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【サンプリング小説】来世では喜劇となってあのひとのリュックの中に潜んでいたい

来世では喜劇となってあのひとのリュックの中に潜んでいたい
引用:twitter @abggg_d (あぼがど 様)


祐希先輩が事故で死んだ日、リュックの中にはシェイクスピアの『マクベス』が入っていたらしい。

先輩らしいと思った。

私は通夜に参列をしたが、最期まで彼の顔を見なかった。
祐希先輩の親族に挨拶をしたら、
焼香だけあげて、こっそり帰ろうと思っていた。
上手くやったつもりである。
啜り泣きや、声を出して泣いている人たちの人混みを潜り抜け、
葬式会場を出ようとした時、
サークルの同期が1人、私に向かって駆け出してきた。

「花乃!」

パタパタと近づいて来る彼女は目元を腫らして泣いている。
私は彼女の顔を見ても、未だ上手に泣くことが出来なかった。

「祐希先輩、寝てるみたいだったね」

涙声とともに、彼女はハンカチで目元を拭う。

「大丈夫だよ。大丈夫」

私は友人の背中を摩りながら、何度も大丈夫と呟いた。
その大丈夫に、意味なんて含まれていない。

「やっぱり、花乃は強いね」

彼女はハンカチを取り出して涙を拭うと、私に抱きついた。
私はまた、彼女の背中を優しく叩いた。

「ちょっと、飲み物買ってくるね」

私は手を振った。
友人に振ったのではなかった。
祐希先輩に、サヨナラの手を振ったのだ。


空は彼の死を喜んでいるように、晴天である。

通夜は何となく夜に開催するものだと思っていたけれど、
彼の親戚は昼間を選んだ。

帰り道、祐希先輩と来たことがある公園を通りがかったので、
真っ黒の喪服のまま、中のベンチに腰掛けた。
カラフルな遊具やおもちゃで溢れた公園に、
私はあまりにも浮いている。


私は眩しくて直視出来ない太陽を見上げて
語りかけることしか出来なかった。

「貴方が祐希先輩を連れて行ったんでしょう」

先輩が事故を起こしたのは、
こんなにも明るくて、見晴らしの良かった昼間なのである。

佐江樫 祐希。

珍しい苗字の先輩は、軽音楽サークルに所属している癖に、
専ら本ばかり読んでいた。

先輩がサークルに在籍していた間、
ステージの上で楽器を持っているのを見たのは、結局1回だけである。
彼はその時、ギターボーカルをやっていた。

私は祐希先輩と、そこまで深い仲では無かった。
人付き合いも上手いし、分からないように忖度できる。
自分で言うのも何だが、私は誰からにも愛される方だ。
だから、静かで気怠げな先輩と話す機会なんて
あまり無かった。

そんな祐希先輩が私の生活に飛び込んできたのは、
文化祭の準備を進めていた昨年の秋のことだった。

「後はボーカルなんだけど。佐江樫、ライブ出てくれるのかな」

先輩の同期が教室に集まって相談していたのだ。
とても腑に落ちた。
祐希先輩がライブに出ているのを、それまで見たことが無かったからである。

「新歓もサマーライブも結局出なかったもんな」

先輩たちはため息まじりに机を囲んでいた。
あの頃の私は、祐希先輩がギターを持って歌っている所など
全く想像がつかなかった。

そんな会話を聞いてから、
祐希先輩の歌声は確かに気になっていた。
あの日あまり話したことの無い先輩に声を掛けたのは、そのせいだ。

サークル終わり、私が同期と別れ駅のホームに着いた頃、
先輩は重たそうなリュックを背負って2両分後ろ辺りの位置に立っていた。
文化祭でライブに出ることになった私は、少し浮かれていたのである。

ツカツカと先輩に近付いても、先輩は前を向いたままだった。

「お疲れ様です」

祐希先輩は漸くこちらに顔を向けると、
無意識に眼鏡を上げていた。

「見たことある顔だな」

「大谷です。1回生の」

無理は無かった。
サークルのメンバーは50人近く在籍しているのだ。
普段関わりの薄い先輩が私の名前を覚えていないことは、
意外では無かった。

「どうして今日サークル来なかったんですか?
文化祭のバンドグループを決める大切な日だったのに」

先輩は一度体勢を整えるため、軽く跳んでリュックを上げ直した。
先輩の動きは全然スマートじゃあない。

「出るつもりが無いから」

「どうしてですか?」

ホームのアナウンスが、電車が来るのを告げていた。
先輩は少し困ったように眉を歪ませた。

「ああいう眩しい場所が苦手なんだ」

あの時は思わず笑ってしまった。
先輩の容姿に、その台詞はお似合い過ぎたのである。
それでも私は、先輩に言うべき言葉は分かっていた。

「先輩の歌が聞きたいです」

祐希先輩は何も言わなかった。ただもう一度、眼鏡を上げるだけだった。
彼がもう話したくなさそうなのが分かったので、
私は電車に乗って、故意に距離を空けた。

彼の反応がそんなだったので、
数日後のサークルで『佐江樫が文化祭に出るらしい』と先輩が騒いでいた時は大層驚いた。
祐希先輩はその日から真面目にサークルに参加していた。
毎日重たそうなリュックを背負って、その上ギターまで担いで来るので
先輩の不格好さはひとしおだった。

