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脳構造マクロモデルで読み解く人間の行動選択#6『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(3)

<シリーズ2> ジョナサン・ハイト
『社会はなぜ左と右に分かれるのか?』
~The Righteous Mind~
(3)“WEIRD”な価値観/道徳基盤を越えて

米国Foreign Policy 誌の100 Top Global Thinkers 2012、英国Prospect 誌のWorld Thinkers 2013に選ばれた、アメリカの心理学者ジョナサン・ハイトの2012年の著書『The Righteous Mind』(日本語タイトル『社会はなぜ左と右に分かれるのか』2014年初版)読解の第3回は、本書第2部の「道徳は危害と公正だけではない―<正義心>は、六種類の味覚センサーを持つ舌だ」で展開される、文化による道徳・価値観の違いについて考察する。ハイトが提唱する6つの道徳基盤を基に、アメリカで民主党と共和党を支持する人たち・リベラルと保守の人たちの価値観の相違を構造的に理解しよう。最後に、このシリーズの特徴である、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RT(Model Human Processor with RealTime constraints)を援用して、内容の理解を深める。

“WEIRD”の特徴

第二部は「奇妙な(WEIRD)道徳を超えて」と題する第5章からスタートする。WEIRDとは何を意味するのか。
本シリーズの第1回シリーズで紹介した『文化がヒトを進化させた』の著者であるジョセフ・ヘンリックは、スティーブン・ハイン、アラ・ノレンザヤンとNature誌に、“Most people are not WEIRD”と題する論文を2010年に発表している。ヘンリックらのいうWEIRDは、Western(欧米の)、educated(啓蒙化され)、industrialized(産業化された)、rich(裕福で)、democratic(民主主義的な)文化のもとで暮らす人々を指す略語として用いられている。weirdは英単語としては「奇妙な」を意味する形容詞だが、“Most people are not WEIRD”には、WEIRDな人々はweirdだという意味が込められている(以下、本稿では、英単語のweirdと区別するため、この趣旨のときは大文字表記のWEIRDとする)。そして、世界の中で、WEIRDな人々・WEIRDな価値観を有する人は多数派でない、という含意も込められている。(さらに逆説的には、ハイトもヘンリックもそのような表現はとっていないが、WEIRDな人々は極めて限られた人数のエリート層だ、という趣旨にも解釈は出来る)。どういうことか。

ヘンリックはこの2010年のNatureの論文で、何十もの研究を調査し、WEIRD文化に属する人々は統計的な例外を為すので、道徳のような人間性を取り扱う理論や考えを一般化させたいのなら、研究対象としては、もっと幅を広げる必要があり、欧米の大学生だけをサンプルとした研究は適切ではない、と主張している。ハイトもWEIRDな文化の特徴を以下のように記載している。

WEIRD文化の特異性の一つは、「WEIRDであればあるほど、世界を関係の網の目ではなく、個々のものの集まりとして見るようになる」という単純な一般化によってうまく説明できる。(第5章,p.164、太字は本稿筆者)

WEIRDの特徴をもう少し理解するために、幅広く研究されている欧米人と東アジア人の違いの研究事例を第5章から紹介しよう。

まず1991年のマーカスと北山の研究(”Culture and the self: Implications for cognition, emotion, and motivation”, HR Markus, S Kitayama, Psychological review)によると、欧米人は、東アジア人に比べて、自己をより自立的で独立した存在とみなすとされてきた(p.164)例として、「私は」で始める文を20上げさせると違いが良く分かるという。アメリカ人は自分の内面を表現しようとする。「幸せだ」「社交的だ」「ジャズに興味がある」など。一方、東アジア人は役割や関係を挙げようとするという。「一人息子だ」「結婚している」「XXX企業の社員だ」など。

更に、ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』でも取り上げられている、視覚も欧米人と東アジア人では違いがあるという2009年の北山らの研究事例(“A cultural task analysis of implicit independence: Comparing North America Western Europe, and East Asia.”, S Kitayama et al,Journal of Personality and Social Psychology)を紹介しよう。この研究での実験は次のようなものである。
最初のページには、正方形の中に、一本、線が引かれた図があり、次のページには、元の図より大きいか、小さい、空白の正方形が書かれている。この2ページ目の空白の正方形の中に、前のページで観たのと同じ線を、(1)絶対的な尺度で線を引く(正方形の大きさを無視して、同じ長さの線を引く)、(2)相対的な尺度(正方形と線の比率が等しくなるように)で線を引く、という二種類の課題を行う。
この結果、欧米人、特にアメリカ人は、絶対的な尺度で線を引く試行の結果が優れており東アジア人は相対的な尺度で線を引くことに優れている。つまり、欧米人は、線を独立したものとみなし、正方形とは別のものとして記憶する傾向があるのに対し、東アジア人は無意識のうちに部分間の関係を捉えて記憶する傾向があるため、このような違いが生まれる。

