「文献」の語源に次代を思う(『論語』八佾篇)
今回取り上げるのは『論語』八佾篇からの言葉。
十分な史料と賢者が足りないからだ、という意味です。
みなさんも良くご存知の「文献」という熟語はここからきています。
現代では「文献」という二字熟語となり、シンプルに史料を意味していますが、孔子が生きていた当時は少し異なりました。
「文」が史料、「献」が賢者を意味していたのです。
「献」と「賢」はどちらも音が「ケン」なので、今でもその名残を感じることができますね。
今回の言葉は、古代の礼に関する十分な史料や賢者が不足していることに対して、孔子が嘆いて言ったものです。
内容としては以下です。
古代の王朝(夏・殷)の礼儀作法を自分(孔子)はよく知っている
しかし、当時の史料や当時を知る人が残っているわけではないので、実証することができない
十分な史料と賢者さえいれば、私が実証してみせるのに!
と言った感じです。
原文の最後の部分からは、孔子の悔しい気持ちが伝わってきます。
史料を重視するところからは、孔子に歴史学者的な一面があったことがわかりますね。
古い史料や情報というのは、2000年以上前から、今を生きる人にとってとても重要なものだったのです。
私たちの身近なもので言うと、古書や歴史的建造物などでしょうか。
当時の人々の記録にアクセスするには、そういった長い時を経たものに頼らざるを得ません
全部電子化してしまえばいいのでは?という意見もあるかもしれませんが、私はやっぱり、そのもの自体がもつ雰囲気や手触り、匂いや質感が好きです。
電子書籍もとても便利ですし、写真やVRで見るお城なども素敵なのですが、五感で味わうのとはやはりちょっと異なるように感じてしまいます。
最近は暖かくなってきたので、古書店に行ったり、神社仏閣やお城などにも行きたいなぁと思った次第です。
未来の人たちが孔子のように嘆くことがないよう、今の歴史を大切に、次の世代へ受け継いでいきたいなと思いました。
中国古典が初めてという方には、分かりやすい現代語訳・原文・解説で楽しく読める「ビギナーズ・クラシックス」シリーズがおすすめです。
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