「祐希先輩、めちゃくちゃ歌上手いよね!」

同期の会話を聞きながら、私は少し誇らしかった。
私の一言が、彼のモチベーションに関与していると信じていたからである。
実際、文化祭に向けた練習期間だけでも、
先輩は随分人気者になった。

「あの気怠い感じで歌声が綺麗なのは狡いよね」とか、
「地味な見た目でバラードを歌うと哀愁が堪らない」とか、
言いたい放題言われていた。

私はただひたすらにニコニコと相槌を打っていた。
しかしあの頃から私には、無気力で協調性のない先輩が
みんなから愛されることに羨望の気持ちが強まっていた。

歌が上手いから、では無い。
好きなように返事をして、本音で振る舞っている彼を
皆が許し、笑っている。
私は愛される為に沢山頭を働かせ、最善の立ち振る舞いを選んでいるのに。
この差は一体何なのだろうか。

人としての興味があった。
私は先輩を見つけると、積極的に声を掛けた。

「祐希先輩、いつからギターやってるんですか?」
「祐希先輩、何の本読んでるんですか?」

祐希先輩は、高校生の時にギターを始めた。
昔の外国人が書いた小説をよく読んでいて、一人暮らし。
肉じゃがが好きだけど、自分では作らない。

聞けば情報は手に入るが、先輩のことを知った気持ちにはならなかった。
祐希先輩は、別に会話を膨らませようと努力をしない。
聞かれることを答えるだけだ。
練習の時以外本を読んでいる先輩は、本を閉じて返事をして、
また本を開くだけだった。
私が髪の色を随分明るくした時も、初めてサロペットを履いてサークルに参加した時も、
先輩は私に何も聞かなかった。
私に興味が無いことが分かって、余計に悔しかったのを覚えている。

「祐希先輩のグループ、1曲しか歌わないんだって」

文化祭の1週間前、先輩グループのバンドがザワザワと騒ついていて、
同期が私に耳打ちして教えてくれた。
理由なんて本当にくだらなくて、祐希先輩が眩しいところが苦手だからという理由で、珍しく先輩たちが怒っていたのだ。

祐希先輩は、ずっと困った顔をしていた。
帰り際、重たそうなリュックとギターを身に纏いフラフラと帰る先輩を追いかけると、いつものように声を掛けた。

「どうして1曲しか歌わないんですか?先輩歌上手いのに勿体無いですよ」

また私の言葉で先輩の考えを変えたかった。
私は周りを惑わす先輩を惑わしたかったのだ。

「眩しいところが苦手なんだ。吸い込まれそうになるんだよ」

「吸い込まれる?」

「ふらっと、眩しい方へ眩しい方へと」

先輩の言葉は、冗談では無さそうだった。
私たちは黙って駅まで歩き続けた。

駅のホームまで着いた時、私はふと冗談めいた表情で口を開いた。

「サングラスでも掛ければどうですか?」

なんちゃって、と続けるつもりだった。
先輩はまるで晴天の霹靂、とでも言うように目を丸くしてこちらを見た。

「考えたこともなかった」

先輩は、初めて私に満面の笑みを見せて大きく頷いていた。

「大谷さんのお陰でみんなに迷惑掛けなくて済むよ。ありがとう」

先輩は、私の手を握るとブンブン振って、また1人で何度も頷いていた。
私の中に、誇らしいという気持ちはもう芽生えなかった。
祐希先輩に勝てないと察したのはこの時である。
それから私は、無理に先輩に話しかけるのを辞めた。

「花乃は祐希先輩が好きなんだと思ってたよ」

同じグループの1人が、私に笑いながら話したことがあった。
私は「まさか」と笑い返した。
祐希先輩の歌声や見た目が好きだという人はいたが、
それ以上深い部分で好きだという声は、
少なくても私は聞いたことが無かった。

文化祭で先輩は、本当にサングラスを掛けて登場した。
始めはみんなクスクスと笑っていたが、
曲が始まるとその迫力と上手さに圧倒され、
持ち時間をしっかりと使い切った後もアンコールの拍手が鳴り止まない程だった。
あの時の先輩は誰よりも眩しかった。
吸い込まれそうという感覚も、少し分かった気がした。


「大谷は、佐江樫先輩のことが好きなの?」

文化祭が終わった頃、今度は同じ質問を同期の男子にされた。
不思議に思った。
私はその頃、もう祐希先輩に執拗に声を掛けたりしなかったからだ。
私はまた「まさか」と笑った。
同期の男子は髙田と言った。

