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脳構造マクロモデルで読み解く人間行動選択#14 デュフロ&バナジ―(2)“poor economics”を詳細に理解する

認知科学の最新の知見を基に、ランダム化対照試行という手法を用いて、貧困の問題に取り組み、2019年のノーベル経済学賞を受賞した行動経済学・開発経済学者のアビジット・バナジ―とエステール・デュフロ。

今シリーズでは、彼らの2011年の初の著作『poor economics - A Radical Rethinking of the way to Fight Global poverty』(邦題:貧乏人の経済学 – もういちど貧困問題を根っこから考える)』をテキストにして、現代の様々な複雑な問題の象徴である貧困の問題を、豊田・北島の脳構造マクロモデルModel Human Processor with Real Time constraints(MHP/RT)を適用して読み解いていく。

前回は、1日1ドル前後で暮らす最貧困にあえぐ2020年で8億弱の人たちの問題、貧困の問題の概要を捉え、貧困の象徴として最初に例を出される飢えの問題の概観を眺めた。

現在の貧困における飢えの問題は、絶対的な量の不足にあるのではなく、妊婦や幼少期の栄養不足が起こらないように適切な形で貧しい人たちが、適切な栄養素を標準的に選択できるきめ細やかなデザインされた施策がポイントになっていることをざっと観て来た。

更に、ペンシルベニア大の実験結果を脳構造マクロモデルによる認知科学のアプローチを用いて詳解し、私たちの脳は、大きくて複雑な問題を的確に捉えることが出来ない構造を持っていることをより深く理解した。

これまでのところは、ウオーミングアップである。ここからが人間の行動選択理解が不可欠な今回のシリーズの核心になる。

第2回の今回は、貧困の問題が抱える構造を深く内包している健康の問題を詳細に掘り下げて、人間が共通に持つ認知と行動選択の構造と問題をより深く理解していこう。

複雑な問題を捉えるには、バナジ―とデュフロが提唱するように、「問題を見逃さず、詳細にその構造を理解していく」アプローチが重要であることを感じて貰いたい。

健康の問題は、貧困問題の縮図であり、背景の心理構造と行動選択を理解する認知科学がなぜ有効なのかを理解するための最良のテキストである。

貧困に窮する人たちと、そうでない人たちには、生活環境がもたらす恩恵の違いを排除すれば、行動選択原理として共通であることもよく理解できるようになる。

貧困における健康の問題
~なぜ安価で効果のある施策は広がらないのか?「ずいぶんいらだたしい分野」に凝縮された、
 避けがたい行動選択の構造

バナジ―とデュフロは、貧困における健康の問題は、非常に歯がゆい「ずいぶんいらだたしい分野」である、という。

なぜなら、ワクチンの予防接種から、マラリア対策の蚊帳に至るまで、最貧困な人たちの健康状態を改善するためにどんな対策をすればよいかについてはかなりのことが既に分かっている。そして、その対策の実行コストは非常に安価であるものも多いことが分かっている。であるならば、さっさと必要な投資をしてこれらの施策を実施すれば一件落着、すぐに最貧困な人たちの健康の問題はすぐに解決する、はずである。

問題は、残念ながら、それほど単純ではない。人間の行動選択とその背景構造は、それほど単純でない、と置き換えてもよい。

まず、貧困な人たちの健康の問題を取り上げた第3章冒頭の、下痢とその治療薬を巡る事例を紹介しよう。

毎年5歳前に亡くなる900万人の子供のうち、大多数を占めるのは南アジアとサハラ以南のアフリカの貧しい子どもたちで、その約5人に1人の死因は下痢である。一方、下痢については、3つの簡単で安価な「薬」、すなわち、水を殺菌する塩素系漂白剤、水分補給飲料であるORS(経口再水和溶液。塩、砂糖、塩化カリウム、制酸薬の混合で水に溶かして子供に飲ませる)の主成分となる塩と砂糖により、劇的に改善できるとされている。なのに、塩素とORSはあまり使われないという。

デュフロとバナジ―が行った、2005年の看護婦グループとの議論で、看護婦たちは次のように語ったという。

「下痢の子供が来院しても、その母親にはORSを渡すくらいしかできません。でもほとんどの母親はORSが効くとは信じていません自分たちが正しいと考えている治療を要求します-抗生剤か点滴のいずれかです。看護婦によれば、ORSを1パックもらっただけで保健センターを出た母親は、二度と来ないといいます。看護師たちは毎年多くの子供たちが下痢で死んでいくのを見て、完全な無力感にとらわれるのです。」(第3章、p.66-67)

ORSや塩素が使われづらいのは、貧困な人たちが自分や家族の健康のことを気にしていない、からではない。データを観れば分かるように、彼らは、健康に気を配っているし、病気になったときには一か月の生活費の10倍もの費用を家族の治療に掛けるなど、相対的にかなりの資源(費用)を健康の問題に投入している