視覚・認知、自己表現が異なると、ものの考え方、思考様式も異なってくる。ハイトいわく、非WEIRD文化の思想家が道徳を語ると、孔子の論語のように、「ある一つのルールに還元出来ない格言や逸話のコレクションのようなものになる」(p.166)一方、WEIRD文化では、「WEIRD文化の哲学者が、個人中心主義的、ルール志向的、普遍主義的な道徳システムを主に提唱してきた理由がよく分かる」(p.165-166)すなわち、非WEIRD文化の世界のたいていの人々は、ものごとを全体的な視点から考える一方、WEIRD文化に属する人々は、より分析的に考える
この違いはどのようなものか、ハイト自身のインドでの経験のエピソードからもう少し具体的に、掘り下げてみよう。

ハイトのインドでの体験

“WEIRD”、すなわち、Western(欧米の)、educared(啓蒙化され)、industrialized(産業化された)、rich(裕福で)、democratic(民主主義的な)文化のもとで暮らす人々の価値観は、決して世界普遍的なものではないことを示す研究成果は、知識としては理解できる。ハイトは、1993年から94年に掛けての奨学金を利用した神性の研究についてのインド滞在の体験を通じて、世界には自身が馴染んできたものとは異なる道徳的価値観を自ら体験した。

プヴァネーシュヴァルでの最初の数週間は、ショックと不調和に満ちた日々となった。(中略)。またあるときには、神聖とされているものの明らかに不衛生な川の水で、体を洗ったり料理をしている人々を見かけた」(第5章,p.172)
インドの社会では、平等や個人の自立は、神聖な価値とはみなされていない。年長者、神、来客に栄養を与え、従者を保護し、自分に与えられた役割を果たすことのほうが重要だと考えられている」(第5章,p.173)
(太字は本稿筆者)

大学院時代、道徳的な嫌悪について研究していたハイトは、自身の仮説として、神を頂点とし悪魔や悪を最底辺に置く社会空間の垂直次元を自動的に感知する感覚、これにより自動的に産み出される嫌悪感があることをインドで理論として検証しようとしていた。このような道徳的な価値観や自動的な感覚があることは、WERIDを筆頭として全ての文化にあまねく存在するものではなく、WERIDの文化圏にいては感知すら難しい。しかし、インドにおけるヒンズー教の輪廻転生の考え方への直接的な接触と体験を通じて、極めて簡単に実証をすることが出来、ハイト自身も神性の倫理を敏感に感じとれるようになった、という。

アメリカの東部や西海岸の裕福な都市部にインテリ層として普通に暮らしていたのでは、その善悪を直観的に判断して棄却してしまいかねない、頭でだけ理解していた概念や行動基準があることを、ハイトは自身の身体感覚を通じて体感、経験した。しかし、ハイトが当初覚えた不調和な感覚は、インドでの数週間の生活の後、人類学者であるからではなく、普通の人々として有する共感能力を通じて解消していったという。

単なる理論上の知見としてではなく、インドでの留学研究体験を基に、ハイトは、人類学的事実として、道徳領域は文化ごとに変化する(裏を返せば、WEIRDの固有性)という道徳の多元性を主張する。
この多元性はどのように生まれてくるのだろうか?

