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哲学から学んだことは、「人の話を聞く」ことだった

久しぶりに哲学がテーマの映画を観た。場所はわれらが宮崎キネマ館。いつ行っても好きな場所。

『ぼくたちの哲学教室』(原題:YOUNG PLATO)というドキュメンタリーを観た。北アイルランドのベルファストのカトリック系小学校を舞台にした本作。校長かつ哲学教師のケヴィン先生による4歳から11歳の子どもたちを相手にした哲学対話の授業。プレスリー好きでノリのいいケヴィン先生と一人一人キャラの立つ(立ち過ぎていたけどな!)愉快な子どもたちの掛け合いがおもしろい。

ケヴィン先生の問いに対して、結構真剣に考えて、わかりやすく悩んでいる姿をさらし、自分の言葉で考えを述べる。とはいえ、授業はまったくかしこまっておらず、どちらかといえば生徒も楽しそうに見えた。

それだけ書くとピースフルな雰囲気を持つが、当然問題も起きる。でも、それを無理やり即座に解決に導くのではなく、生徒に寄り添ってどうしたらいいかを一緒に考える先生たちの姿は素敵だった。過去の紛争の影響から不穏な空気の流れる街。そこで生きる子どもたちに“対話”をもってして希望を与えんと奮闘するケヴィンをはじめとした先生たち。終盤でコロナ禍に突入していたが、落ち着いた今、生徒や先生たち、学校の様子はどうなのだろうかと気になる。

総じて善い映画だったと思う。子どもたち一人一人がいろんな事情を抱えているなかで、彼らなりに物事を精緻に考え生きている。その姿にはウルっとする部分もあった。

ただ、つくる側の意図的な編集が入ったなと思う箇所や、これは前もって「こういうシーン撮りたいんでこう動いてください」みたいな感じで打ち合わせしたのかな? と思ってしまうカットがあった。それらが明け透けに見えた・感じられたのはモヤモヤするところだ。あくまでも僕の推測ではあるが。

まあでも、ケヴィン先生好き。晩年のウィルコ・ジョンソンそっくりで、かつロック好きな先生が哲学の授業やってるなんて最高にロックじゃないか。序盤で「ウィルコじゃん」と思ってからはずっとウィルコにしか見えなかった。プレスリー好きなんだし、どっかでマシンガンギター弾いてくれよとずっと思ってた。

自分が大学で哲学を専攻していたこともあり、どうしてもこういう映画は観に行ってしまう。意識高く何かを学びたいというよりは、過去の大学時代を思い返したいという気持ちのほうが強い。フィクションだろうがノンフィクションだろうが、そこで交わされる専門用語や飛び交う会話を聞いているとたちまちノスタルジーがやってくる。そのぬるま湯に浸りたいんだと思う。

哲学って、一般的な感覚でいうと「なんだかすごそう」「なんだかよくわからない」「なんだか頭よさそう」とかそんな印象を持っている人が多いように思う。さぞ授業もそうなんだろうと思われるかもしれないが、僕が大学で受けた4年間の授業は決してそんなことはなかった(と受け取っている)。確かに、ある哲学書をドイツ語や英語で読み解くみたいな授業もあったし眠い座学もあったけれど、かしこまってやっていた感じはまったくない。先生もこの映画の“子ども”たちのようにキャラ立ちした方ばかりだった。

そんなこんなで4年間哲学を学んできたのだが、一般教養や知識については、たとえば「アウフヘーベン」「ノエシス・ノエマ」ような専門用語の名前は覚えていても、中身の内容や意味の部分は卒業してからすっかり忘れてしまった。卒論で扱ったメルロ=ポンティやレヴィナスなどの著作も結構真剣に読んだわりには彼らがどういうことをしたのかもう全然説明できない。

じゃあ何が残ったかといえばそれは「人の話を聞く」ことだろう。そんで「問いを持つ」こと、あるいは「良質な問いを行う」こと(ああ、これはAI時代に必要なプロンプトと一緒だ)。

それだけなの?と思われてしまいそうだが「人の話を聞く」ことができる人がどれだけいようか。ソクラテスの問答法のように、人の話をじっくり聞いて問いをぶつけるからこそ、自分、そしてお互いが何を知らないかを知ることができる。その場にいる人たちにとって必要な「知」を見つけることができる。僕だって大学時代を通してやっといかに自分が人の話を聞かずに自分の主張ばかりしてきたのかに気づいた。あれから10年以上経っているが、意識はしつつもまだまだちゃんと人の話を聞けるようになったとは思えない。

しかしまあ話を聞くことを意識するようになって、相手がどんな合理性を持っているのか、何を大切にしているか、何が譲れないのかなどと少しずつ相手の内面に近づくことができるようになった。もちろん完全に理解することなどできないけれど。また、それは一種の傲りだとも思うが。

今だって、仕事でもプライベートでも人の話をちゃんと聞けたという実感は持てたことがない。だって、いろいろ失敗しているもの。

そんなこんなで、今は人の話を聞く「インタビュー」、それを記事化する「ライター」の仕事を行なっているのだから人生はどうなるのかわからない。どこかしらで大学時代に学んだことのエッセンスが発揮されているのかもしれない。あのときに僕の中に埋め込まれてしまったものたちが今後どう作用してくるのだろうか。

僕がこんなふうになっているのだから、ケヴィン先生のもとで授業を受けていた子どもたちはすごいことになっていそうだ。「すごい」なんて言葉しか思いつかないのが恥ずかしいが、とにかくすごそう。


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