ただ、病気になってからの対処では、手遅れになることもあるし、選択している治療が適切でないことも多い。必ずしも罹っている病気に必要でない抗生物質を買い、手遅れになってから手術をする、といったように。

なぜ、貧乏な人たちは、時として安価で効果的な公衆衛生-人々の健康を劇的に改善する安くて簡単な方法-を拒否して、何に役にも立たないどころか害になることもあることに大金を喜んで費やすのでしょうか?」(第3章、p.82-83)

この答えの一部は、安上りな便益をもたらす、すなわち健康の維持・改善に効果が高いことは、ほとんど「予防」であるということにある

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP 1
安価で効果の高い「予防」は、
なぜ利用されないのか?

「予防」は政府などによる公衆衛生の役割になるが、これが、貧困にあえぐ地域や国では、問題となる。政府による公的な保健衛生・公衆衛生の仕組みに対する信頼を損なうことになっている状況が発生しているからである。

『poor economics』の第3章で紹介されているインドの事例が示唆している。インドでは、トリアージ制度が公式に導入されており、貧しい人々でも手頃な価格(ときには無料)でそこそこ身近な場所で、基礎的な治療を受けられるようになっている。例えば、辺鄙で人口の少ないウダイプール地方でも2キロ半ほどあるけば、訓練された看護師のいるセンター支所がある。

しかし、バナジ―とデュフロは、この仕組みは二重の意味で機能していないという。ウダイプール地方の人たちは、予防ではなく、病気になったときに診療所に行く。そして、病気になったときには、上記のトリアージ制度による無料や手ごろな価格で診療を受けられる公共のセンターには行かず、民間の高い診療所に行く

民間の高い診療所の方が医療の質が高いのであれば、この選択は理解できるが、実態はそうではない。民間の診療所の質は高いとは言い難い。

第3章p.79-81に記載されている調査データによれば、インドの民間の診療所の「医師」の1/3は大学教育すら受けておらず、「医者を手伝っている」人の2/3以上は、正式な医療資格を持っていない、無資格の人たちであるという。その結果、診断の基本的な問診すらろくに実施されず、間違った効果がないか下手をすれば有害な処方が為されるという事態になっている。

無資格の医師による処方の典型的なパターンは、症状を過小に診断し、薬を与え過ぎる、というもので、不衛生な消毒が不十分な注射器が繰り返し使われるなどのリスクの高い注射が頻繁に行われるという状況が生まれる。

貧困な人たちは、このような「民間の診療所」の実態を、正確に理解している訳ではないが、うすうす問題があると気づいていたとしても、病気になった時には、このような「民間の診療所」を選択するという。もっと安価で、適切な資格を持った医師や看護師のいる公共の医療センターに行くことは少ない。

なぜなら、政府の保健センターは、本来開いている時間に閉まっているから、である

世界銀行が2002~2003年にバングラデッシュ、エクアドル、インド、インドネシア、ペルー、ウガンダで行った調査では、医師や看護師の保健職員の欠勤率は平均で35%であったという。インドのウダイプール地方では、欠勤は予測不能であったという。

これでは、貧乏な人たちは、公共施設をあてに出来ない。民間施設は、たとえその提供する医療の質に問題があるのかもしれないとしても、必ず開いていて、支払う医療費も高くつくけれど、「治療のようなもの」を施してくれるのである。

”なるほど!では、公共の医療施設の医者や看護婦のモチベーションを改善し、欠勤を抑制すればいいのではないか!”。勘のいい読者の方は、こう思われたかもしれない。実際、公共施設の職員である医者や看護師の欠勤対策は、対策として施されている。

しかしながら、問題は、ここで解決とはならない。バナジ―とデュフロはここでも考えを止めず、理由はそんなにシンプルなものではないと、蚊帳と水を殺菌する塩素の事例を挙げて、更に問題を掘り下げていく。

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP2
公共衛生の信頼性を高めても、埋まらない溝
~5人に1人しか、全ての予防接種を完了しない。。。

ウダイプール地方の地元NGOのセヴァ・マンディールは、地方当局と協力して、約6か月掛けて、無断欠勤を大幅に減らし保健センターに行けば誰かいる確率を40%から60%以上に改善した

しかし、センターを訪れる利用者の数には何の変化もなかったのである。

公共政策・公衆衛生の信頼を高めても、予防的診療行為を受けようとする人が目標には至らなかった次の予防接種の事例は、示唆に富む。

上記で紹介した、NGOのセヴァ・マンディールは、予防接種の取組も実施している。彼らが取組を始める前は予防接種の基本セットを受けている子供はたった5%で、毎年200万人から300万人の子供がワクチンの予防接種で防げる病気で亡くなっている状況だった。

