人生の責任は誰が取ってくれるのか?

『責任感』

私が大嫌いな言葉だ。世界中の中でこの言葉が最も嫌いな人間ナンバーワンだと自負している。

なんだよ、責任感って。なんの『感』だっての!


仕事でも、友人関係でも、何でもかんでも。

やれ常識だ、やれ当たり前だと宣(のたま)い、それが達成されないと結論『責任感がない』


私がこの言葉を嫌いになったのは比較的最近である。
なぜ、私がこの言葉を嫌いになったのか、少しだけ過去の話をさせて欲しい。


A few years ago.(数年前)

前に勤めていた会社はベンチャー企業だった。
当時は私を含めて社員は3人しかおらず、社長と副社長を除けば実働部隊は私しかいなかった

副社長は、経営経験豊富かつたくさんの会社を抱えていたため
基本は資金集めと営業を行っていただいてた。

資金繰りができていたのも、この副社長のツテのおかげであり
お金周りのことはほとんどチャランポランだった当時の自分がチャランポランでいられたのもこの方のおかげだった。
今でもとても感謝している。

社長は、、、うん。まあ、営業力はとてもある方だった。
経営者として見れば、暇があればゲームしてるし、映画見てるし、深夜まで仕事しないしで良い思い出がないが、営業力は抜群で人脈も中々に広かった。

私といえば、多少ITに覚えがあったので、プロダクト製作だったり、社内でのIT基盤の調達や運用、内部調整、外注とのやり取りなんかもしていた。
やることなすことが始めてで、上手くいかないこともあったけど、試行錯誤しながら一歩ずつ成長していたのを今でも覚えている。


歯車が狂ったのは、社外から技術コンサルタントを招いてからだった。

とにかく他人の人生を自分で左右できないと気が済まないほどの暴君で
その刃を社長ではなく、自分がメタメタに受けていた

朝から朝まで(つまり24時間)拘束され、自分の仕事も私に押し付け、あまつさえできなければひどく怒鳴られた。

本人の機嫌が悪ければ、こちらとしては知らんがなということでも幾度となく刃を振り抜き、気のすむまで私を切り続けた。

私はと言えば
その頃に、内部で新たにできた部の長もしていた。
別件で資金集めのためにと受託案件も飛んできた。
新規プロジェクトの立ち上げとその中身の考案を一任された。
自分の仕事でないものも『責任者』という名ばかりの役職を盾に、様々放り投げられたのである。

それでどうなるか。
ええ、だって実働部隊が私だけ、私が動かなければ動かないものばかり。



ある日。

そう、それはもうちょっと忘れてしまったけれども
確か、夏も終わりを迎えそうな時期だったと思う。

会社とは別の場所にオフィスが構えられていた。
開発部屋と呼ばれたそこは、私にとってみれば村八分のための座敷牢にしか見えなかった。

ベッドが置かれ、冷蔵庫が置かれ、こじんまりとした机と社外コンサルタントしか利用できない立派なiMacが鎮座し、私はノートPCでちまちまと作業していた。

その日も朝から出勤し、作業の準備を終えた。そう、終えたのだ。

だというのに、何も作業ができないのである。
頭が動かず、手は震え、挙句嘔吐感と倦怠感がひどかった。

トイレに駆け込んで、出すもののない体から何かを一生懸命に出そうとした。

ああ、とうとう壊れてしまったんだ。っと、まるで他人事のように思っていたと思う。

怒涛のようにメールや電話が来る。
一つとして対応できなかった。いや、できたのかもしれない。この頃の、細かいところはあまり覚えていない。


社長から無能と呼ばれ、副社長からも罵倒され、社外コンサルからはゴミ扱いされ、部下からは迫害された。
受託先のお客様のお怒りも頂戴したが、それは当然のことなので仕方ないとしても。

寝る間も惜しんで働いて、外部と内部に味方はいなくなり、それでも働かなければ会社は回らない。
その一心だけでやってきた。だが、会社はもう壊れたおもちゃを必要とはしなかったのである。


