徳は人を結び付けると同時に盲目にする」の骨子になる。

利己主義を越えて

ハイトは、第一部の合理主義への挑戦、第二部の道徳の領域の拡大、そして第三部の前半における人間の本性としての利己主義を乗り越えてきた証を踏まえ、第11章において、ようやく準備が整ったとして、道徳の定義を次のように機能的、記述的に展開する。

道徳システムとは、一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、制度、テクノロジー、そして進化のプロセスを通して獲得された心理的なメカニズムが連動し、利己主義を抑制、もしくは統制して、協力的な社会の構築を可能にするものである」(第11章, p.416-7、太字は本稿筆者)

一読で簡単かつ十分に理解することが難しい定義に映るが、本稿シリーズでのこれまでの読解を通じて、「道徳システムは様々な個人的、社会的に跨る機能や仕組みが連動する」ことを伝える前半部分、また、「利己主義を乗り越えて協力的な社会を構築を可能にする」という後半部分の核の構造について、それぞれ、少なくとも、直観的に否定せず、ポジティブな印象と理解はできるというフィーリングを持っていただけていたら嬉しい。

さて、最後に、どうすれば協力的な社会が構築できるか?を展望しよう。残念ながら、簡単なレシピや治療薬は存在しない。ただ、現在の世界は、どうすれば分断を乗り越えて協力出来るか?を考え、行動に移すことを求められている局面が日々、残念ながら増加している。日本にも様々な分断、目に見えにくい分断があるが、ここではハイトの触れる、現在のアメリカの状況とその状況への対処策を紹介する。

アメリカの二極化

『The Righteous Mind』が書かれたのは2012年でオバマ氏が再選を果たす前のタイミングだが、当時でも、アメリカの二極化は進みつつある状況であった。有権者では2000年から2011年の間に中道が減少し(40%→36%)、保守(38%→41%)、および、リベラル(19%→21%)が増えるという状況が進んでいた。ワシントンやメディアではもっと酷く、党派を超える友好関係や社会的な接触が推奨されなくなり、対立が加速されていた状況だった(第12章, p423-4)。2020年の大統領選挙のプロセスや結果を眺めると、この分断の状況は、更に深刻化しているように思える。

このアメリカの分断の状況を生み出した構造は、道徳基盤システムで説明することが出来る。すなわち、前回の第3回で観たように、ハイトらは、アメリカの民主党支持者と共和党支持者では、道徳基盤が異なっていることを明らかにした。すなわち、リベラル寄りの民主党支持者は3つの道徳基盤にしか価値を置かないのに対し、保守寄りの共和党支持者は5つの道徳基盤すべてに均等に価値観を置く。この違いが何を生み出すのか、ハイトとジェシー・グラハム、ブライアン・ノセックによる共同研究の結果からもう少し踏み込んで理解してみたい。
この共同研究では、2000人以上のアメリカ人に、道徳基盤質問票への記入を依頼した。その際に、①自分自身がどう考えるのか、②自分が「典型的なリベラル」だったらどう回答するか?、③自分が「典型的な保守主義者」だったらどう回答するかを、それぞれ1/3ずつ回答してもらった。

「結果は明白で、一貫していた。中道と保守主義者は、リベラルのふりをしようが保守主義者のふりをしようが、予測は的確だった。それに比べてリベラル、とりわけ「非常にリベラル」を自称する人は、予測の正確さが落ちたもっとも大きな予測違いは、リベラルが保守主義者のつもりで<ケア>と<公正>基盤に関する質問に答えたときに生じた」(第12章, p.441、太字は本稿筆者)

つまり、リベラル(ここでは民主党支持者と置き換えてもらってよい)は、保守主義者(ここでは共和党支持者と置き換えてもらってよい)が、<忠誠><権威><神聖>基盤が持つポジティブな価値を追求していることを理解できず、<ケア><公正>基盤にまったく価値を認めていない、というようにしか見ることが出来ない、のである。

そもそも「相手が何を大事にしているかという価値観を理解できていない、想像も出来ていないという状況」に多くの人たちは気づいてすらいない状況では、例えば環境問題などの複雑な社会問題に、建設的な合意、その前段としての建設的な議論の兆候が見出せないのも、やむを得ない、としか感じられないだろう。ハイトも2007年のブリンストン大学での有識者たちとの会議において、二極化の大部分は避けられない、という結論を出さざるを得なかった。しかし、そこで終わらないための一歩を踏み出すためのヒントもわずかながら、かつ、逆説的にではあるが、同じ会議で見出せたという。

Can‘t we all disagree more constructively?