予防接種の接種率が上がらないのは、公共の施設にわざわざ子供を連れて行っても、施設が開いていないために接種率が上がらないのだ、というのが通説になっていた。

この状況を捉えて、セヴァ・マンディールは、毎月同じ日にかならず規則正しく予防接種を行うという取組を実施することにしたこの取組が行われた村では、少なくとも1回予防接種を受けた子供は77%に上ったという。素晴らしい効果である。

しかしながら、予防接種で重要なことは、必要な複数回の接種をすべて完了させることにある

セヴァ・マンディールの取組が実施されなかった村では、接種完了率が6%程度
だったのに対し、彼らが取り組んだ村では、接種完了率は17%にまで上昇した(このように施策を実施したところとしなかったところを対比するアプローチがランダム化対照試行である)。

接種実施日を規則正しく設定し施策の信頼性を高めることで、接種完了率が6%から17%に上昇したという結果は十分に素晴らしい成果、なのだが、17%という数字は、5人のうち4人以上の子供が、まだ予防接種を完了していない状況のままである、ということを意味する。

素晴らしい成果ではあるが、それでも、まだまだ問題解決には遠い、状況なのである。拠って、バナジ―とデュフロの思索・研究・行動は、ここでも止まらない。更に問題を掘り下げていく。

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP3
「心理的埋没費用」の影響
~安いものは無価値とみなされてしまうのか?

人々が健康改善に安い予防技術を活用しないのは、安い技術がまさに安っぽいからなのでしょうか
 これはまんざら荒唐無稽ではありません。標準的な経済合理性に従えば、いったん支出され「埋没」した費用は、その使い方には影響しないことになっています。でも多くの人は、他の場合でもありがちですが、ここでも経済合理性ではとらえきれないと言います。実は「心理的埋没費用」なるものがあるのです――人々は大金を払ったものほど活用しようとするということです。また人は品質を価格で判断しがちです。安いというだけで、無価値と判断されてしまうこともあるのです。
 こうした可能性はどれも重要です。なぜなら保健分野は、自由市場主義の経済学者でさえ伝統的に補助金を支持する分野なので、こうした安い利得は、ほとんどが市場価格以下で提供されてきたからです。」(第3章、p.86-87)

「心理的埋没費用」の影響により、保健分野の伝統である補助金によって、無料や価格が低いからこそ利用率が低くなることも理解できる。冒頭で紹介した、ORS(下痢を劇的に改善されるために提供される安価な経口補水液)を母親たちはなぜ二度と受け取りに来ないのかを見事に説明する。

無料のもの・安いものはいつでも無価値とみなされるのだろうか。

バナジ―とデュフロは、ケニアでのマラリアを防ぐ蚊帳についてのデータから、安価な予防対策が使われにくい原因は、安い価格にだけあるのではないことを示す。

J.コーエンとP.デュパスは、ケニアでNGOを設立し、マラリアを防ぐ安価な手段として、補助金で助成された無料の蚊帳を助産院で配布する活動を行っている。ランダム化対照試行を用い、蚊帳の配布について、無償の場合を含めて幾つか価格を設定して蚊帳の購入を巡る試行を行った。

この結果、蚊帳の購入自体は、他の健康問題の対策のケースでも見られたように、価格鋭敏性を示した。つまり、蚊帳の価格が高ければ、蚊帳の購入は行われず、安くなるほど、蚊帳の購入は増えたのである。

つまり、心理的埋没費用の影響が大きければ、高くなるほど価値が高いと見なされて買われる人数が増えるはずだが、そんなことはなかった

更に、コーエンとデュパスが、蚊帳が実際に利用されているかどうかを購入から数週間後に調べてみたところ、蚊帳を購入した人の6割から7割が蚊帳を利用しており、時には9割に上ることもあったという。

蚊帳が有償か無償か、また価格が高いや安いかによって、蚊帳の実際の利用率については、違いはなかったのである。

つまり、蚊帳の効果については理解されており、安かったり無償であったとしても、便益があると判断されれば、購入・導入され、利用されるということになる。

では、予防接種完了が5人に1人に留まっている理由、安くて効果の高い予防策が思ったほど進まない理由は、何にあるのだろうか。

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP4
「信仰」「信念」の影響
~人の意思決定に影響を及ぼすものの正体?