道徳はどこから生じてくるのか?
-ブラジルとアメリカの差異と共通項

文化ごとに異なる道徳はどのように生じて来るのか、本稿の核心であるハイトの6つの道徳基盤の前に、第1章で展開されているハイトの研究初期のエピソードをまず紹介しよう。

ハイトは1987年に、ペンシルベニア大学の大学院で、人間の思考と意思決定のあり方を研究していたジョナサン・バロン教授を指導教官に、道徳心理学の研究を始めた。1987年当時、道徳心理学の最大の主題は、「道徳は何に由来するのか?」「子どもはどのように善悪を区別するようになるのか?」にあったという。
生まれつき組み込まれているのか、子どもは白紙の状態で生まれ大人から教わるなどして経験から学ぶのか、はたまた、1930年代の著名な発達心理学者のジャン・ピアジェの観察をベースにした、子どもは自分で道徳を見出していくとする「合理主義者」の考え方に従うのか。ハイトは「合理主義者」という表現を「合理的な思考は、道徳的な知識を獲得するための、もっとも重要で信頼できる方法である」と考えるあらゆる人々を指すものとしている。

1987年当時、道徳心理学の研究は最後の合理主義にフォーカスを当てていた。ピアジェの洞察を、1960年代に定量化手法を通じて拡張したローレンス・コールバーグにより、「合理主義者」の主張は当時の主流となっていた
コールバーグの開発した手法は、「ハインツは、死に瀕する妻のために薬局に忍び込んで薬を盗むべきか?」「ルイーズは、妹が嘘をついたことを母親に報告すべきか?」などの一連の道徳ジレンマを考察し、さまざまな年齢の子どもたちに示し、この回答を記録するというものである。ただし、「はい」か「いいえ」かという回答には大した意味はなく、答えの説明として子どもが挙げる理由が重要だとする

コールバーグは、この方法を利用した測定を通じて、ピアジェが発見した物理環境に対する子どもの思考の6つの発達段階と合致する、社会環境を対象とする子どもの思考段階を6つに分けたものを提唱している。
最初の2段階は「前慣習的」レベル、次の2段階を「慣習的」レベル、最後の2段階を「脱慣習的」レベルとしている。この概要は以下のようなものだ。

・幼い子どもは前慣習的レベルにあり、善悪の判断をその人が罰せられたかどうかなど、きわめて表面的な根拠に基づいて判断する。即ち、大人がある行為を罰したら、その行為は間違っている、と考える。
・小学校に入学し通っているうちに、「慣習的」レベルに移行する。ルールや社会慣習を理解したり、あるいは巧みに利用したりできるようになる。大人の課す制限の中でうまく振る舞えるようになっても、権威の正当性をほとんど疑わない。
・思春期が過ぎ抽象的な思考が可能になるとピアジェが見なす年齢に達すると、権威の本質、正義の意味、ルールや法の背後の見方について、自分自身で考え始める「脱慣習的」レベルに到達していく。

この手法に基づく発達段階の整理と、次に述べるもう一つの発見によって、コールバーグの開発した手法を用いて、当時、大勢の若手の心理学者が合理主義的観点から道徳の研究を始めるようになっていた。コールバーグのもう一つのは発見で当時大きな影響を及ぼしたものは、「(彼が考案した採点技術によって)もっとも道徳的に発達している(と測定された)子どもは、役割取得の機会―他者の立場でものごとを考え、他者の観点で問題をとらえる―を数多く経験している」というものである。
役割取得の関係は、同級生などの平等な関係では生じるが、上下関係の中では発生しないことから、ピアジェもゴールドバーグも、教師を含めた権威者が、道徳の発達の障害になると考えている。
これは、戦後生まれの最初のベビーブーマーの世代が大学院に入学しようとしていた頃、道徳心理学を正義への賛歌として、リベラルとしての成長度を測定する道具を与えたことに等しい、とハイトは述べている。
こうして1970年代から90年代にかけて四半世紀の間、道徳心理学者は、道徳ジレンマを用いた若者へのインタビューとその答えの理由の分析を主な研究活動としていたのである。

この流れを代表するのが、エリオット・テュリエルである。テュリエルは、道徳的な概念の最初の発生の兆候をつかむため、言語能力をそれほど要求しない測定技術を開発した。テュリエルは彼の開発した手法に基づく調査を基に、衣服や食物に関する規則や他の多くの生活上の決まりである「社会的な慣習」に基づく規則と、人を傷つけるのは悪いことだというような「道徳的な規則」について、子どもは既に違いを区別しているとしている。

道徳の発達に関するテュリエルとコールバーグの理論は多くの点で異なっているが、ハイトは、政治的な意味合いにおいては類似する、と捉えている。即ち、両者とも、「道徳は個人を大切に扱うこと」に関すること、ハイトの考え方に沿って表現すると危害や公正さに関するものであるとしている。