その会社がどうなったのかは今のところ知らない。
風の噂だと、別の会社に転身して内部整理をしたらしい。
もう私にとっては関係のないことだが。


責任感なんか持つべきではない

私が得た教訓はまさにこれに尽きる。

持たない方がいい。でもなく
持たないで良い。でもない
持つべきではない。という、強い表現を敢えてしている。

私の人生の責任が取れるのは私だけ。
責を負うのも私だけ。
私を助けられるのも、私だけだった。

なら、やりたいことだけやって、やりたくないことはやらない方が
実に健康的な人生ではないかと思う。

この話は、私の生き方が不器用という話でもある。
とにかく生きるのが下手くそなのだ。大抵の物事に対しての要領も悪い。

しかし、こうやって仕事中にnoteを書いていたって、やることをやっていれば誰も文句なんか言わない。
こういう環境こそ私は欲しかった。そして、勝ち取ったのである。

今の仕事にはやりがいを感じるし、面白いと思うことも多い
でも、恐らく長くは続けない。
なぜならば『労働』に価値を見出せなくなったから。

だって、どれだけ一生懸命に働いても雇用主には一切関係がない。
馬主にとって、自分の馬が優勝するかが重要であって、馬がどんな生活や調教が行われているかなんて知ったことではないだろう。

成果が出ているかどうか。
ただ、その一点が重要なのだ。


成果に責任なんかない

成果=労働。

こう思っているのであれば、すぐにその責任感を捨てた方がいい。壊れたおもちゃ、使い込まれたおもちゃは希少性がなければすぐに捨てられる。

成果は『生み出せた価値』であって労働したかは関係ない。


成果=生み出せた価値。

価値とは何か?それは
『あなたにとって必要で、それが誰かにとっても必要なもの』
が理想的だと思う。

でも、誰にも必要なくても『あなたにとって必要』であれば価値と見なしたっていいと思う。
それがお金にならなくったって別に良いのではないだろうか?

お金を払ってくれる人がいないだけで、無価値とはならない。
ある意味では、お金を払ってくれる人を探せば良いだけの話である。

薄汚いボロ布が、一枚数千円で買い取ってもらえることもある。
海を漂っていたゴミや枝が買い取ってもらえることもある。
自分が楽しければ良いやと集めていた情報が数十万で売れることだって令和だったら普通に起こり得る。

では、それは『労働』によって生み出されたのだろうか?

あなたは誰かに言われて、媚びへつらい、頭を床に擦り付ける屈辱を味わいながら作り出したのだろうか?
金銭が発生した瞬間から消費者の奴隷として『労働』を強いられねばならなくなってしまうのだろうか?

『成果』とはそういうものではないと思う。

自分が作ったものが誰かに価値を認められる。
その価値が、資本主義の今であれば『金銭』というものさしで測られるだけであって、見る人によっては0でも、別の人によっては1かもしれない。


例えば、酒蔵の職人は『労働』をしているのか?

酒蔵で働く職人たちは、果たして酒だけを作っているのだろうか?
酒造りだけが『労働』の本体なのだろうか?

あなたは『作られた酒』を買うことができる。
その酒はまごう事なく『成果』の塊だ。

では、その酒は酒蔵の職人の『労働』の本体なのだろうか?
あなたは『労働』に対して『お金』を払ったのか?

そうではないはずだ。
その酒の旨味、のどごし、自身のストレスの癒し、文化的な生活。
そういうものを与えてくれるから『対価』を払った。つまり、その価値に釣り合うだけの「資本主義における価値」と交換したはずである。

そして、それは職人たちが来る日も来る日も酒と向き合った『成果』として成った酒だ。
酵母を研究し、水や材料を厳選し、温度と湿度を管理し、己の鼻と目と耳で発酵する音を聞き、ようやく最高に近い酒ができる。

でも、最高ではない。
そう、だからまた研究し、厳選し、管理し、五感を養う。

『成果』を生み出すために、酒と語らい続けることを
彼らは『労働』と呼ぶだろうか?

