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「内なるもの・大いなるもの」への衝動。生起次第、ゾクチェン、瞑想、バクティ、ヨガ

 かなりのご都合主義の妄想。根拠も何も無いこじつけ。
想像するのは自由なんだから。


 しばしば述べてきましたが、人類には「(意識の)内なるもの、大いなるもの」(との一体性)へと向かおうとする衝動があるのではないかと思うことがあります。

この衝動の発露が宗教や信仰、神秘主義やスピリチュアルや、米欧人の東洋思想への興味や、サイケデリクスへの興味やヨガや瞑想、、、、なのではないでしょうか。

このことはこの瞑想する人noteの金剛大乗における生起次第、ラムリムバクティなどの考察にも役立つかもしれません。
瞑想全般、ゾクチェンの思想にも関係するかもしれません。


直近の関連note:【ヤブユム】智慧と慈悲、その結合の歓喜。 ヨガ、瞑想、密教、生命エネルギー、バクティ




意識の内の「大いなるもの」と「個我」と一体性への衝動

 「内なるもの・大いなるもの」への衝動は、本能としてあってそして意識の働きとしてあるのではないでしょうか。

 フロイトとかユング、それにトランスパーソナル心理学とかを持ち出してあーだこーだ言うこともできると思いますが、
とにかく無意識レベルでも大いなるもの」と「個我」というのがあって、「個我」は常に「大いなるもの」との一体性を求めるような意識の働きがあるということです。

 この世に生まれて成長にしたがって脳ミソと精神が発達し、社会の中で自我が発達して個我が発揮され認識されます。
その過程で「大いなるもの」(との一体性)を求めようとする衝動も発動するということです。

もちろん生物学的な個体差はあれど、。


・この衝動の進化生物学的な基盤

 「個我」が「大いなるもの」との一体性を求めようとする衝動の進化生物学的な基盤の一つとして考察し得るのは、
ヒトは一本の葦のように弱いものであって、存続や安全のためには他人とのつながり、協力、集団的な力、共同体、社会が必要ということです。

参考:「人間は考える葦である」

個体よりも大きなものへの所属、一体性を生物学的な本能として求めるということです。


 人間が生物学的にも孤立・孤独に向かないということは、
たとえば、社会から孤立し他者とのつながりがなくなると、体内で遺伝子レベルで炎症反応が増して不健康リスクが高まるということからも考察することができます。
(孤立の心身の不健康リスクについては、生物学的な個体差のようなものがあるようなのですが)

一方で、他者への親切心、他者との良質な関係性、社会の中でのやりがいのある役割、、、などは、生物学的なレベルでも体内の炎症が抑えられて心身の健康に良いなどと言われています。


 孤立の及ぼす神経生理・生物学的レベルでの心身への悪影響は、人間以外の他の動物でも観察されています。
なので「帰属・所属」を求めるのは多くの動物の本能の中にあると言えるのかもしれません。
(私は生物学・動物学を詳しく学んだことがないので、不正確な主張かもしれませんが)


 人間の場合には、脳ミソが発達していて、精神、知性、意志、意識が発達している分だけ、その衝動の表現には、「精神性」「意識性」といったものが帯びてきて魅力的なものとして感じられ、尊重されるのかもしれません。

このようなことが、宗教などスピリチュアルな伝統に見られる「内なるもの・大いなるもの」(との一体性)への衝動の進化生物学的な説明として良いのかもしれません。


・唯物論的な主張として「衝動は進化の副産物」

 このような進化生物学的な唯物論的な主張では、スピリチュアルな「内なるもの・大いなるもの」への衝動というのは、偶然の副産物ということになります。

つまり単に動物の存続・安全のための集団へ所属しようとするのが、この衝動の本来の役割です。
しかし人間の場合には、脳ミソが発達して情操までが他の動物よりも複雑高度に働くようになったので、その衝動に「スピリチュアル」と言えるほどの精神性までが表現されるようになったということです。

その精神性ゆえに、物理的な領域にとどまらずに、「意識の内にある」という要素まで付与されるようになったということです。

進化の副産物です。


 たとえ進化の「副産物」であったとしても、それに価値がないとまでは言えないでしょう。

たとえば脳ミソが発達したおかげで、文明が誕生して、いろいろと発明されてきました。
ヒトという種の存続のためだけなら、インターネットも心臓バイパス手術も生成AIも自動運転技術も必要ないわけです。

