地元”だから”好きなんて感情がない
地元愛だの、地元ラブだのよく耳にする。生まれ育った土地だから好きだとか。
「地元なんだから」
「家族なんだから」
「長く過ごしたんだから」
「地元最強っしょ」
言わんとすることはわかる。あなたがそれらを大切にするのは汲み取ろうとはする。汲み取りたい。けれど、ふわふわした概念をあたかも「誰にでも当たり前の常識」のように押し付けるのはやめてほしい。
誰にだって好き嫌い、得意苦手があるのだ。
嫌いも好きも言えないなら、それは興味がないこと
もちろん「情」は存在する。自分をよくしてくれた人や場所をわるいようにしたくない、言いたくない。だからといって、「その全てを愛せ、尽くせ」は横暴に思える。片っ端から全部を好きになれるほど、人は単純に出来てない。少なくとも自分も。
人も同じ
大好きな恋人や友人がいて、その人らを純度100%好きかと言われれば疑問は残る。好きな部分がたくさんあればあるほど、嫌いなところもたくさんある。ネガティブな思いは、何もせずとも滲み出てくるから、わざわざ嫌いなところを探さなくていい。ネガティブな感情はすぐ肉付けされるのに、ポジティブな感情は意識を働かせないと中々輪郭が掴めない。皮肉なもんだ。
嫌いなところも好きなところもたくさん言える人が、仲の良い人だと思ってる。良いところだけしか興味が沸かないのは、盲目だ。
嫌いところも好きなところもある自分に馴染み深い場所が、きっと本当の意味で地元になり得る。ある人気番組のコンセプトを借りると、「ここが僕のアナザースカイ」状態。
それぞれの好きのキャパシティ
ほどほどの田舎で、良い思い出より、悪い思い出のほうがたくさんある場所が、自分にとっての「地元」という場所。思い出したいような青春時代はとくにない。時間が戻せると言われても戻さないと思う。
地元”だから”好きなんじゃない。大切な人がいて、好きな場所があって、澄んだ空気があって、ようやく好きがある。地元だからといって贔屓することはない。凡百な場所となんら変わりない。だから仲良くしてもらってる友人の家族がいる場所などは、自分の地元じゃないけど大好きだったりする。そこはど田舎だけど。不便で嫌いなところもたくさんあるけれど。
初めて行った場所でも、お気に入りの本屋さんやごはん屋さんを見つけられたらその場所が好きになる。好きになる要素が一つ増える。
ひとつひとつの好きと嫌いが重なって愛情になる
そのひとつひとつの「好き」が重なっているだけ。同時にたくさんの「嫌い」も重なってる。
「◯◯だから好き」なんてことはない。好きの入り口も嫌いのキャパシティも人によって違う。何を以てそれを「好き」「嫌い」と言えるかは、ひとによる。好きも嫌いもごちゃまぜに、ひとつの鍋が出来て、僕らはそれを突くのだ。この具材好き、苦手、美味しい、まずいなどと口にしながら。
どうのこうのたらたらと書いたものだけど、なんだかんだで、たまに帰ると気分が落ち着く。別に好きとかそういう感情が湧き出るわけでもなく、嫌いなのに落ち着く。ずっといるとわからない。懐かしいと懐古する気持ちは不思議と嫌いじゃない。むしろきっとニュートラル。執着のないフラットな感情に着地する。
(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。