答えはノーだろう。それは趣味であり、人生だ。

どれだけ働いたって関係ない。
最高の酒ができるときはできるし、できないときはできないのだ。

生み出された価値と労働は、どこまでいってもイコールにはならない。


『崇められる』ための『労働』

長時間働いて、生み出した価値があなたのものにならないならば
なんのために働いたのか?

給料も上がらない、評価も上がらない、外から見えもしないから誰もあなたがやったことを知らない。

使えないと馬鹿にされ、無能だと罵られ、いてもいなくても変わらない場所に満員電車に揺られて、歯を食いしばって「社会で生きる事はこういう事だ」と語り続けるのだろうか?

最終的には部下に、年下に同じことをするのだろうか?
あいつは使えないと馬鹿にし、無能だと罵り、自らを棚に上げ続けて
「これが社会で生きるということだ」と語り続けるのだろうか?

誰のためにあなたは生きているのか?

あなたは生きているのか?

あなたは社会にただ「いる」だけではないのだろうか?

会社で行なっている仕事がなくなったとして、あなたは明日から何をするだろうか?

『労働』という唯一神を失ったとき、あなたはこの社会で生きる価値を本当に失ってしまうのだろうか?

逆に『労働』という唯一神を失った人を、あなたはこの社会で生きる価値なしと断じてしまうのだろうか?選ばなければ仕事はあるとまた『労働』を崇めるように言うのだろうか?


神が人を救う事はないのに、労働だけは自分を救ってくれると信じ続けるのだろうか?

誰かから課せられた責任を背負い、誰かに責任を課して背負わせていくことだけが、あなたをあなたたらしめているのであれば
賽の河原すら真っ当な職場に見えてくるかもしれない。


働かずに仕事をする

明らかに労働を敵視しておきながら手のひらを返すが
私は働くこと自体は好きだ。

パズルゲーム感覚で仕事をしているから、私にとって働く事はほとんど遊びに近い。
だから、最初は仕事が遅い。そう言う点で、私は要領がかなり悪い。

しかし、仕事の全体像から必要な技能を洗い出し、それを習得し、自動化することにかけては他の追随を許さないだろう。

なので、ある期間から仕事が秒もせずに終わっていくようになる。
あらゆる方面から仕事が舞い込んでもなんら支障が出なくなる。

やる事は考えることだけに集約されて、成果のためだけに邁進できるようになる。
だから、ダラダラ残業したりはしない。

労働を極限まで好きなことだけに注力できるように最適化するのだ。
こうなったら労働は労働ではなくなる。

しかし、『労働』を信仰している一派はこう言うのが大嫌いだ。
主義に反するとして迫害を受ける。無駄な仕事が重なり、信仰する『労働』に準じるようにあの手この手を尽くしてくるようになる。

できなければ『責任感がない』として彼らの肥やしにされるのだ。
彼らにとっての『責任感』とは一体なんなのか?


『責任感』が『不真面目の理由』にはならない

酒蔵の職人よろしく、彼らには彼らなりのプライドを持って仕事をしているだろう。
成果、つまり酒ができなかったとしても、それは責任感がなかったわけではないはずだ。

誰しも最高の成果を上げたいと思っている。

自分にしかできないことをしたいと思っているし、自分が特別であることを証明したいと思っている。

そのために、勤労することを悪いことだとは全く思わない。
むしろ、そうやって働いていた方がノイズが少ないとさえ思っている。

しかし、現実はそう簡単にはいかない。

失敗もある、実は自分に合っていないこともあるし、自分ではどうにもならないことが立ちふさがっていることも大いにあり得るだろう。

しかし、責任感がないからそう言う壁にぶち当たるのだろうか?
結果的に成果がなかったとして、それは本人に責任感がなかったからなのだろうか?

もし、それが真であるならば
そもそもそこで勤労させたものの責任だろうし、適切な選択を選ばせなかったものの責任でもあるだろう。
決して、本人の無責任さだけが結果に直結しているわけではないはずだ。

逆に、成果が出ているから責任感があるのだろうか?
成功している人間は特別な存在として崇めなければならないのか?