これらはみんな進化の副産物みたいなもんです。
しかしこれらは利器として、人間の文明の中で価値があるものとされ利用されています。


 スピリチュアルな「内なるもの・大いなるもの」への衝動というのも、文明の中で何かしらの価値を見いだせるのかもしれません。
これが研究され適切に活用されるなら、情報技術や先端医療技術と同じように、人間個人にも人間の創造する文明にも寄与するものなのかもしれません。

関連note


生起次第の考察 ―― 内なるものの「外なる世界」への展開

 意識の内に「大いなるもの」と「個我」との一体性への衝動があるとする場合には、生起次第はどのように考察すべきでしょうか。

意識の内の「大いなるもの」と「個我」との一体性への衝動が、主観的な信仰的・実践的態度において「外なるもの(外なる世界)」へ反映・展開されるのが、生起次第であると考えています。

この説明に関しては、まだまだ考察が足らずに思索の途中なので、以下に乱暴にしか述べることができません。

・人間の意識の内に「大いなるもの」への衝動がある。
これはこの瞑想するnoteで述べてきた「霊性(智慧・慈悲)」にきっと関係するのだろう。

・意識の内の「大いなるもの」と「個我」との一体性のためには、いろんなスピリチュアルの伝統で言われているように、「エゴが失われなければならない」もしくは「自らを捧げなければならない」のだろう。きっと。

・では実践はどうあれば良いのか?
それは意志においても、顕在意識においても、「外なる世界」においても、「大いなるもの」へと向かうという実践がなければならないのだろう。

・その実践のために「大いなるもの」と「個我」との関係性を「外なる世界」に反映・展開する。

、、、というように思索しています。

そして、述べた「大いなるもの」と「個我」との関係性を「外なる世界」に反映・展開するという実践の態度・方法には、特によく知られているものとして、以下の2つがあげられます。

・大乗仏教やバクティ・ヨガの思想にあるように、この世、他者を「神のあらわれ、ホトケのあらわれ」と見て、神仏にバクティを捧げ礼拝をするかのように、親愛・利他をもって接する。

・西洋キリスト教圏スピリチュアルによくあるように「おお、主よ!私の意志ではなく、あなたの御意志が行われますように!どうか私をあなたの祝福の経路、道具としてお使いください」というように、親愛、利他をもって接する。

他にもいろいろとやり方はあると思いますが、有名な例としては以上の2つです。

以上のような態度・実践を通して、自らを捧げ自己を虚しくしエゴを無くしていくというわけです。


 これは主観的な信仰的・実践的態度に関する言及です。

つまりこの物理世界 ――家族、友人、近所の人、会社の同僚、上司、部下、学校や病院やショッピングモール、アスファルトの道路 、、、―― が客観的な真実として、神やホトケやクリシュナのあらわれであると言いたいわけではないです。

実践のための主観的な態度に関する言及です。


関連note:


瞑想、ゾクチェンに関すること

 「瞑想の起源は何なんだろう?誰が何のために瞑想なんて始めたんだろう?」と疑問に思うなどしてきました。
そして「瞑想は人間の本能の衝動としてあるんじゃないだろうか?」と思うことがあります。
(↓↓2020年の記事です。懐かしい。この頃に比べるとこの瞑想する人noteもずいぶんとあやしいスピ系になってしまった、、、 ┐(´д`)┌ )

関連note:


瞑想の起源としては、人間の生物学的な基盤に根ざす「内なるもの・大いなるもの」と「個我」との一体性への衝動があげられると考えています。


・ゾクチェンとの関係 ―― 自然にあるがままに成就する

 人間の内に、神経生理的・生物学的にも、「内なるもの・大いなるもの」への衝動があるとするのなら、このことはゾクチェンにも関係するかもしれません。


関連note:


 ボン教だけでなくて大乗仏教の一宗派であるチベット仏教・ニンマ派でも継承されてきたゾクチェンが、
「内なるもの・大いなるもの」と「個我」との一体性といったような、ヒンドゥーの「ブラフマンとアートマンは一つ、梵我一如」やスピリチュアル思想の「ワンネス」みたいなのと関係があるというのは、すごく乱暴な主張に聞こえます。

私は「ゾクチェンの思想は、梵我一如だ、ワンネスだ」と言いたいわけではないです。

ゾクチェンと関係するかもしれないとして言いたいのは、「自然に成る」「あるがままに成る」というところです。

清浄なる心、仏性は、自然にして(あるがままにして)成就される
自らの内の清浄心ゆえに、自然にして(あるがままにして)完成する。

、、というところです。

 清浄なる心、仏性とは何かというのは、置いておいて、とにかくゾクチェンの思想では、何かしらの大切な精神的な境地が自然にして(あるがままにして)成就されるとされてます。

