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劇場が行う大道芸企画に寄せて

劇場と大道芸という組み合わせに違和感を覚えることがあった。
ハコである劇場と、野外の大道芸というある種短絡的な自分の中のイメージにギャップを感じていた。
しかし全国で、劇場が大道芸の企画をやるという構図は多い。一体なぜなのか、私なりに「大道芸とは」ということから考えながら整理してみたいと思う。
 
さて、「大道芸とは」と聞かれた時、皆さんはどう答えるだろうか。
色々な意見があるだろうが、恐らく大道芸といえばジャグリングをイメージする人が多いのではないだろうか。
事実、私自身ジャグリングをやるが、「大道芸をやっている人」と私を知らない人に紹介されることが多々ある。確かに大道芸の一部としてジャグリングを用いる芸人は多くいるが、例えば手品やパントマイム、ダンスやバンドなど、多様なパフォーマンスも全て大道芸として披露されていることは言われないと気付かないのかもしれない。
私は大道芸とは技術そのものを指すのではなく、お客様の前で自身のスキルを発揮しながら、まさに今そこにいるお客様と会話をしたり、自分の創り出した世界にお客様を巻き込んだりしながら価値を生み出すことのできる芸のことを指すのだと思う。
普段趣味でジャグリングをやっているだけの私は大道芸人では無いのだ。アーティストと名乗るのはおこがましいだろう。

「大道芸とは」と一口に言っても、それを専門としているわけでもない私が語るには少し荷が重い。
ただ、歴史的な観点から見れば、大道芸は元々フランスにて、「アートを日常にする」という目的のもと提唱された政策に端を発しているそうだ。すなわち一部の者が嗜む(≒劇場へ行く)スタイルから、劇場を飛び出し、外へアートが飛び出していく動きが生まれたことで、「テアトル・ド・リュー(道の上のアート)」という言葉が生まれ、そこで暮らす人々の日常にアートが溶け込むようになった。
「劇場へ行く」という行為はその実ハードルが高い。劇場とはそもそも目的をもって行く場所であり、その目的となる観劇や音楽鑑賞という行為そのものを身近に感じている人が多くないためだろう。そういった文化を楽しむこと自体が、高尚なものと捉えられているような印象もある。
確かにアートは、公共サービスとは異なる。公園の水道のように誰でも蛇口をひねれば水が出るというものでもない。ある程度生活に余裕のある人のみが楽しむことのできる、一種の贅沢と捉えられることは避けられないだろう。
しかし、人によってはアートにこそ救われる人もいる。あるアーティストとの出会いが人生を変えることだってありえる話だ。「ハードルが高い」というだけで、その世界に触れる機会が無いことはもったいない。
劇場を飛び出し、「道の上のアート」を体現する大道芸人は、その見えないハードルをも飛び越えていく。普段は何の変哲もない、ただ人々が通過しているだけの路上が、広場が、非日常のステージとなる。そこには目的をもって訪れる人もいれば、偶然通りがかった人もいる。足を止めるかどうかはその人に委ねられているが、多くの人はそのパフォーマンスに目を奪われる。
大道芸は、アートとの偶然の出会いを生み出す。

こうやって書いていくうちに、頭の中が整理されてきた。なるほど、劇場が大道芸をやるというのは何ら不思議なことではないようだ。アートに対するハードルを下げることで、劇場へ足を運ぶ人も増えるかもしれない。少なくとも、まちの一部として存在する劇場が、アートに触れる(しかも偶発的な)機会を創造することは、まちづくりの観点から見ても非常に意味のあるものなのだろう。

一方で、大道芸人から観た劇場はどういう存在なのだろうか。当然舞台と路上双方で活躍しているアーティストは多くいるし、大道芸人と一括りにするのは難しいということは承知しているが、あえて自分の経験を元に考えたい。
私はジャグリングでステージに立ちつつ、仲間と一つのチームとしてステージに上がることも多く、全体のMCも担当していた。当時メンバーに対して「こんなことができるのすごいでしょ、なんてただの自己満足だ。完璧に洗練されているわけでもない私たちができることは、その時目の前にいるお客様にどうしたら楽しんでもらえるかをとことん考えることしかない。」と常に伝えていた。これは私が元々コントを軸にお笑いの舞台に立っていたことも影響しているのかもしれないが、人前に立つ以上はプロでもアマでも高い意識をもっておかなければならないと思っていた。本来であれば「洗練されていない」などと言ってしまう時点でステージに立つべきでは無いかもしれないが、若かりし頃の話なので大目に見てほしい。
この意識の部分はどのステージでも同様だと思うが、ステージの性質によって表現方法は変えざるをえなかった。具体的に言えば路上で行うパフォーマンスと、劇場のような舞台上で行うパフォーマンスでは性質が異なる。路上で行うパフォーマンスは、自分たちと観客の立場がフラットだった。まさに目の前にいる人の目を見て話を変えたり、すぐ隣の人を味方に引き入れたり、場を創ることの楽しさとヒリつくような緊張感があったことを覚えている。そうして楽しんでいただいたお客様からは投げ銭をいただきながら会話をする。とある商店街で地元のおばあちゃんからいただいたお札(さつ)は一生忘れられない。対して劇場のような環境では、観客席とステージには一つの線が引かれている感覚があった。ステージ上は別の世界とでも言えばよいのか、観客をこちら側に連れてくることは非常に難しく、自分が創り上げた世界観を表現することで楽しませるということに集中していたと思う。どちらも表現することに変わりはなく、自分のスキルを発揮して楽しんでいただくという点は一緒だが、舞台に向かう心は全く異なるものだった。
ここからは推察だが、恐らく大道芸を生業にしている方からしても、同じような難しさがあるのではないだろうか。本当に自分がやりたいことは、劇場のようなステージ上では表現できない部分があり、苦しさがあるのだと思う。
では大道芸人にとって劇場とは苦しい場所なのかといえばそうではないはずだ。劇場はその地域におけるアートの拠点であり、劇場があるからこそ、表現できる土壌が作られる。また、特にこのコロナ禍で思うように路上でのパフォーマンスができないときでも、劇場は開かれていた。様々な制限がかかる中でも、地域の拠点として存在し続けてくれていた。劇場という存在があったからこそ、人前に立ち、誰かを喜ばせたい、楽しませたいという思いを実現できる場所が守られたのだと思う。劇場を飛び出し生まれた「道の上のアート」は、帰る場所があるからこそ輝けるのかもしれない。

猛威を振るった感染症に対する風向きも大分変わってきた。不要不急の外出の自粛など、アートにとって非常に苦しい時期が続いたが、それでもその時できる形で、アートの火種を絶やさずに続けてきたことには大きな意味があると信じている。きっと演者側にも観客側にも、抑圧されていた見えない力が、今か今かと爆発するその時を待っている。
今年の大道芸はきっとすごいことになる。私もぜひ、会場へ行って直接肌で感じたい。

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