「佐江樫先輩が読んでる本、知ってるか?」

なんとなく駅まで一緒に歩いていると、髙田は興味深そうに話題を振ってきた。

「シェイクスピア、アイスキュロス、ソフォクレス。先輩はいつも悲劇作家の本ばかり読んでる」

文学部の髙田は、作者名と代表作くらいならピンと来るらしい。
シェイクスピアくらいしか分からない私は、簡単な相槌を打ってその場を乗り切った。

「先輩らしいよな」

髙田は小さく笑っていた。
それが先輩の薄暗い部分を指していることが分かって、嫌な感じがした。
次の日の朝、私は本屋で『オイディプス王』を買って、誰にも言わずにリュックに入れて持ち歩いた。

結局、先輩とちゃんと話をしたのは文化祭以降一度だけだった。
先輩はあまりサークルに来なくなったし、
サークルに来ても本ばかり読んでいたからだ。
私はもう、本を読んでいる先輩に話しかけようとしなかった。

最後に会話らしいことをしたのは、
ちょうど1ヶ月前、冬になり始めた頃だった。
合宿に向けて提出した書類にミスがあった為帰りが遅くなった夜、
重たそうなリュックを背負った祐希先輩が、私の背中の方からやってきたのだ。

「大谷さん、文化祭の時ありがとう」

祐希先輩が改めて話し掛けて来ることなど無かったので、驚いたのを覚えている。

「弟が遊びに来てて、折角だからライブも見せてあげたくてさ」

「弟が遊びに来るから、ライブに出たんですか?」

先輩は何食わぬ顔で頷いた。
あの時の私の言葉など、何ひとつ先輩の耳に入っていない。
だけど私は、あの時よりも先輩のことを知っている。

「仲が良いんですか?」

「良くはないかな。8年ぶりに会った」

先輩は大学3回生だったので、8年という期間は明らかに長すぎた。

「親がいないから、別々に住んでる」

先輩が初めて広げてくれた会話を、私は受け止められなかった。
とにかく話題を変えたかった私は自分のリュックから本を取り出して、先輩の目の前に突きつけた。

「オイディプス王?」

私が大きく頷くと、先輩は小さく笑った。

「君、その本まだ読んで無いでしょう」

オイディプス王は、赤子の頃親に捨てられた物語であると教えてもらった時、
恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになった。
祐希先輩は「僕は捨てられたわけじゃない」と笑って、通りがかった公園に入って行った。
先輩がベンチに向かって行くのが分かったので、私も後を追った。
先輩は腰掛けるとリュックを下ろし、1冊ずつ取り出しながら私に本を見せてくれた。

「全部悲劇なんだ。お守りみたいなものだ」

本は5冊入っていた。読み古したようなものもあれば、図書館で借りてきたようなものもある。

「悲劇って、ただ悲しい物語だと思っているだろう?
そうじゃなくて、悲しい物語の中に、小さな喜びや可笑さが確かに入っているんだ。僕の人生にそっくりなんだ」

私は先輩の取り出した本を、悲劇を、先輩の人生のように優しく撫でた。

「例えばそこに、1冊だけ喜劇を混ぜることは出来ないんでしょうか?」

先輩は首を横に振る。

「今の僕には難しい。喜劇もまた、僕には眩しすぎるよ」

私は手に持ったオイディプス王を強く握った。
本当は先輩を囚える悲劇を壊してしまいたいと思ったけれど、
先輩の人生と重なって、それ以上強くは握れなかった。

「私、先輩のこともっと知りたいです」

自然と口から出た言葉は、興味だった。
先輩はまた優しく笑った。

「僕が喜劇を読めるようになった頃、
僕も君のことをもっと知りたい」


先輩は高校の時からギターを始めた。
悲劇をよく読んでいるのは自分の人生と似ているからで、
親がいなくて一人暮らし。
肉じゃがが好き。でも作れない。
眩しいところが苦手。吸い込まれてしまうから。

先輩のことをほんの少し知った気になった頃、
先輩は自転車に乗っている時車にぶつかられて死んだ。


先輩は太陽になってしまったのだ。

私は子供がサッカーボールを蹴った音で、漸く自分の着ている喪服を思い出した。

「大谷!」

遠くの方から声がして、やってきたのは髙田だった。

「通夜終わったよ。佐江樫先輩、今にも目が覚めそうだったな」

知らない。私は祐希先輩の最期の顔を見ていない。

「でも最期にみんなに会えるのがこんなに晴れた昼で、佐江樫先輩も嬉しかったんじゃ無いかな」

その癖私は、高田の言葉にイラついていた。

先輩があの日、自転車でどこに向かっていたのか、
先輩があの日、何故本を1冊しか持っていなかったのか、
私は先輩のことを何も知らなかった。

「俺さ、大谷は佐江樫先輩のこと好きだと思ってたんだ。
だって大谷は、先輩のことをいつも知りたがっていただろう」

「勝手なこと言わないでよ」

皆知ったように言うことが、私には悔しかった。
私は同期の女の子が言うように強くは無いし、
先輩のことを知りたがっていたようで、何も知らないのだ。

髙田は驚いた顔をして「ごめん」と言った。
私は先輩の最期の顔を知らない。
誰よりも先輩のことを知らない私は、
跳ね返ってきた自分の言葉をきっかけに、声をあげてワンワン泣いた。

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