ハイトがバロンの研究室に入り、道徳心理学の研究を始めたときは、コールバーグとテュリエルの理論、即ち合理主義者の考え方が主流の位置を占めていた。しかし、数年間西アフリカで社会関係の心理基盤の研究した実績のあるアラン・フィスクの文化心理学の講義で、人類学者が書いたフィールドワークや民族誌の本を読まされたことを契機にして、欧米諸国が歴史上の例外である、という事実に気が付く。それは即ち、世界には、危害と公正以外に関わる道徳秩序が多様に存在しているという事実への気づきになった

心理学者の本とは異なり、人類学者が書いた道徳についての本は、ハイトにとって、かなり魅力的に映ったという。そして、フィスクのかつての指導教官であるリチャード・シュウィーダーの論文に遭遇する。
シュウィーダーは、インドの東海岸にあるオリッサ州に住んで研究をしていた心理人類学者で、オリッサ州の住民とアメリカ人では、自己や個人についての見方に大きな相違があり、それが道徳に関する両者の考え方の違いに繋がっていることを発見した
シュウィーダーは文化が異なると自己も違ってくる理由として、社会の秩序を守るための個人と集団のバランスについて、向社会主義と個人主義の違いを挙げている。

道徳と社会的慣習の区別は、世界中の子どもがそれを用いて自分で道徳知識を築いていくためのツールではなく、この区別は、文化的な産物である。即ち、個人と集団の関係についての問いに対する個人主義的な答えに拠って必然的に産み出された副産物だということがわかるはずだ」(第1章, p.46 太字は本稿筆者)

このシュウィーダーの発見とテュリエルの言説はどちらが適切かを検証するために、ハイトは、彼の初期の研究として、ブラジルのポルトアレグレ、レシフェの2都市と、アメリカのフィラデルフィアの合計3都市で、上流と下流の2つの階級に属する大人(18歳から28歳)と子ども(10歳~12歳)の合計12グループ、各グループ30人に対して、次の2つのストーリーに対する賛否と理由を確認する、合計360回のインタビュー調査を行った。ストーリの一つはテュリエルが使った「ブランコに乗る少年を少女が押しのけるというストーリー(明確な道徳的侵犯としての例)と、もう一つは、少年が制服の着用を拒むというストーリー(社会的な慣習の侵犯としての例)である。

この研究を通じて、ハイトは次の4つの発見をしている。

1つ目は、この2つのストーリーに対する上流階級のブラジルの2都市の反応は、アメリカと全く同じだった。しかし、労働者階級(上記で下流階級とされる)ブラジル人の子どもの多くは、とりわけレシフェでは、「社会的な慣習を無視して制服を着用しないのは間違っている<いついかなる場所でも間違っている>」と答えている。この結果は、「道徳と慣習を区別する程度は、文化によって異なる」というシュウィーダーの見解を支持する。

2つ目の発見は、無害なタブー侵犯ストーリーに異なるに対する理由付けの違いである。フィラデルフィアの上流階級は、社会的な慣習の侵犯として、レシフェの下流階級の人たちは、道徳的な侵犯として、判断を下した、ということだ。この結果は都市間よりも、階級間の方が有意な差が観られた。つまり、三都市の教育程度の高い上流階級の結果の方が、同じ都市の下級階層よりも互いに類似する結果が得られた。つまり、同じアメリカでも、道徳的な判断(との要因)は異なる、のである。

3つ目の発見は、ハイトらがこの調査で見出した統計的に有意な差異は、危害に対する認識が異なる人を除いた場合でも結果が変わらなかった、ということである。具体的には、「登場人物がしたことで誰かが危害を受けたと思いますか?」という追加の質問の回答で、イエスと答えた人を除いても結果が変わらなかった。つまり「道徳は危害のみならず、もっと広い領域をカバーする」というシュウィーダーの発見が、他文化に属する人には見えない犠牲者の認知によって引き起こされているというテュリエルが主張する構造によるものならば、このイエスと答えた人を除くと、文化間(ここでは都市間)の差異は無くなるはずだが、逆に有意差は大きくなった

これらの結果、シュウィーダーの主張が支持された。つまり、「テュリエルの発見は、個人主義的な文化の中で育てられ教育された人々を対象にした場合には再確認された。しかし、それとともに、彼の理論はその範囲を越えては適用できないとする、シュウィーダーの主張の正しさも確認された。道徳の領域は、国や階級によって変わり、私の研究の被験者の多くにとっては、障害や公正のみならず、より広い領域をカバーするという事実が確認された」(第1章, p.54)

