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「地獄」はこの世で人工的につくられている

「地獄」とはすべて、この世で、人工的に作られているものである。
あっちの世でもそっちの世でもなく。
つまり、
現実世界の内側で、すべて人の手によって作られているのだ。

戦争」(人間同士の「殺し合い」)から始まって、
更に私達の生活の身近な所で言えば、――家庭でも、学校でも、職場でも、――虐め、パワハラ、家庭内暴力、その他どう考えても納得のいかない理不尽や不平等、政治でも経済でも、等々。

戒めや教訓を伝える目的の、架空の説話などの中の「地獄」ではなく、
「リアル」の「地獄」なんて、
最も地獄で、最悪以外の何物でもない
と思うのだが、
この世のそれは、数え上げたらきりがないほど存在している。
(実はこの世の半分くらいは地獄で占められているのでは?と思う日もあるくらいだ。)

それは人間だけが、心理的あるいは精神的にまで、
他者の領域を侵すことができてしまう
からであろう。
つまり、
「他者の心や精神にまで土足でズカズカ入り込み有形無形の暴力をふるう」
ことができる唯一の生物が、人間なのである。


天災ならまだ、「仕方あるまい」と思えるかもしれないのに。
あるいは、人間ではない動物に襲われたならまだ、
「運が悪かった」とあきらめの糸口もつかめるかもしれないのに。

でもそれが「人災」だと、どうだろう?
または、
そこに「悪意」や、誰かの「恣意的な考え」が、
介在していた場合はどうだろう?

なかなか、自分の中に、
その相手に対する「怒り」、果ては「恨みつらみ」まで育ってしまって、
簡単に「不運」と片付けられない、収まりがつかない。

――何故そうなるかといえば、
「相手が人間」、つまり「話せばわかるはずの相手」だと、
私達が思い込んでしまっているからだ。


しかし、――実際はどうだろうか?
「そいつ」は、本当に「話が通じる」相手か?
(それなら元から「そんなこと」するか??)
――「事実上そうではない」のケースのほうが、圧倒的に多くはないか?
つまり、「見ている世界」は同じものでも、
「そいつ」の頭の中で思い描いている「認知している世界」となると、
それはもう、自分のそれとは別の世界といえるのではないか?
現実の同じ世界を我々は「間借り」し「共有」はしているが、
頭の中で「認知している世界」は、人それぞれ、別々なのだ。

例えば、
ある人の中で、「この世界に存在している」と認識していることが、
ある人の中では、すっぽり欠落していたりする。
(そういうことは実はいくらでもある。私自身も、この世の事は、「知らない事」のほうが圧倒的に多い。)
それなら、もう「その相手」は、
自分とは「認知している世界」が、完全には一致してはいない。
ならば、少なくとも事実上「同じ世界にいる」とは言えないのではないか?

つまり、
「自分は絶対譲れないし間違っていない」と思えるルールを、
真っ向から否定し正反対のルールを採用している人がいるとしたら、
たとえ同じ現実の世界を「間借り」していても、
(「だからこそとても厄介」だとも言えるのだが、)
その人は「別世界の人」として、
まず、捉えるしかないのではないだろうか。

例えば、「人を騙すのはいけないこと」という人と、
「人を騙しても、バレなければいけないことはまったくない」という人と、
更には「バレても、しらを切ればまったく構わない」という人と。
それぞれが違う価値観でいて、
それぞれがその価値観を「絶対的なもの」として通している以上、
「話が通じない」のは、むしろ当然ではないだろうか。

(「正しい」「間違っている」のその「審判として当然」という意味ではなく。)




地獄というものがすべて、この世の現実の中で、
「人工的に」つくられているとするならば、
いうなれば、
人というものの、その心の内側や、頭の中側に、
地獄は存在するいうことになり、

また、ならば鬼もそこに棲んでいる、ということになるだろう。

「鬼」と一口に言っても。
「全面的に鬼」の人もいるかもしれないが、
しかしまた「部分的に鬼」の人のほうが多く存在するのも事実だ。

例えば、私の前でその人は確実に「鬼」でも、
自宅に帰れば、家族の前でその人は「仏」かもしれないし、
また、熱狂的支持者の前で、その人は「神」かもしれないのだ。

だからもう「自分にとって」でいいと思うのだ。
人の数、つまり、
各個人の「認知」「認識」の数だけ、世界があるのならば。

私にとっての正真正銘の「鬼」が、
ある人にとっては「仏」だの「神」だのでも、
もう別に構わないと思うのだ。

世間に向けて、(あるいは、社内やクラス内に向けてでも、)
「自分から見るとどう考えても絶対悪のそいつの化けの皮を剥がしてやる」
ということすらも、
「絶対しなければならない」ことでは、必ずしもないのかもしれない。
(いや、「鬼成敗、大成功!」となるなら、そりゃあいいけれど、――経験上、大体そうはならないからさ。笑)
ならば、なるべく、
「自分なりに」「自分としての」、
鬼のいない、地獄などどこにもない世界を、
まずは先に、
自分のいる「此処」につくっていこうではないか
、と。

そんな「自分だけの世界」のその地図は、
まず、自分で作るしかない
し、
もうとっくに、今生きている今現在に、
自分で作っていてもいいはずなのである。
何故なら、「地獄」は本来、人の暮らすところではないからだ。
また、地獄にいるだけで、(自ら望まずとも、)
今度は自分自身が鬼に化してしまうということも、よくあることである。
人というものは、いかなる理由があっても、
鬼になどならないほうがいいに決まっている、――とも、私は思っている。

「悪を倒す」「間違いを糺す」「恨みを晴らす」は
まず地獄を抜け出したその後からだっていいではないか。
いずれも、自分の精神を地獄に置きながらやらなくたっていいことである。
(但し!別に未来永劫「沈黙」している気などは、更々ない。――だって、精神的に別世界の住人と、でも現実的には同じ世界を「共有」していることに、変わりはないのだから。)

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