教えてください
教える立場にある人間こそ
誰よりも教えられる必要がある。
教える立場にある人とは、教師や教授は勿論、コーチ、リーダー、マネジャー、親、そして大人もそこに含まれる。
生徒から
部下から
子供たちから
教えてもらう必要がある人たちだ。
何を教えてもらうのか?
僕の関わり方でまずいところを。
僕のコミュニケーションの仕方でまずいところを。
僕の姿勢でまずいところを。
僕の在り方でまずいところを。
そんなことすると今流行りの自己肯定感が失われない?なんて考えが少しでも過ぎったならば、もしかしたら何も分かっちゃいないのかもしれない。
セルフエスティームやセフルエフィカシーやセルフイメージなんて奴は、次のことをよ~く理解してないとただの酔っ払いと何一つ変わらない状態だ。
ひとつ例をあげといてやる。
将棋を思い出してみよう。チェスでもいいのだけれど。
飛車が左斜め3マス上にいる対戦相手の金を捕らえなかったことを角に謝るのはバカげているだろ?!
将棋をご存知ない方のために言っておくと、飛車はそもそも斜めに動けないのだから。角は斜めに動ける代わりに縦横には動けない。
さて、飛車を自己とした場合に「チッ、なんで自分は捕えられなかったんだ!」と一見すると自分の能力の無さを嘆いても仕方がないケースも確かにあるだろう。
ところが飛車だけではなく、角も、2個の金も銀も桂馬も香車も、9個のふも、ひとつの王将とそれら合わせて20個の駒を自己として観ると、話は違ってくる。元来将棋の場合、それら自分の駒20個をどう動かすかに己が映し出される。
当たり前だが、だから飛車が斜めに動けなかったとしてもチッとなることも、まして角に謝ることも勿論なく、その考え方そのものが途端に滑稽に見えてくる。
さらにもっと自己、あるいは内側と呼べる領域を拡大して見てみようじゃないか。
ちなみに戦争が何故起こるのか?蛇足になるが内側と外側って線を僕たちが勝手に引くからだ。つまり、僕たちが内側って呼べる範囲を広げれば広げるほど世界平和が確かになる。
でだ、時を戻そう(ぺこぱ風)。
対戦相手の20駒、もっと言えば将棋盤それ自体が自己として内側に置けた時、感情、特に怒りや悲しみの感情は速やかに和らぎ、それに伴い、これまで見えなかった可能性の扉を発明できることに驚くに違いない。
勿論、これは将棋の話ではない。
この本質がわかって初めて自己肯定感の大切さが意味を成す。つまり、自己という属性が一般ピーポーの属性のままでは自分に酔っ払ってる状態とほぼ変わらないって訳だ。
そこが分かってきたときに、次の問いもこれまでとはまるっきり違って聞こえて来るはずだ。
例えばこの1ヶ月で、
自分の価値が本当に分かっていたならば、
取っていない行動、
あるいは、
取っていた行動って何?
どう?深淵さを垣間見れただろ?!
あとね、これでもまだピンと来ない人のために言うけどね。
キミがどんなに仕事とプライベートを区別しようが構わない。あるいは、自分と他人を区別しようが構わない。
けれど木と森を区別したからと言って森即ち水や空気や土壌や生物などに木が影響を受けない訳では無い。
人生そのものを扱わない限りビジネスはよかならない。他人そのものも自分そのものとして扱わない限り、プライベートだけ(自分ひとりだけ)充実なんてのも有り得ないのさ。
この考えに魅了される人が一人でもこの地球上に増えることを祈りながら今日も投稿してるよ。
ちなみに、『魅了とは、世界でも最も古い概念だ』。
魅了を意味するfascinateという言葉は、ラテン語のfascinareに由来し、その意味は『魔法をかける』とか『捕らえる』といったものだった。
つまり『魅了する』とは、相手に抗うことを許さないような圧倒的なパワーを持つ、ということ。
だから、ビジネスで言えば、売上あげるには?
とか離職率下げるには?とか考えてないで(悪くはないけど)、顧客にしろ、働く人々にしろ、彼らをもっと魅了するには?を考えた方がいい。
そして、それでもそもそもキミがまだ不平不満タラタラだとしたら、キミに欠如してるのはCreativityだ。
失礼、キミの不平不満がなくなっていないのは、僕の教え方に問題があるね。僕の至らない点をどうか教えて欲しい。
教えてください。
By オレの殴り書き
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