もし、それが真であるならば
その人を特別たらしめるに至った過程の全ての人間はどうでも良いのだろうか?彼ら/彼女らの人生を狂わせていたとしたら、なぜ彼ら/彼女らの人生に責任を持たないのだろうか?


誰しも、死にたくて生きているわけではないはずだ。
自らの過ちで何かのツケを払わねばならなくなったのならば、ツケを払い終わるまで相手にはきっちり責任を持って共に歩んでもらうと良いだろう。


人生の責任は誰が取ってくれるのか?

だいぶ長い文章になってしまった。(当社比)

ここまで5000文字を書くのにかなりの時間を要している。
(具体的には3時間ぐらいだろうか?
が、人生の振り返りも兼ねられたので私に取っては大変有意義な時間だった。
そして、もう少し続くのでお付き合い頂きたい。


結論を言えば
責任は誰も取ってくれないし、誰かに取らせるものでもない。
そして、誰かに責任を押し付けられて良いはずがないし、誰かに押し付けて良いはずがないのである。

自分の責任を自分が果たす。
果たせないならば、責任が少ない状態にする。
でも、暴力として責任を抱え込まされているならばそんなものは知らんと投げ捨てれば良い。
逆に、投げ捨てられたならば怒りを感じる前に自ら反省すべきである。


相手があることに対して責任が発生すると考えるのであれば、相手がないことを商いにすれば良いだけの話だ。
顧客すら相手と見なして責任を感じるならば金を取らず、暴力に暴力で訴えられるようにしておくのも選択肢としてはありだと思う。

副業ブームの今だからこそ、燻っていた思いやスキルを発揮する時でもある。絵を描き、音を奏で、体を鍛え、頭を使い、、、。

誰かに届けやすい時代になった。
責任を理由に二の足を踏んでいるのであれば問題が起きた時に考えれば良いと思う。
問題はすぐに起こるし、大体が思ってもみなかったところでつまづくから考えている大抵のことは大したことはない。

人生コケてもなんとかなる。なんとかできる。

なんとかしてきたし、それで迷惑を掛けたのは親ぐらいだ。
親に迷惑を掛けられないと思うならば、国のお世話になれば良い。

ここは現代日本。
生きるための手段はいくらでもあるし、失敗の一つや二つ誰しも経験しているから共感者が増えているのもありがたい話だ。

たまに同族嫌悪の民も出てくるが、失敗したことへの後ろめたさがそうさせている可能性もあるから話半分でしっかり耳を傾けてあげれば良いと思う。
(どうにもならない民もいるから真面目に取り合ってはいけない。


自分だけが悪いと思い込みすぎないこと。
人生二度と這い上がれないと思い込みすぎないこと。
成功だけが人生のすべてと思い込みすぎないこと。

ゲームをして、親から勉強しなさい!とどやされた人もいることだろう。
「今はゲームの勉強で忙しいんじゃい!お母さんお父さんが生きてた時代とは違うんじゃい!ゲームが勉強の題材になる時代なんじゃい!」

と、言えば良いのである。

好きなことをとことんすれば良いと思う。

好きなことをすれば、なんでか人が集まってくる。

なんでか人が集まってくると同じものが好きな人と嫌いな人が出てくる。

好きな人が好きなことを共感したり、見てくれたりする。

そして、たまにお金を投げてくる人が出てくる。

そこに『労働』や『責任感』はあるのだろうか?


私自身の人生は、ここからがまた始まりだと思っている。

ゲーム実況もやってみたいし、海外にも住んでみたい。
投資でお金も増やしてみたいし、プログラミングももっと上達したい。

誰かに馬鹿にされて、今からじゃ遅い、お前のやってることは無意味だ、そんなものうまくいくはずがない、なんでそんなことしかできないの?、生きてる価値もない、と言われようとも
そいつが私の人生の責任を取ってくれるわけじゃないのだから知ったことではない!


私の人生だ!


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