更に、この3都市での2階級の大人成人の比較の調査からハイトはもう一つ次の4つめの発見をしている。それはインタビューの中で、38%と約4割の人が、被害者をでっちあげようとする被験者がいた、ことだった。ハイトは、インタビューに用いたストーリーについて、非常に注意深く誰かにとって危害となると取られる表現は排除していたにも関わらず、である。この発見が、本稿の今回のシリーズの第1回、第2回で触れた、「まず直観、それから戦略的思考」の次のハイトの研究に繋がっていく。被害者をでっちあげる、という行動は第2回で展開した、論理的な思考は、自分を正当化することに長けており、IQの高い人も自分の判断を正当化する証拠を集める能力が高いに過ぎない、という事象をよく説明している特質なのである。

このハイトの初期の研究成果に纏わるエピソードを長々と紹介した理由は、道徳の多様性は育った地域だけではなく、育った環境によって異なるという事実をお伝えするだけでなく、ハイトの当時主流となっていた考え方への疑問がこの新しい発見に導いたというスタイルを、現状を打破するメタ的な方法論としてお伝えしたかったからである。
最後に、道徳基盤の話に移ろう。

文化による道徳の違いを説明する「認知モジュール」=「道徳基盤」

“WEIRD”の特有さ、欧米人と東アジア人の視覚や思考様式の違い、ハイト自身のインドでの留学体験、そして、ブラジルのポルトアレグレ、レシフェとフィラデルフィアを対象にした調査での都市毎の違いと共通性、更に上流階級と労働者階級についての階級間の差異での都市間での共通性。
これらは、文化や環境が違えば、道徳に関する価値観も異なることを指し示している。ハイトは研究を進め、道徳に関わる共通基盤を探求し、特定する研究を進めた。
道徳に関わる共通基盤、道徳基盤とは、人に備わる道徳的な判断を行う際のスイッチ・判断基準になるものだ。ハイトは同僚のクレイグ・ジョゼフと共に、道徳基盤の探究にあたり、彼らの研究と非常によく適合する「認知モジュール」の概念を導入した。

「認知モジュール」とは、認知人類学者のダン・スペルベルとローレンス・ヒルシュフェルトが提唱したもので、ハイトは以下のように述べている。

モジュールとは、すべての動物の脳に備わっている小さなスイッチのようなものを意味する。それらは特定の生体環境のなかで、自らの生存にとって重要なパターンが入力されるとオンになり、その動物の行動を(通常は)適応の方向へ導く信号を発する。(中略)。スペルベルとヒルシュフェルトは次のように言う。
 進化した認知モジュール、たとえばヘビ検出器や顔を認知する装置は、(・・・)太古の環境のもとで、その生物種の祖先が、問題や何らかの好機を引き起こすさまざまな現象に適応した結果獲得されたものだ。そしてその機能は、ある特定のタイプの刺激や入力(たとえばヘビや人間の顔)を処理することにある。」(第6章, p.203、太字は本稿筆者)

スペルベルらの認知モジュールの概念は、社会生活における脅威や好機に適応する仕組みとして現在の社会環境に適用を拡大すると、人々の注意を引きつけ、直観的な反応を起こし、場合によっては情動を生む、という性質が、「まず直観、それから戦略的思考」というハイトの研究と発見に非常によく適合することが理解いただけると思う。
更に、スペルベルとヒルシュフェルトは、モジュールのスイッチを入れるトリガーについて、彼らの定義として「オリジナル・トリガー」(本来のトリガー)と「カレント・トリガー」(現行のトリガー)を区別している。このトリガーを区別するアプローチが、これまで本稿第3回で展開してきた文化間の差異の説明にも、非常に有用である。

文化間で道徳が変化する理由の一つは、どんなモジュールでも文化によってカレント・トリガーの対象となる範囲が変わるからである。(中略)。モジュールの設計やオリジナル・トリガーの変化には何世代もの遺伝的な進化が必要な一方、カレント・トリガーは、これらの例が示すように、たった一世代でも変化し得る。」(第6章, p.204-5、太字は本稿筆者)