デュフロとバナジ―は、安くて効果の高い予防策が進まないの理由を、「信仰、ないし、信念」によるものと捉えている(信仰という表現には宗教的要素が含まれるが、信念には宗教的な要素は含まれないと捉えて貰いたい。ここでは、信仰と信念の言葉の表現による違いは一旦棚上げして欲しい)。

信仰や信念に起因するという構造は、貧困に瀕している人たちだけに見られる行動選択理由ではなく、先進国に暮らす人たちでも同様である。薬の検証、認可は、最終的に国の機関によって行われており、試行の結果を直接的に確認している訳ではなく、薬の服用は、信用に基づいた選択が行われている。すなわち、信念が影響している。

この医療システムに対する信仰、信念、信用の影響力は、先進国でも同様である、という事実は、例えば、2021年における新型コロナウィルスのワクチン接種の例でも確認できる。

日本でも10月下旬時点で2回接種を終わっている人が70%程度にとどまっており、ワクチン接種が先行した英国や米国は、もっと低い割合に留まっている。先進国でも、一定割合の人たちは、ワクチンを接種したくない、という信念に基づく選択をしているのである。

欧米や日本でも、世界で最も優秀な部類に属する科学者たちの見識が、容易に利用できるのに、「確かな証拠に基づく選択ができていない」のである。確かで信頼できる優秀な公衆衛生の見識に基づく情報を持たない、貧困に瀕する人たちが、信仰や信念に拠らず自ら意思決定をするのは、更に困難なことになる。

では、どうすればいいのだろう。

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP5
セヴァ・マンディールの「実験」
~予防接種を受けた人にダール豆を上げよう

この困難な状況を解きほどくためのヒントは、先ほど紹介したセヴァ・マンディールの実施した予防接種率向上のための新たな取組にある。

バナジ―とデュフロはウダイプールでの予防接種キャンペーンを実施する際、セヴァ・マンディールの最高責任者であるニーリマ・ケタンを説得して(後述するが、ケタンらは当初このバナジ―とデュフロの提案に反対していた!)、予防接種1回につき900グラムのダール豆(ウダイプールの主食の乾燥豆)を配布し、更にすべての予防接種を完了したらステンレスの皿のセットを上げることにした。

900グラムのダール豆は、40ルピー、1.83米ドル程度で、当地の役人の日給の半分程度でそれほど豪華という訳ではない。この豪華すぎないというところがこの施策の重要なポイントの一つである。

もし、予防接種に行きたくない、子供連れて行きたくないという信念が非常に強固なものであれば、たかだか900グラム程度のダール豆のご褒美では、残り4/5の貧乏な人たちは簡単に行動を変えないはずである。

また、この施策は、セヴァ・マンディールの責任者のケタンや現場の医師からも最初は反対された。理由は、正しいことをさせるのに、賄賂を使うなんて、という考え方からである。このセヴァ・マンディールの反対にも、行動選択における信念の影響を観ることができる。

果たして、この施策の結果は、大成功を収めた。ダール豆を褒美に上げた村では、接種完了率が38%にまで増加したのである。

17%が38%になった(セヴァ・マンディールがこの施策に取り組む前の平均は6%だったことを思い出そう)のは大成功といえる。

けれど、この結果ですら、一部の医師たちからは、38%という数値では、集団免疫にほど遠いため、予防という観点では、意味を為さないという反論を受ける

私なら、やれやれ、と感じるところだが、ここまで丁寧に問題を掘り下げて来た、バナジ―とデュフロはそんな反論には全く屈しない。

この一部の医師からの論理的な反論に見られるような「すべてか無か」という議論は意味を為さないと一蹴する。たとえ集団として完全な免疫性が保証されない数字であっても、接種を受けた場合、自分の子供だけでなく、まわりの子供たちも助けることになるのである。

バナジ―とデュフロは、極めて穏やかに、しかし、毅然と、指摘する。

「結局のところ、景品による予防接種に対する不信感は、主流の政治的分布で右派と左派の両者にとって、信念の問題に起因するのです。人々がやるべきだとあなたが思うことをさせるのに、金や物で釣ってはならないという信念です。その理由は右派の立場だと、それが無駄遣いされるからということになります。保護団体やセヴァ・マンディールから派遣された良心的な医師を含む、伝統的な左派に言わせると、これは与えられた物とそれを受け取った人の両方を貶めることになるからです。だからむしろ、貧乏な人に予防接種の利点を納得してもらうことに専念すべきだ、というわけです。
 このいずれの考え方も、こうした問題などに対する考え方としていささか的外れだと思います。」(第3章、p.95)

いささか的外れ」という極めて控えめな表現の中に、こうした考え方は間違っている、という、バナジ―とデュフロの態度がきっぱりと表れている。

実際の問題の真の原因に対処した適切な対策を選択・実行するには、右派も左派も、政治的な立場からの信念は、間違いを誘引する要因にしかならない、という極めて厳しい指摘である。

セヴァ・マンディールによる、ダール豆をご褒美として与えることによる予防接種率の向上という結果が意味することは、2つある。

一つ目は、予防接種を受けさせると悪いことが起こるというような間違った信念も、ダール豆900gを諦めるほどには強くない、ということである。

つまり、予防接種の費用便益を評価して退けるほどの強固な判断基盤はない、ということを意味する。確かに、娘を別のカーストや宗教の人と結婚させる場合など、もっと強固な信念は存在するが、予防接種については、例外であるように、すべての信念がそれほど強固であるわけではない、のである。

