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1923年8月の麻川荘之介氏、鎌倉にて


まずは、映画「1923年8月の麻川荘之介氏- 鎌倉ホテルH屋にて-」のオープニングから。

女は、閉じていた瞼に、強い光を感じた。なぜか怖ろしくて瞼を開けることができない。そのとき男とも女ともわからない声が聞こえてきた。
声の主は言った。「生まれ持った命の総量は変えられない。しかし、その配分は変えることができる。生命力に溢れた豊饒の三年と、季節の移り変わりを眺める三十年がある。あなたは、今、どちらかを選ぶことができるのだが・・・」と。

目覚めた女は、「夢を見た」と思ったが、何も思い出せなかった。そして、ふと思いついて書斎に行くと、書棚から十三年前の1923年の日記を探し出し、手に取った。

失礼しました! 以上は、私の「制作をお願いします」映画の冒頭場面です。岡本かの子作「鶴は病みき」は、こんな妄想をするほど、素敵な作品です。

「鶴は病みき」とは

本作は、既に歌人として世に出ていた岡本かの子の、小説デビュー作です。
1923年(大正12年)八月、岡本かの子一家は、避暑のため、鎌倉で平野屋ホテルが貸し出していた別荘に滞在します。そこで、同じく部屋を借りた芥川龍之介に出会います。

「鶴は病みき」は、そこでの芥川との交流を踏まえたものです。「鎌倉では色々あったけれど、今はただ懐かしくて、悲しくて、悔やまれる」という、作者の思いが溢れています。
岡本かの子が本作を含め、小説を書いた期間は、およそ三年間です。「鶴は病みき」を読んでいると、ふとその主人公にならい、1939年(昭和14年)二月帰らぬ人となる岡本かの子を思ってしまいます。

あらすじ

坂本葉子は、白梅を糸口に八年前に自殺した麻川荘之介氏を思い出すと、麻川氏との鎌倉でのひと夏を懐かしみます。
鎌倉での日々、葉子は、文学者として、また美しい人として崇拝する麻川氏の表裏を知ります。失望や怒りを感じ、また、麻川氏の心身の変調を気にかけながら、生身の麻川氏を理解するようになります。
しかし、八月下旬のある日、麻川氏の一言により、葉子の一家は、突然、東京に帰ることを決めます。
葉子が麻川氏と偶然の再会をしたのは、五年後の梅の季節。葉子は、麻川氏の容姿の変化に衝撃を受けました。そして、その年の七月、麻川氏は亡くなったのです。

こう読みました

1 美意識の問題
鎌倉で避暑を共にする以前から、葉子は、ニ三歳年上(実際には岡本かの子は、芥川龍之介よりも三歳上)の麻川氏を、眩しい小説道の大家と崇拝していました。文学者の会合で、粗野でだらしなく見える大勢の中で、彼女の目に映った麻川氏は、次のように描かれています。

淡い色金紗の羽織がきちんと身に合い、手首のしまったきびきびした才人めいた風采が聡明そうに秀でた額にかかる黒髪と共にその辺の空気を高貴に緊密にして居た。

しかし、麻川氏が、葉子の美意識に適わないX夫人を、美貌の人と激賞したことから、葉子は、彼の審美眼を疑います。そのもどかしい気持ちを雑誌に書いたことから、「女性に対する美意識」は、避暑地で交流する間、たびたび麻川氏に蒸し返えされます。
この「少女のような崇拝の仕方」と「崇拝する人であっても、美意識は譲れない」という点が、岡本かの子らしさなのだと、感じました。

2 生身の麻川氏
一か月に満たない避暑生活で、「女性に対する美意識」問題も含め、葉子は、麻川氏によって、何度か、腹立たしい不愉快な思いをします。しかし、少しすると、麻川氏への好感が戻ってきます。その理由を、葉子は、「不用意な麻川氏」を何度も見て、無邪気さや懐かしさ、また、憂愁や寂しさなど、人間らしさを感じたからだ、と振り返ります。

葉子が目にした「不用意な麻川氏」とは、次のようなものです。
・ある日の午後、盥(たらい)の金魚をたった一人でそっと覗いて居た氏。
・ひっそりと独りの部屋で爪を切って居た氏。
・黙って壁に向かって膝を抱いて居た氏。
・夜陰窓下の庭で上半身の着衣を脱いでしきりに体操をして居た氏。

ここに挙げられた麻川氏の様をイメージすると、確かに愛おしく思えます。
葉子が、その「不用意な姿」を目にしたことで、麻川氏への理解を深めていくことに、「崇拝」という一方的な思いが、相手を気遣い「遠くから見守り続けたい」という思いに変化したと感じました。そして、この点に、芥川龍之介に対する岡本かの子の、深い愛と思いやりを感じました。

3 モデル小説でなかったら?
モデル小説は、書き手と読者の間で、ある程度の情報共有があることで、モデルの人物を探すというおもしろさがあると思います。本作には、芥川龍之介周辺の著名人が多数登場しており、モデル探しを楽しむことができます。

ならば、そのモデルを知らない人が読んだ場合、おもしろく読めるか?
本作は、おもしろく読めると思います。崇拝する人の現実を知って偶像を失い、傷つき、現実を受け入れ、その人を大切に思う心情を育んでいく。そのプロセスには、温かいものがあり、共感できると感じられたからです。

よろしかったら、「鶴は病みき」、お楽しみください。
ほんの感想です。 No.03 岡本かの子作「鶴は病みき」 昭和11年(1936年)発表


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