痛むキスマーク
噛まれた。
飼い犬でなくピラニアでもなく、ワニでもなく。人に。
噛むとは聞いていた。
でも、ぼくは大丈夫だろうと根拠なく油断していた。その隙を突いてくるかのように噛まれた。
あぶなかった。
なんの躊躇もなく安いステーキの筋を噛み切るように、上下の前歯は全力で門扉を閉じる。とっさに体を離したが、太い針を刺したような鈍痛が胸元に走った。出血こそしなかったものの真紅の跡が徐々に浮かび上がる。キスマークと見せびらかしてみようか。
その人は足の力がまったく入らず立位が取れない。両手も上手く使えない。そして重度の認知症のため日中はほとんど車椅子で過ごしている。
「殺してやるぅ」と唸るような声で人を睨みつける。引っ掻く。そして噛みつこうとする。自分の意思に反して。
だってそうだろう。そんな原始的行動のまま80数年生きて来れるわけはない。次の瞬間「ごめんねぇ」と泣きながら訴えることもあるのだ。感情の起伏がバンジージャンプくらい激しく上下する。つくづく認知症の怖さと脳の不可思議を思い知る。
それは、入浴介助をしている時だった。
脱衣所で車椅子に座ってもらったまま上半身の衣類を脱がす。下半身の衣類はぼくが体を抱え、もう一人の介護者がズボンや下着を下ろす。
抱える側の人間はどうしても体を密着せざるおえない。抱えた時、その人の顔がぼくの胸あたりにくるのだ。その時に、噛まれた。
この場合、相手がそのような人だとわかっている。
それなのに油断して噛まれるのはぼく過失だと、ぼくは考える。リスクのない方法を考えれば回避できたのだから。
ぼく痛みよりも、自分の油断と不注意そして未熟さに情けなさを覚えた。
そしてその人を、温かい風呂に入れる。少しでも安らいでほしいと願う。
介護は大変。介護職はキツイ。そんなネガティブなイメージを覆したいと思っています。介護職は人間的成長ができるクリエイティブで素晴らしい仕事です。家族介護者の方も支援していけるように、この活動を応援してください!よろしくお願いいたします。