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道具にされた子どもの話

以前、母に訊ねたことがある。

「なんでぼくを産んだの?」
「なんでって、できたから産んだのよ」

母はそれ以外に何があるの?という表情でぼくを見ていた。
ぼくはそれ以外に何かないのか?と無表情で母を見ていた。
これはもちろん、ぼくの聞きたかった言葉ではない。

「産まれてきてくれてありがとう」

そんなドラマみたいなセリフを高望みはしない。
それでも、命をかけて産んだ子どもにそれだけしか言えないものかと、ぼくは怒りよりも恐ろしく感じた。愛情の反対は、無関心だという。

ぼくは今まで心配の言葉をかけられたことがない。いじめられても、病気になっても、何もなかった。母が心配していたのは自分自身と世間体だった。隣で見ていたからよくわかる。散々いじめられたあげく、反撃した途端に先生も母も問題視し、謝りに行ったあの日のことを忘れはしない。自宅のトイレで自殺しようかと悩んだこと。ぼくはまだ小学生だったのに、自殺したいなんて気持ちがどこから湧いたのか今でもわからない。インナーチャイルドがいるとしたら、ぼくは何と声をかけたらいいだろうか。

振り返れば、条件つきで愛されてきた。自分の代わりに何かをしてくれる、迷惑をかけない便利な存在。その利用の仕方は狡猾で、してほしいことを忖度させるのだ。お願いではなく、ほのめかす。「~がない、困ったねえ」とか。ぼくはそれを察して、行動する。だから「感謝」もされない。お願いしていないことを勝手にしただけ。透明人間の召使いだ。

ここまで気づいていながら、なぜそんなことを繰り返すのか。それは、親を裏切ってはいけないという罪悪感と、もしかしたら親が愛してくれるのではないかという餌につられているからだ。何千回と期待は裏切られてきたというのに。体に染みついた条件づけは、愚かだと思っても止められないところに沈んでいる。

どうしてこんなに無理解な両親なんだろう?
本を読み漁り、人に相談し、ネットで様々な意見をのぞいた。
そこでふと感じたのは「子どもを育てるために産んだんじゃない」ということだ。
両親は世間体でいう幸せのレールに乗り続けるために、お見合いで結婚し、出産し、育児をし、祖父母に孫の顔を見せたにすぎない。ぼくは彼らの幸せを築くための道具だったのだ。ぼくに寄り添って育てようとする気なんて最初からなかった。ぼくを自分や他人の迷惑にならないよう支配して、言うことを聞くようにしつけられればそれでよかった。あいにく、そんな扱いをしたことによって、真逆の結果を生んでしまったことは皮肉でしかないが。

ぼくがいま自殺したとしたら「迷惑な子どもだ」「親不孝者」などと罵るだろう。これは「自殺するなんて親を脅しているのか?お前をここまで育ててやったのは誰だ!」という父の言葉が示している。ぼくが死をもってメッセージを伝えようとしても、何にも伝わらない犬死にでしかないだろう。

自分のために生きるってなんだろう?
不安障害で毎日苦しいのに、そのつらさを背負ってまで生きてる意味ってあるのかな?

助けを求めたい相手は、ぼくを一度も見たことがない。

なぜならぼくは彼らにとって透明人間だから。

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