二つ目は、行動選択の構造を学ぼう・理解を深めようとしている、私を含むこの原稿の読者にとって、さらに重要な意味を持つ。

「これが間違っている理由はもう一つあります。右派も左派も行動は意思に基づくものだと考えているようです。もしも人々が予防接種の価値を認めれば、子供たちは予防接種を受けることができるというわけです。これは必ずしもそうとは限らないし、その含意は実に広い範囲に及びます。」(第3章、p.96)

バナジ―とデュフロの上記に引用した言説が理解できれば、今回の本稿はゴールに到達したと言える。

行動は意思に基づくものではないのか? 行動は意思に拠らない??
どういうことだろう??

予防接種完了率38%は大成功だが、なぜ、38%で頭打ちになるのだろう?
ここまで到達しても、まだ、このように問いを立てて、ゴールへの道を諦めずに突き詰めていく、バナジ―とデュフロのDeep Diveにもう少しお付き合い願いたい。

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP6
行動は何に拠って決まるのか??
~人は意思決定を先送りする。。

ステンレスの皿では、5回の予防接種をすべて受けさせるには不十分(38%にとどまる)なのは、貧しい人たちだけでなく、先進国に暮らす私たちにも観られる、人に共通の心理構造に起因している。「人は生まれながらにして、小さなコストを先送りし、現在の自分でなく将来の自分に負担させたが」るのである。

「これは、「今年こそはジムにきちんと通うぞ」という新年の誓いをわたしたちが毎年守れないのと、原因の根はかなり似ているようです。たとえそれで将来待ち受けている心臓発作を回避できるとわかっていても、わたしたちは誓いを破ってしまうのです。心理学研究はいまや経済現象にまで適用され、人が現在のことと未来のことでは、まったく違った考え方をすることが明らかにされています(「時間不整合性」と呼ばれる概念)。現在だと、人は衝動的に行動し、感情と目先の欲望に大きく支配されます。いま耐える必要のある、少しばかりの時間の損失(子供に予防接種をうけさせるための行列)や、わずかな不快感(運動のため重い腰をあげる)は、特に緊急性なしに考えているとき(例えば、すぐに運動することなど考えられないほどはらいっぱいのクリスマスのディナーの後など)のほうが愉快に感じられます。今現在本当に渇望するちょっとした「報酬」(キャンディやたばこ)については逆のことが起こります。未来の計画を立てるとき、これらの楽しみはあまり重要に思えないのです。
 人は生れながらにして、小さなコストを先送りし、現在の自分ではなく将来の自分に負担させたがります。」(第3章、p.96.-97)

1回の摂取で貰えるダール豆900gが有効な理由は、母親たちがそれを今日受け取れるから、なのである。将来受け取れるかもしれないステンレスのお皿は、コストを先送りにする人間に備わっている心理からはわざわざ選ばれない、のである。

この「時間不整合性」への対応策が、今日、D.カーネマンを祖とする行動経済学が辿り着いている「政策的なあと押し」と呼ばれる「ナッジ」(Nudge)を生みだした。

2021年に「NOISE」をD.カーネマンらと共に著した法学者C.サンスティーンらの『実践 行動経済学』を取り上げて、デフォルトとしての選択肢による「あと押し」の重要性を、バナジ―とデュフロは次のように説明している。

「罰金やインセンティブによって、やってみたいと思っていてもずっと先送りにし続けていた行動を実際にとるよう、人々をあと押しできます。もっと一般的には、時間不整合性は、人々が「正しい」ことを行なうのをできるだけ簡単にすべきだという強固な根拠となりますむろん、いやならそこから外れる自由も残しておいたほうがいいのかもしれません。」
(C.サンティーンらの『実践 行動経済学』の紹介を挟み)
「大切なのは、デフォルトの選択肢という考え方です。政府(あるいは善意のNGO)は、多くの人々にとって最善と思われる選択肢をデフォルトにすべきで、そこから外れたい人は、主体的に離脱しなければならないようにすべきなのです。こうすれば人々は、自分の希望する選択肢を持てますが、それにはちょっとコストがかかるので、結果として多くの人がデフォルトの選択肢を選びます。」(第3章,p.98)

大事なことは、デフォルトによる「あと押し」を、それぞれの貧困の状況、発展途上国の状況に合わせてデザインすることである。前回の飢えの問題の現在の栄養素対策のところで触れた、妊婦や幼少期への必要な栄養素支給がこのナッジ、標準的選択肢によるあと押し、に沿ったデザインになっていたことも思い出して貰いたい。

バナジ―とデュフロはここで留まらずに、更に思考探索を続ける。

貧困の健康問題へのDeep Dive: STEP7
予防接種の価値を過小評価している?