突き詰めると、ヒトは誰でも、自らが属する集団以外のことについては盲目になる。相手の集団が重要視している価値観について理解はおろか想像すら出来ない(可能性と確率が極めて高い)。

この状況に手立てを講じるなら、この状況を生み出す構造的な原因である、直観<象>を変えていく必要がある。相手の集団のことを理解したいのなら、相手が尊重している価値観が、道徳基盤の中でどこにあるのかをよく学ぼうとする必要がある。

この態度の変容にも、まず少なくとも2か所、直観<象>を乗り手が誘導する必要がある。まず「相手のことを理解したい」と感じること、そして、「相手の価値観が重点がどこにあるのかを学ぼう」とすること、の2つである。

これは、意識を強く働かせないと非常に難しい作業になる。なぜなら、直観とそれに紐づく感情を伴った経験がそうしようとする指向を阻害するからだ。仮に、このような作業が意識的に実施できたとして、相手の意見に同意できない場合もあるし、見解の不一致は残るだろう。その結果は、苦労して意識的に直観を抑え込んだ労苦に報いる対価とは程遠いかもしれない。

それでも、相手<彼ら>か<私たち>かという二者択一ではなく、ハイトのいう「お互いの陰と陽」を尊重して新しい歩みよりを採択できる余地は、一歩を踏み込んだ先にしか生じえない。残念ながら。

はじめにで引用したロドニー・キングの言葉を再び引いている、ハイトの本書の結びを紹介したい。すぐに即効薬を期待する向きには全く満足できない記述だが、<私たち>は、このようにしか始められない。

「したがって、異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったなら、次のことを心掛けるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、相手に対する称賛の気持ちや誠実な関心の表明を忘れないようにしよう。
ロドニー・キングが言ったように、誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、やってみようではないか。」(結言, p.485-6)

MHP/RTによる読解

今回のMHP/RTを使った読解は、もうしばらくうまくやっていく方法について、ハイトの記述内容についての希望に繋がる、第3章の最後に挙げられている「道徳的な問題に関して、思考を通じて最初の直観的な判断とは反対の結論に至る」(第3章,p.125)まれな事例(2012年時点では、ハイトもこのような事例はこの一つしか知らない、としている)を眺め、MHP/RTを使ってその可能性を構造的に考察したい。

この事例は、ジョー・パクストンとジョシュア・グリーンの2011年の研究論文(Reflection and reasoning in moral judgment, Joseph M Paxton, Leo Ungar, Joshua D Greene) で、道徳判断における内省・熟考の効用の可能性を示している。

実験内容はこのようなものである。ハーバード大学の学生を被験者として、大学生の兄妹の夏のバカンスでの合意の上での近親相姦に関する道徳ストーリーを聞かせ、その後、被験者の半分には、ストーリーで取り上げた合意に基づく近親相姦を正当化する非常に出来の悪い議論を聞かせ(二人が愛し合えば、その分世界に愛は増える)、もう半分には堅実な議論(近親相姦の忌避は避妊具が無かった世界で奇形の子孫の誕生を回避するための進化的な適応で生じたが、兄妹は避妊具を使っており、そのリスクはない)を付け加えた。
ハーバードの学生なら、出来の悪い議論より、堅実な議論により説得されやすいのではないかと想像されたが、この実験では2つの議論の違いによる被験者の反応に差は見られなかった。つまり、ここまでの結果は、道徳的な判断についての「まず直観」を補強するもので、それが理由付けや議論によって変更されづらい、という状況を指し示している。

