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とぎれる感覚

自分で自分に驚くことが増えた。
仕事が終わって夕方、湿気に耐えられず冷房をつけていた部屋の中で、夕飯の買い物に出かけようとしてカーテンを開いて窓を開く。雨が降っている。まだ小雨のようなのだけれど気になって天気予報のアプリを開いて雨雲レーダーを見てみると15分後にはけっこうな雨が降るらしいことがわかった。この通り過ぎるのを待とうかとも思うけれどそのまま出かけることにした。歩いて5分のスーパーだし雨に降られてもまったく問題ないだろうと思ったから。財布を袋に入れて鍵をポケットにしまって玄関に行くと、傘がない。
そこで私の思考はストップしてしまう。
どうしてある場所に傘がないのか。まったくわからなかったのだ。
ここ最近飲み会なんて外出はないし、これまで何本も傘を無くしてきた経験から特に気をつけるようにしていたのに、なぜないのか。しかも気をつける意味も込めてけっこう値の張る傘だったのに、それがなぜここにないのか。
しばらく本来ならば傘があるはずの場所を見つめながら玄関で立ちすくんでいると、やっとわかった。この前小雨が降る中やはり買い物に出かけた帰り、小雨は止んでいてコンビニに立ち寄るときに店の外の傘立てに差し込んだ。そこまでを思い出せたのだけれどコンビニを出てからの記憶がすっぽりと抜けていた。そういうことで、私は傘を無くしていたのだった。
なんだかすごく肌がぞわぞわするような、恐ろしさのような感覚が湧いてきて、それはこの数日間家に当たり前に傘があると思っていたのにその傘はなかったこと、それに気づかなかったこと、ぽっかりと意識が抜けていること、自分という意識の連続性というかそんなものがないことに怖くなった。
私はいま傘がない、それでも折り畳み傘があるから出かけられる。本降りの雨の日に折り畳み傘を差して家から出かけるのはなんだか無性に心細かった。

感覚が途切れるというか、自分の意識がどんどん薄くなっているような気がした。知らないことばかりの世界の中で、ひとつひとつの事柄に対していちいち全神経を傾けてちょっとずつ自分のために微調整をしていたような、そんなマニュアル式の感覚がひととおりの事柄を、生活におけるいろいろに対する微調整が済んでその枠内で生活することでぜんぶの感覚がオート式になってしまって、自分の意識が働かなくても体が勝手に動いているような、そこに私はいるのにいないのだなというような気がした。

感覚が、意識が途切れる感覚が無意識に起こっていることに気づいた日。

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