彼らは、予防接種に限っていえば、時間不整合性だけではいつまでも5回の摂取を終わらせない人たちが4/5もいることを説明することが出来ないと考える。

なぜなら、繰り返し先送りする場合、今日はダメでも明日こそは私はその行動をするという行動選択の判断を繰り返すことになるからである。これは、心理的には、自分を騙し続けることになる。毎日自分を騙し続けるような心理選択を行っているとは考えにくいと彼らは考える。

『poor economics』の後続の章で取り上げられている、貧乏な人たちは必要に迫られれば、自分自身に強制的に貯金を強制する方法を編み出していることに触れ、バナジ―とデュフロは、予防接種の場合、貯金の場合ほど必要に迫られていない、即ち、予防接種で得られる利益を過小評価している可能性に言及している。

つまり、予防接種の取組について、予防接種の価値が高いことを訴求する、「デフォルトによるあと押し」を用意できれば、予防接種を完了する子供の割合がもっと高まることが期待される。

わたしたちと貧乏な人たちとの違い
~「ただ、システムにしっかり埋めこまれているので気がついていないだけ」

ここまで、『poor economics』の第3章で取り上げられている、貧しい人たちの「じれったい」健康の問題についての、バナジ―とデュフロの事例・事実・結果に基づく、非常に丁寧で詳細な探索を眺めて来た。

彼らの探索のプロセスを私が図解したものを以下に載せておく。

#2-1DeepDive図解

バナジ―とデュフロが「細かいことを見逃さず、行動を選択する理由を理解する」としているアプローチを、感じていただけていれば本稿の目的の半分は果たされた。

健康の問題は、貧困な人たちが苦しんでいる問題の一部であるが、政府・政策への信頼性の低さ、信仰・信念の影響、時間不整合性の影響など、前回の飢えの稿で取り上げた(1)~(3)と同じ構造要因があり、貧困問題の縮図となっていることもよく理解いただけたかと思う。

そして、マクロな経済学の大家がいまだに対立的に議論している、援助か自立かという二元論の是非は、実効的な対策とは無縁であることも、感じ取っていただけたと思う。

現在の複雑な問題は、状況に応じて詳細に眺め、問題に直面している人たちの行動選択の理由を詳細に理解しなければ、効果的な対策が講じられないのである。

そして、貧乏な人たちの行動選択の理由を理解していくと、彼らの行動選択の構造は、決して、貧乏でない人たちと差があるわけではないことも、よく理解できる。

環境の差が、行動選択の差をもたらしているのであり、貧乏であるかそうでないかによって、人間自体に差があるわけでは決してない。

この点について、第3章の最後のバナジ―とデュフロのメッセージがとても味わい深い。

貧乏な人々は、他の人を悩ませているのと同じ問題にとらわれています――情報不足、弱い信念、そして問題の先送りなどです。確かに貧乏でないわたしたちは、いくらかよい教育を受け、情報も持っていますが、そのちがいはたいしたものではありません。なんだかんだ言って、実際のところたいした知識はないからです。自分で思っているよりはるかに無知なのはほぼまちがいありません。
 わたしたちの本当の強みは、当然のように享受している多くのことから来ています。きれいな水の出る水道がひかれた家に住んでいます――毎朝忘れずにクローリン(※消毒用塩素)を水に加える必要はありません。下水は勝手に流れていきます――みんなその実際の仕組みなんか知りません。医者ができる限り最善を尽くしてくれると(おおむね)信用できるし、あれをしろとかこれをするなとか、公共の保健制度が定めた事項も信用できます。
(中略)
 そしておそらく何よりも重要なこととして、わたしたちのほとんどは、次の食事にどうやってありつけばよいかを心配する必要はありません。言い換えれば、わたしたちは自分たちの限られた自制心と決断力をあてにする必要はほとんどないのです。でも貧乏な人々は、常にその能力をあてにしなくてはなりません
 自分の健康についての正しい決断を責任をもって下せるほどに賢く、忍耐強く、知識のある人など、だれもいないということを認識すべきです」(第3章、p.101-102)

どうだろうか。これまでの、本稿でのバナジ―とデュフロの丁寧な試行と思考を重ねていく、Deep Diveにお付き合いいただいた方は、このメッセージを受け止めていただけたことと思う。

現在を生きるわたしたちは貧困の問題にも、目を向けざるをえない。全体を通してとても丁寧に穏やかな口調でつづられている『poor economics』において、異質に感じられる、バナジ―とデュフロが放っている、痛烈なわたしたちへの批判を最後に載せておきたい。