パクストンとグリーンは実験に更にひねりを加え、一部の学生にはすぐに答えさせず、2分待ってから回答させるようにした。この場合には2つの集団に差異が生まれた。出来の悪い議論を聴かされた被験者は、兄妹を非難する場合が多かった(すぐに答えた場合よりも非難する被験者が少し多かったという)、2分間熟考した被験者は兄妹の行為にはるかに寛容な態度を示すようになった

「<象>が一方の見方へと傾いても、突発的な感情の効果は二分間も継続しないことがわかった。画面を眺めているうち、<象>の偏りが小さくなって、与えられた議論をよく考えてみる余地が<乗り手>に生まれたのである。(中略)二分間の遅れによって考える時間を与えられた<乗り手>は、たいていの被験者の<象>が最初にいだいていた直観に反する判断を下したのだ」(第3章, p.126、太字は本稿筆者)

この実験事例は、すべての場合に適用しうるものではないかもしれないが、一定時間の間を置き、質の良い議論を再考する時間が与えられれば、直観の判断結果を論理的思考が覆すことがある、ということを示す。「なんとかやってみようではないか?」というハイトの提唱が単なる希望ではないことを示すささやかなエビデンスと言える。

それでは、なぜ、直観を覆すこのようなことが起こりえるのか。MHP/RTを適用するとその構造が非常によく理解できる。
今回の読解のカギは、MHP/RTの「/RT」すなわち、「with Real Time constraints」の部分にある。この稿の最初のシリーズの第2回で触れたように、MHP/RTは、システム1とシステム2がデュアル機構(並列分散処理機構)になっているだけではなく、この2つの機構が与えられた制約時間内であれば、微弱ながら同期を取りうる仕組みになっていることを、マクロモデルとして見事に説明している
すなわち、2分間の猶予は、A.ニューウエルが明らかにしたように、論理的思考すなわちシステム2の作動を可能にする時間を与える。

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NEWEL×帯域

この2分という制約時間内に、短期記憶に十分に残っているであろう直近の議論内容を、ハーバードの学生は、自身のそれまでの論理的思考能力や経験、記憶にも照らして、吟味するだけの冷静な思考力を十分に有していると考えられる。出来の悪い議論では、その議論内容が、直観を上書き更新しなかったことも、MHP/RTは非常によく適合する。そのぐらい、システム1すなわち直観の自律自動処理は強力なのである。出来の悪い議論により、より判断を棄却する傾向が上書きされると、更にそれを自身の長期記憶と経験に立ち戻って上書き更新することも難しくなる。

一方で、良質な議論は、直観の判断と違う結論も、二分間という制約時間内に(WEIRDなハーバードの学生なら、かもしれないが)導き出しえるシステム2がフィードバック的に、良質な議論に導かれて、過去の情動とセットになった記憶と経験を動員して、意識的・論理的に、システム1の結論=直観を覆すには制約時間を少し緩めることが不可欠になる。

第2回シリーズのまとめ

以上で、ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右に分かれるのか?』の読解を終える。非常に緻密に、読者にその内容と構成で希望と勇気を与える知の良書であり、道徳心理学という領域に留まらず、もっと日本でも広く読まれて貰いたい。この原稿がその一助になれば幸いである。

また、ハイトの内容の前提には、最新の進化生物学、社会科学、神経科学、認知科学の成果が取り込まれていること、それらがこのようにアメリカでは一般向けの書籍となりベストセラーとなって、少なくとも知識層には広く読まれていることも、押さえておくべきトレンドである。つまり、アメリカではこの内容は、知識層はコモンセンスとして持っている人が多数いると考えたほうがよい(かたや、日本は、、、という議論は一旦おいておこう)。

本シリーズの次回は、同じくアメリカの気鋭の道徳心理学者で、ハイトの著書にも本稿にも何度か引用元として登場したジョシュア・グリーンの『モラル・トライブス』のレビューを予定している。
価値観の対立をどう乗り越えていくのかが、脳構造がデュアル機構であることを前提として展望されており、ハイトの本書での見解についてもグリーンは賛同と批判を交えて展開している。
これまでのシリーズを総括的に振り返る意味でも、興味深い一冊である。
お楽しみに。

(the Photo at the top by @Photohiro1)

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