もしこの思想のとおりに自然にして何かしらの精神性が達成されるのなら、そのためのメカニズムが人間の意識ー神経生理システムの中になければなりません。

この自然にして成るというメカニズムというのは、人間の生物学的な基盤にも根ざす「内なるもの・大いなるもの」への衝動なのではないかと、私は思索してるのです。


・ミラレパの失敗

 自然に、あるがままに成るとされているわけですが、実際には、ボン教でもニンマ派でも前段階的な修行による心の成熟が必要とされているようだし瞑想の手順、プロセスみたいなのも説かれています。

これについては、チベット仏教の伝説では、ミラレパがゾクチェンの修行に失敗したなどと言われています。

自然にあるがままに成就するということなので、ミラレパはポカンとして日々を過ごしていたら、結局はゾクチェンの修行に失敗したというわけです。
(「ミラレパはゾクチェンとのカルマ的な縁が無かった」などとも説明されています)


・ゾクチェンの前段階の修行

 人間の内には「内なる・大いなるもの」への衝動があって、それが自然にあるがままに成るというゾクチェンにも関係するのなら、前段階的な修行はどうあるべきなのでしょうか?

それは、自然にあるがままに成るというメカニズム、人間の生物学的な基盤にも根ざすであろう「内なる・大いなるもの」への衝動が、精神性・「霊性」へと適切に作動され方向付けられている状態にするものだと考えられます。


 このために、この瞑想する人noteの金剛大乗の実践では、生起次第やエゴなく慈悲が実践されるべきとしています。

「内なる・大いなるもの」への衝動が、生起次第や慈悲の実践によって、
「外なる世界」で適切に作動するのなら、

瞑想による「内なる世界」でも適切に作動して、
ついには「自然にあるがままに成る」だろう。

そもそも
瞑想は「内なる・大いなるもの」によるものなのだから。
(瞑想の起源は「内なる・大いなるもの」への衝動なのだから。)

、、、というわけです。


グノーシス主義について

 グノーシス主義(グノーシス主義的傾向)については警戒すべきものとして、この瞑想する人noteで触れてきました。

関連note:

特に問題だと感じているのが、グノーシス主義の特徴の一つである「反宇宙的二元論」です。

グノーシス主義、反宇宙的二元論とは何かについては、学術的にもいろんなことが言われていますが、
乱暴に説明すると反宇宙的二元論とは、「霊」に対して、「肉、物質、世俗社会」は真実ではなくて、間違っていて、穢れていて、悪しきものということです。

このグノーシス主義的なものは、程度・強弱の差はあれど、多くの宗教やスピリチュアルに当たり前に見られるものです。
キリスト教にもイスラム教にも、ヒンドゥー教にも仏教にも、エドガー・ケイシーなどの西洋スピリチュアルにも見られます。

「霊」「内なるもの」「精神性」といったものを説くとなると、ある程度はグノーシス主義的な傾向は仕方がないのでしょう。


・たとえば仏教とグノーシス主義

 大乗仏教とグノーシス主義との関係を指摘した学術研究もあります。

大乗仏教にグノーシス主義的なものがあるのなら、釈迦の説いた教えや初期仏教、上座部仏教はもっとグノーシス主義的なものが濃いと言えるのではないでしょうか。


 男性の仏教修行者を意味する「比丘(びく)」は、元は「食を乞う人」つまりルンペンのことです。

“ ……
 そのとき師(ブッダ)は……田を耕すバラモン・バーラドヴァージャが仕事をしているところへ赴かれた。……
 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え」と。 ” p.23


“ 仏教の僧侶は働かない、無為徒食しているのではないか、ということは、インドでは後世になってもバラモン教徒から発せられた非難であった。……儒学者、日本の国学者も、仏教に対して同様の非難を向けていた。……” p.266 註

ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳 岩波文庫 1984


 今日でも南伝仏教に限らず、また仏教に限らず、修行者はルンペンをやることがあります。
「肉、物質、世俗社会」に与することをやってると、真実の智慧は得られないというわけです。
出離(ネッカンマ)」によって清らかな喜び、平安が得られるとされます。

仏教の教えで有名なものに「四念処」というのがあります。
身・受・心・法を観ずるのですが、たとえば、身体は不浄であるとします。
また感受するものは全てが苦しみであるとします。

今日でもタイなどでは、身念処の不浄観の修行として、事故、病気、解剖、腐敗などでいろいろと大変なことになっている人体の観察、つまり「死体観察」がなされることがあります。


 さて、こういったのは現代の文明の世にあってどうなんでしょうか?

