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【文学賞っていつからあるの?】文芸公募百年史part4


VOL.4 「新小説」懸賞小説

 今回は、雑誌主催の懸賞小説、「新小説」懸賞小説を紹介します。
 歴代受賞者を調べていたら、永井荷風がいました。若き荷風先生も腕試しをしていたようです。

明治30年代の文芸誌ツートップは?

 現在、文芸出版社のツートップと言えば、芥川賞・直木賞を持つ文藝春秋と、三島賞と山本周五郎賞を持つ新潮社だろうか。明治期はというと、「新小説」の春陽堂と「文芸倶楽部」の博文館で、特に明治11年創業の春陽堂はトップランナーだったようだ。

 永井荷風の「書かでもの記」に、明治34年頃の話として〈その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉露伴の門下たるにあらずんば殆どその述作を公にするの道なかりしかば〉とある。
 「春陽堂一手の専門」とはすごいが、それ以上に、尾崎紅葉、幸田露伴門下の者でなければ小説の出版は難しかったというくだりで目が留まる。作家志望者は紅露いずれかの師匠に師事し、勉強会に参加し、その成果を試すべくせっせと懸賞小説に応募していたようだ。

 荷風いわく、〈『文芸倶楽部』と『新小説』、依然として(中略)長く雑誌界に覇をとなへ得たり。〉であり、この二誌が懸賞小説を実施していた。荷風自身も明治33年に「新小説」懸賞小説に入選しているが、その2年後、〈金港堂の『文芸界』は第一号の発刊と共に賞を懸けて長篇小説を募集しぬ。〉つまり、後発誌が参入。荷風は「地獄の花」という作品で応募するが、〈選に入ること能あたはざりし〉落選無念。しかし、選外ながら認められて出版。原稿料は〈七十五円なりき〉と書かれている。現在の150万円くらいか。

春陽堂が「新小説」創刊記念に懸賞小説を

 春陽堂は、明治23年に「新小説」を創刊。しかし、第1次はさっぱり売れず、1年半で休刊。6年後、明治29年に幸田露伴の編集で復刊されるが、このとき、今でいう創刊記念イベントを企画し、それが明治30年の「新小説」懸賞小説だ。賞金は100円で、今の価値にすると200万円くらいか。前回、紹介した大朝1万号記念文芸の1000円と比べると安いが、まだ黎明期の雑誌業界にあっては大きな花火を打ち上げたのではないかと思う。

 しかし、残念ながら第1回は該当作なし。続く第2回は入選作が3作あり、田村松魚男「五月闇」、米光硯海「生駒山」、三島霜川「埋もれ井戸」。
田村松魚男は前回登場した田村俊子の夫、田村松魚だろう。なかなか有望だったようで、別の賞でもよく入選している。松魚は幸田露伴の高弟だ。
(前回、松魚かつおと記しましたが、松魚しょうぎょだったようで、お詫びして訂正します)
 米光硯海は大成しなかったようだが、三島霜川はのちに演劇評論家として活躍している。こちらは尾崎紅葉に師事していた。

 「新小説」懸賞小説は第3回まで実施されるが、最終年の入選作は、斎藤渓舟「松前追分」、中村春雨「菖蒲人形」、神谷鶴伴「見越しの松」の3名。

 斎藤渓舟という人も入選の常連で、永井荷風が落選した「文芸界」懸賞長編小説では「残菊」という作品で二等に入っている。
 中村春雨はのちの劇作家、中村吉蔵。若い頃はペンネームで小説を書いていた。神谷鶴伴は幸田露伴の弟子で、のちに編集者。「少年界」「少女界」といった雑誌の主筆になっている。

「新小説」懸賞小説は明治の「小説でもどうぞ」?

 「新小説」懸賞小説は、明治33年3月からは年1回ではなく、月1回の募集となる。賞金は1/10の10円になってしまったが、入選の機会は12倍になった。
 歴代受賞者には、明治33年4月に永井荷風がいる。明治33年といえば、荷風は巖谷小波の木曜会(文学サロン)にいた頃。若き荷風先生、腕試しをしていたようで、なんだか親近感を覚えるね。

 明治33年8月と11月には、この連載の第2回で紹介(明治37年、「大阪朝日創刊25周年記念懸賞長編小説)した大倉桃郎が2回受賞している。大きな賞を受賞する前に、小さい賞にちょこちょこ入選している。いわば助走。
 ほかにも、毎月募集しているだけに複数回入選している人が何人かいる。大倉桃郎のほかには、宮本此君庵、斉藤紫軒の二人は2回ずつ入選している。

 「新小説」懸賞小説は、公募ガイド創刊記念懸賞小説(という公募はありませんが)が、月例の「小説でもどうぞ」に衣替えしたようなもの。「どうぞ」も書く習慣を持つうちに知らずにうまくなっていることを趣旨とするが、明治の創作者たちも月例コンテストで力をつけ、並行して大きな懸賞小説に応募していたようだ。皆さんも大成し、どうぞ年譜に「この頃、『小説でもどうぞ』で入選」と書いてください!


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