「これらはどれも過干渉に見えるかもしれないし、ある意味で確かにその通りです。でもそれを言うなら、安全で清潔な家でソファにふんぞりかえり、干渉しすぎることの危険性や自分自身の生活に責任を持つ必要性を説くのはお気楽だし、お気楽すぎるとすら言えます。豊かな国に住む者こそ、こうした過干渉の絶え間ない受益者ではないでしょうか? ただ、それがシステムにしっかり埋めこまれているため、気がついていないだけなのです。」(第3章、p.103)

脳構造マクロモデルMHP/RTによる読解
脳の構造がもたらす「時間不整合性」

今回の豊田・北島の脳構造マクロモデルModel Human Processor with Real Time constraints(MHP/RT)による読解は、貧困における健康の問題の解決に向けた大きな壁となっている、貧しい人たちだけに限らず、すべての人に共通する心理的な癖「未来のことは先送りにしてしまう」時間不整合性は、なぜ起こるのか?を考察してみたい。

まず、ここでも、今一度、A.ニューウェルのシステム1とシステム2の動作時間帯域の違いを眺めることから始める。

NEWEL×帯域

自律自動処理系の直観のシステム1は、10のマイナス4乗のマイクロ秒(μsec)、10のマイナス3乗のミリ秒(msec)の極めて短時間から10秒程度以下の時間帯域で作動する、極めて早い仕組みである。

対して、論理思考系のシステム2は、分以上の時間帯域で始動し始める、極めて遅いゆっくりとした仕組みなのである。

脳構造マクロモデルMHP/RTによる読解・STEP1
「時間不整合性」とは何か?

次に、聞き慣れない「時間不整合性」の概念について少し整理しておこう。

時間不整合性は、time inconsistency の日本語訳で、マクロ経済学や行動経済学で取り扱われている概念、性向である。

time inconsistencyは、dynamic consistency(動学的不整合性)とも呼ばれ、もともとは、2004年にノーベル経済学賞を受賞したF. F.キドランドとE.プレスコットが1977年に指摘、提唱した概念に端を発している。動学的不整合性という言葉遣いは、マクロ経済学で政策ポリシーの妥当性を議論する際に用いられていることが多い。

慶応大学の土居助教授(当時)の解説に拠れば、「動学的不整合とは、現在から将来にわたりある目的をよりよく達成するべく最も望ましい行動を決定するのに、現在の時点で最も望ましいとされた行動が、後に将来の時点になるとそれが望ましくなく、他の行動が最も望ましくなり、事前の決定が覆される性質のことである。要するに、事前の決定と事後の決定が異なって整合的でない状態のことである」

このように動学的不整合性は、現在の最適だと思った行動が、将来の時点で、最適ではなくなり、(将来の時点において)違う行動が選択される不整合性を意味する。

対して、わたしたちが現在、読解している『poor economics』は、行動経済学に水脈を持つ開発経済学の文脈に位置付けられるので、時間不整合性 time inconsistencyという用語が用いられている。特に将来の時点で最適ではなくなるかどうかという点が定義に含まれるかにより、マクロ経済学での動学的不整合性と、行動経済学の時間不整合性をここでは区別しておこう。

『poor economics』で用いられている行動経済学の文脈において、認知科学・認知行動科学の観点を取り入れて、「時間不整合性」を定義すると、「将来にとってはこちらのほうがよいと思う選択を、現在の時点において選択出来ない」ということになる。もう少し手っ取り早くいうなら、「未来のことは棚に上げてしまう」人間の癖である。

バナジ―とデュフロも例で挙げている、毎年守れない新年の誓い(例えば、今年こそは減量する!、など)を思い出して欲しい。新年に誓いを立てても、つい、正月にはお祝い気分も相まって、つい目の前のおせちを食べ過ぎてしまう、といった行動は多くの人に経験があるのではないだろうか。

貧困における健康問題に言い換えれば、ワクチンの予防接種を完了した子供はセヴァ・マンディールとのナッジを使ったランダム化対象試行実験でも、37%までしか、上昇しなかった。全部終わったら、きれいなお皿が貰えると分かっていても、63%の親は、子供の予防接種を完了させなかった、のである。

今回の原稿の最後で触れたように、健康問題の場合、予防接種においては、「お皿が貰える」という将来価値は、「子供の将来にとってプラスだ」という価値評価を基準にした判断ではないかもしれない、ことには注意しておく必要はある。

(実際の施策の今後の改善には、二人が指摘する通り、この将来価値の具体化を織り込んだ施策デザインが不可欠である。今回は、認知科学的な定義に沿った「時間不整合性」がなぜ起こるのか?の考察にフォーカスすることにする。将来価値の評価が出来ていることを前提としている、将来価値の評価内容による判断への影響ついては、言及しない)。

拠って、今回の問いはシンプルに、このようになる。
なぜ、未来のことを考えて現在の選択が出来ないのか?