道徳基盤の測定が物語るもの

こうしてハイトは、同僚のクレイグと「文化が道徳マトリックスを築く際の基盤になる、普遍的な認知モジュールの最有力候補」の特定に努め、段階的に、道徳基盤を提示、発展させている。ハイトの道徳基盤は2004年の最初の論文では当初4つからスタートし、現在次の6つにまで拡張されている。

ケア/危害>、<公正/欺瞞>、<忠誠/背信>、<権威/転覆>、<神聖/堕落>、そして2010年以降に追加された<自由/抑圧>の6つである。

これらの道徳基盤の内容がどんなものか、そのオリジナル・トリガーやカレント・トリガーがどんなものかも非常に興味深い内容なのだが、説明の詳細は、本稿では割愛させていただく。是非本書の第6、7、8章を参照してもらいたい。初期版の5つのオリジナル・トリガー、カレント・トリガーを含む特徴は、6章p.206の図6.2に一覧で纏められている。

本稿では、この6つの道徳基盤を用いてもたらされる知見を紹介することにフォーカスする。

ハイトらは、この道徳基盤を軸に、道徳基盤質問票(Moral Foundation Questionnaire、以下、MFQ)の設計をおこなった。MFQはこのようなものだ。「正しいか間違いかを判断する際、あなたは以下の項目をどの程度考慮に入れますか?」という質問に対し、0(全く考慮に入れない)から5(非常に重要)の5段階で回答するもので、それぞれの道徳基盤について3項目ずつの質問が用意されている。
ハイトらはMFQをインターネット上で実施し、アメリカの政治志向の違いによって、どのように、重きを置く基盤が異なるのかを明らかにした。2011年時点での13万2千人のMFQの調査結果のスコアが以下の図となる

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図8.2の132000人のMFQのスコアの英語版
https://roadsignsandblindspots.wordpress.com/2018/04/28/the-way-we-think-culture-values-and-a-righteous-mind/
から転載

この表で、縦軸が回答スコアで、横軸は一番左が非常にリベラル、一番右が非常に保守的なグループである。<ケア/危害>、<公正/欺瞞>については、リベラルから保守的になるにしたがって、漸減するがそれほど顕著な差は見られないが、この時点で道徳基盤に設定されていた、<忠誠/背信>、<権威/転覆>、<神聖/堕落>については、リベラルと保守で顕著な差があることが分かる

特にリベラルは、<忠誠/背信>、<権威/転覆>、<神聖/堕落>については、道徳上の判断にあたりほとんど評価していないことが分かる。すなわち、リベラルと保守では、大きく重要と考える道徳基盤が異なる保守は、5つの基盤にほぼ同等の価値を置くのに対し、リベラルは<ケア/危害>、<公正/欺瞞>の2つの基盤にしか価値を置いていない

人に備わっている認知モジュールである道徳基盤は、リベラルと保守では、大きくその価値感の重点、構成が異なる、ということを視覚的に理解いただけるかと思う。

ハイトによれば、このMFQを用いた道徳基盤についてのリベラルと保守の差異は、東海岸や西海岸都市部のリベラル層を代表的な支持層とする民主党が1980年以来、有権者にうまく訴えられなかった理由を教えてくれるとする。共和党は、民主党より社会的直観モデルをよく理解し、直接<象>に訴える術を心得ている。本書はオバマの二期目の当選前の2012年の出版であるが、2016年にトランプがなぜ大統領に選出されることになったのか、2020年にもバイデンに敗れたとはいえ、自身も史上2番目となる得票数を集めえたのかの理由を説明してくれる。それを上回った2020年の民主党の選挙戦略はこの観点からも非常に興味深いが本稿の趣向からはだいぶ逸れる話になるので、今回はここまでで止めておこう。

脳構造マクロモデルMHP/RTによる読解

本稿の最後にいつものように、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RTを用いて、本稿で展開した内容の読解を深めておこう。今回は、道徳基盤の核となっている認知モジュールの概念について、MHP/RTを適用した解釈を試みたい。

ハイトの道徳基盤のベースとなっているスペルベルとヒルシュフェルトの定義によれば、認知モジュールは脳にある、パターン認識に伴うスイッチである。これはMHP/RTを適用すると、認知モジュールは動作時間帯域の早い自動自律処理系のシステム1に含まれる機能であると捉えることができる。なぜならば、パターンを認知したときに、直観的に判断が作用するのは、作動時間帯域が早い自律自動処理系の処理になる。つまり、意識・論理のシステム2の処理が差し挟まれない機構として独立に作動する。認知モジュールの概念は第2回で考察したハイトの「まず直観」という説とも、構造的によく符合することが改めて理解いただけると思う。