 こういった言い方は分別のない卑怯なものかもしれませんが、
たとえば今日、大人として良識を自覚する人が、心身の発達段階で感受性のとりわけ豊かな時期で教育的配慮が必要な時期を過ごすの若い人たち、児童たちに対して、「執着を離れた心の平安を得るために死体を観察しに行こう」「身体は不浄であって、感受するもの全てが苦しみなんだよ」とか「ルンペンしながら瞑想することが真実の清らかな生き方なんだよ」とかを教えたいと思うでしょうか?


・グノーシス主義の軛

 「霊性」「内なるもの」「精神性」の価値を尊重する多くのスピリチュアルな伝統では、ある程度はグノーシス主義的な傾向は仕方がないのかもしれません。

「崇高な精神性」を理解したり発揮したり説いたりすることにおいて、物質性や世俗が障害となったり、克服されるべきもの超越されるべきものとみなされることは、しばしばあることなのでしょう。

「肉・物質・世俗」の全てを迎合して、精神性と同一の価値があるものとしてしまうと、たとえば、「色・受・想・行・識は、無常であり無我であり皆苦であると観じて、智慧が生じて悟りを得て解脱する」という上座部仏教の修行が全く成立しなくなりそうです。

キリストの説く愛や大乗仏教の菩提心なども成立しなくなりそうです。


・「内なる・大いなるもの」への実践では

 一方で、霊性・精神性の探究で、このグノーシス主義的な傾向をかなりマイルドにしたやり方を探ることはできるのかもしれません。

「内なる・大いなるもの」への衝動が、霊性の探究に関わるだろうと考えています。

この衝動の生物学的な基盤の一つは、生存・安全のための他者とのつながりや共同体への所属・帰属の欲求なのだろうと考えています。

これが脳ミソの発達した人間にあっては、かなり精神的な領域、スピリチュアルな領域にまで作用しているんだろうと考えています。

なので、自己の精神性の殻に閉じこもるんじゃなくて、世俗・社会と上手いことやりながらもなお霊性を探究するという方法も、この衝動自体には含まれるだろうと考えています。


 今までの宗教・スピリチュアルな伝統で散々なされてきたように、精神性を研ぎ澄ますために、「肉・物質・世俗」を強く否定するというやり方は、今後もあって良いもので、有効で、さらに、文明の世に有益なものを提供するといったことすらもできるのかもしれません。

 一方で、今日の文明の世の現実社会に生きる人間にもっと適合するようなやり方も、模索できるならそうすべきと感じています。


関連note:


進化生物学的・唯物論的な説明に不満がある場合

 人間には「内なる・大いなるもの」への衝動があって、この衝動には進化生物学的な基盤があるという主張は、実に、この瞑想する人noteのスピ思想に都合の良い妄想で根拠も何も無いこじつけ論であり、くだらないエセ科学です。


 一方でスピリチュアルにどっぷりとハマっている人にとっては、唯物論と感じられ不満に思うこともあるでしょう。

これについては要は、ものの考え方、解釈の仕方です。

進化生物学的なことを示唆したからといって、物質を超越したものを否定できるわけではないです。


 たとえ人間の本質が物質・物理世界を超越した霊魂だとしても、物理世界で物質的肉体を持って活動しているのなら、物質的な人体の制約があるということです。

つまり超越的なものを信仰したり体験したりできるためには、それを可能とするメカニズムが、人体の神経生理や生物学的な条件の中になければならないというわけです。
そして、そのような神経生理的・生物学的なメカニズムがあるのなら、このメカニズムについて進化生物学的な思索は可能だということです。


 あとは、スピリチュアルな信仰のためにテキトーになんとでも言えばよろしい。
たとえば、、、

「この粗雑な物質的肉体にあってもなお霊性を探究して発揮できるとは、人間はなんと素晴らしい存在なのか!
この大いなる神秘の宿った人体は地球の素材によって生み出されものの内で最高の芸術作品である!」

、、、とかなんとかテキトーに言っていればよろしい。
スピリチュアルなんて言ったもん勝ちなんだから。


関連note:【霊的な存在!?】「意識存在」、憑依系の魔境? ――― アヤワスカ、サイケデリクス、瞑想、ヨガ、エドガー・ケイシー