脳構造マクロモデルMHP/RTによる読解・STEP2
予測が苦手な直観

まず、脳の情報処理における、予測に関わる振る舞いはどのような流れになっているか、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RTに基づく図から簡単に掴んでみよう。

下図は、先ほど復習したように、早い自律自動処理の直観系のシステム1と、遅い論理思考系のシステム2が、知覚されたオブジェクトに対する処理イベントの流れである。図の下部側がシステム1系、上部側がシステム2系の対応を表している。

画像3

時間Tにおこるイベントのβ前(T-β)で、システム2系はこれから起こりうるイベントがどのようなものか予測を始め、有効なアクションの選択肢(Collection of Useful Actions)を想定し始める。

そして、よりTに近づいたβ‘のタイミングで、システム1系の選択可能なアクションの選択肢(Collection of Possible Actions)の中から選択を行う、というのが、イベントの開始前の流れである。

こうしたシステム1とシステム2が並列分散でデュアルプロセスとして情報を処理しつつ、不確定な状況から、まず最も早く本能(Institution)が動きだし、起こり得るイベントの準備をし、これまでの経験に基づく意思決定ルール(ヒューリスティックス:Heuristics、認知バイアスと同義と捉えて貰ってよい)に基づいて行動選択が行われる。

予測については、システム1、システム2ともそれぞれの経験、獲得能力に依存する(ヒューリスティックスが起こる所以である)。特に、システム2の予測は個人差が大きい。

システム1は、連続的に起こる現実世界のイベントに対応する必要があるため、T-β‘からイベントTの間までの極めて短い時間間隔(通常、3秒程度以下。msec,μsecのこともある)で、イベントに関わる情報処理を行わなければならない。

拠って、時間Tに起こるイベントに対して、速く立ち上がる自律自動処理系のシステム1の対応は、これまで何度も本シリーズで眺めて来た通り、過去の経験値の中から即座に反応できること、本能に基づく情動に導かれる直観に左右される意思決定(行動選択)にならざるを得ない。

つまり、予測のための時間が多少あるとはいっても、システム1は、論理的な思考が必要な論理的な価値判断を踏まえた予測は出来ない。

拠って、時間の遠い未来のことを考える、時間の遠い未来のことを予測して、対応をするには、必然的に論理思考系のシステム2に依存することになる。

脳構造マクロモデルMHP/RTによる読解・STEP3
論理思考も経験していないことは予測できない

しかし、残念ながら、システム2も、これまで眺めて来た通り、どんなにIQの高い人であっても、早い直観系のシステム1が下した判断や行動選択、その基になっている情動や感情に引き摺られるため、遠い未来の未経験のことは、本質的に予測できない。拠って、現時点で適切な評価など出来ないし、評価に基づく価値判断や価値判断に基づく行動選択も出来ない

前回の本稿の最後に、ペンシルベニア大の実験の読解で詳述した通り、わたしたちは、合理的ではないのである。

合理的な選択が出来ているというケースは、社会的な環境や慣習の中に、そうするのが妥当であるという行動を促す価値観が埋め込まれているからで、自分自身の直接的な経験に基づいた価値判断を都度実施して選択している訳では決してない。

ジョン・ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』の集団脳の稿(#3)で観たキャッサバの毒抜きの例を思い出そう。ブラジルの先住民トゥカノ族でキャッサバの毒抜きの処理が出来ているのは、継承されてきた集団的な知恵として生活習慣の中に埋め込まれているから、である。

キャッサバが栄養価だけに着目して単に栽培だけが広がってしまったアフリカの地では、中毒事例が報告されている。

キャッサバの毒抜きは、自分だけで考えていたのでは、そのとても煩雑な手間暇の妥当性を評価できないし、中毒症状をキャッサバによるものだとも予測できない。下処理をしないと中毒症状になるから、という未来を予測した価値判断をしているから、煩雑な下処理をしている訳ではないのである。

バナジ―とデュフロが指摘するように、ソファーにふんぞり返っているわたしたちが、健康問題に悩まされずに済むのは、わたしたちが集団種であるからである。

すなわち、これまでの歴史的知恵の蓄積から、わたしたち自身の代わりに現在暮らしている生活環境が「未来の価値をその都度判断せずにデフォルトの選択ができる仕組み」を、社会環境や慣習として実装してくれているおかげである。

そのような社会環境がまだ十分に実装されていない、貧困にあえぐ人たちは、都度自分たちでその判断をしなければいけないのだから、より、わたしたちよりも困難に直面している、ことがより深く理解いただけると思う。

非常に長い原稿になったが、ひとつひとつ丁寧に問題を観ていくことの意味を少しでも感じ取っていただければ幸いである。

次回も、引き続き『poor economics』の読解を続けたい。貧困に苦しむ人たちの成長の推進力となるべき「教育」にも、マクロな視点だけでは解決できない、解決のための理解もできない問題が横たわっている。

(the Photo at the top by @Photohiro1)

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