それでは、このシステム1系で即時的・自動的に動作する認知モジュールは、「生得的に備わっていて、かつ、文化に拠って異なること」、すなわちハイトがいうように「カレント・トリガーは一世代程度の変化で変容しうること」は構造的には、どのように理解すればよいだろうか。
これは、脳がシステム1とシステム2という動作帯域の異なるデュアル処理機構であることに加えて、MHP/RTモデルに含まれる記憶と発達の関係、および、生育した環境への依存(が生み出す個体間の差異)と非線形系の初期値鋭敏性を考慮すれば、理解を深められる。

北島2019MHPRT+MDM

上図に示す通り、システム1とシステム2がアクセスする記憶領域は独立しており、階層的になっている。システム1とシステム2は処理機構も記憶領域も独立な機構で発達・成長に応じて、情動とセットになった判断や行動の結果が経験的に記憶領域に蓄積されていく。論理・意識系のシステム2の発達には時間を要するが、システム2が十分に発達する前の段階からシステム1は、記憶を含めて作動可能な仕組みとなっている(このようになっていなければ、人間の幼児、幼少期の様々な行動や特性を説明できないであろう)。この発達の考察から認知モジュールは、システム1に組み込まれていて発育の初期段階から作動しえる=生得的に近い機能を発揮しえる、ということが説明出来る。

記憶領域は発達・成長に応じて可変であるが、システム1はフィードフォワード機構であるため、フィードバックシステムを持つシステム2系に比べて、初期値の影響を受けやすい。つまり、後書き更新されにくい。すなわち、システム1系と連接される記憶については、幼少期から成長期にかけての経験、即ち判断とそれに付随する情動との関係が濃くなりやすい。一方、システム2の発達に応じて、時と場合によって=個体の生育状況とその時に制約条件に応じて、システム1系の記憶と結果に対して、システム2系がフィードバック処理として事後的に、更新することも、時と場合によって起こりえる。このシステム1に依存しやすい初期値鋭敏性とシステム2のフィードバック系による上書き更新の可能性は、道徳基盤の認知モジュールとしてのカレントトリガーの性質を、構造的に表現している。

このように、脳構造マクロモデルから考察してみると、構造的にも=認知科学的にも、認知モジュールは生得的な性質を持つが固定的ではなく可変的である、ということが理解し易くなると思う。つまり、道徳基盤=人間の価値判断基準は、幼少期から成長期の経験をもたらす周辺環境、即ち、家族やコミュニティの影響を色濃く受ける、ということが理解し易くなるのではないだろうか。即ち、文化的な価値観の違う生得環境であれば、認知モジュールを形作る、判断と経験は、生育する家族やコミュニティの特質を色濃く反映して差異が生まれてくる
近年経済発展により、近隣コミュニティは数十年前と比べても大きくその性質を変容させてきているが、特に都市部ではその変化の速度が速い。ハイトの初期の研究で、認知モジュール、すなわち、道徳基盤が、同じフィラデルフィアでも上流階級と労働者階級で大きく差異が産まれ、上流階級では、フィラデルフィアとポルトアレグレ、レシフェと大きな差が無かった理由も、この構造を理解できれば、改めて深く納得がいく。
では、近年の日本はどのようになっているのか?またどうなっていくのか?についても、日本に住む我々にとっては、大きなISSUEであるが、本稿では探求的な課題としての提起に留めて、一旦ここで筆をおきたい。

第3回のまとめ

『The Righteous Mind』読解の第3回は、ハイトの第二部での主張について、その背景、特徴、核となる道徳基盤とその基本構造の概観、リベラルと保守の道徳基盤、すなわち重要視する価値観の違いを眺めてきた。読者にも、脳構造マクロモデルの援用を通じて、幾つかの興味深い探求的副題も読解を進めることで感じて貰えていると嬉しい。次回は、『The Righteous Mind』の最終回として、このような価値観の違いのある人々の間で、建設的な議論は可能になるのか?という第三部の主題を読解していきたい。人は集団種であり、利己主義だけでなく、利他主義の側面を持つ、ことへの理解がその第一歩になる。

(the Photo at the top by @Photohiro1)

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