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【ヨガ】バクティ・ヨーガとクンダリニー・ヨーガ #思索のメモ

気まぐれの思いつきがあるけど、まだ思索がまとまらなかったり言葉でうまく表現することができないもののメモ。今後の思索のための備忘。#思索の備忘・メモ

今回のBGMはヨハン・パッヘルベルの『シャコンヌ ヘ短調』です。演奏はカール・リヒター。


関連note:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性



バクティ・ヨーガとクンダリニー・ヨーガについて

ヨガにはハタ、ジュニャーナ、カルマなどの種類があるとされます。

この内で生命エネルギーの実践であるクンダリニー・ヨーガバクティ・ヨーガ(神への親愛・信仰のヨガ)は非常に相性が良いという見解があります。
多くの人にとってはクンダリニー・ヨーガで成果を上げるためにはバクティ・ヨーガが必要だという見解があります。

このような見解は実際の生命エネルギーの実践者によって主張されています。

もちろんバクティ・ヨーガは神など超越的な存在への信仰が必要です。

関連note:【ヨガの分類②】クンダリーニ系ハタ・ヨーガ。瞑想やムドラーを重視する密教のヨーガ


これについて今後の思索のための備忘録

・この瞑想する人noteにおける信仰、菩提心、バクティというのは、霊性への信仰・意志のこととしている。
必ずしも超越的な存在を示すものでもない。しかし超越的なものへの信仰を否定しているわけでもない。


・密教的な生命エネルギーの実践という場合の、その「生命」というのは、単なる基本的な生命現象というものよりも、とくに意欲意志情動歓喜といった要素が強調されると捉えられるべきなのではないだろうか。

・歓喜は粗雑なものの場合には性的な歓喜・快楽がとくに代表的なもの。他、感覚的な快楽。
 微細精妙なもの、「霊的」なものの場合には、法悦、至福、静寂、平安、霊性・智恵・慈悲そのものの歓喜、内的歓喜、アーナンダ、シャンティ。菩提心、四無量心、慈悲、エゴの無い愛他利他の実践による精神的な歓喜。


・生命エネルギーというのは、人間の意識ー神経生理システムにおけるもの。
意欲、意志、情動、歓喜といったものは、意識と神経生理にまたがるもの。

・歓喜、意志、意欲、情動、精神性、エゴ、精神的・霊的な実践といったものの質や境涯に、ヨガなどで言うチャクラやグランディ(結節)、生命エネルギーが関係する。


・バクティ・ヨーガがクンダリーニなどの生命エネルギーの実践に有効であるとするのは、人体の生命エネルギーには意欲、意志、情動、歓喜といった要素が関係するから。

・バクティ・ヨーガは、神への親愛・信仰によって、意欲、情動、、、に作用する。

・クンダリニー・ヨーガは、たとえば特殊な激しい呼吸法、ヴィム・ホフ・メソッドにあるような呼吸法を利用したようなムドラーなどによって、とくに神経生理への作用を意図したものであるのは明らか。

・バクティ・ヨーガとクンダリニー・ヨーガによって、人間の意識ー神経生理に強力に働きかける。


・バクティによって超越者の恩寵とエネルギーが注がれ、それがクンダリーニなどの生命エネルギーの実践に役立つとする見解がある。
このようなこともあるのかもしれない ――― もし人間とその信仰心を気にかける超越者が存在するのなら。

・しかし基本的にはバクティ・ヨーガが生命エネルギーの実践に有効に作用するのは、そのバクティの実践が各々の内なる霊性に結びついたものである場合。

・人間の内には生物学的にも、神経生理においても、超越への欲求があるのかもしれない。
それに霊性が関係するのかもしれない。
むしろ様々な宗教や信仰や神々のイメージというのは、内なる霊性の反映かもしれない。

・ラーマやクリシュナや象の頭の神や舌を出して生首を持った女神などの超越者の実在を信じることができなくても、自らの内なる霊性に向き合うという実践は、本質においてはバクティ・ヨーガと言えるのかもしれない。

むしろ自らの霊性、智慧・慈悲、愛他利他、菩提心、四無量心にエゴ無く非利己的に向き合い実践するということの方が、「おお!!ラーマ!ラーマ!クリシュナ!クリシュナ!カーリー!ドゥルガー!」などとキールタンを歌って踊ったり、ジャパ・マントラ詠唱やホーマー(護摩)の儀式をしたりすることよりも、バクティ・ヨーガの本質に近いかもしれない。
キールタンは楽しいだろうけど。


・「生命エネルギー・クンダリーニの体験、覚醒、上昇、アムリタ(甘露)、特にヨガなどに言う中央気道の段階の体験」
「生命エネルギーの体験というのは、人間の意識ー神経生理システムによるものである」
「生命エネルギーという場合には、その生命は意欲、意志、情動、、、といった要素が注目されるべきである」
「生命エネルギーの体験とバクティの実践との関係、霊性・智慧・慈悲との関係」
 ―――これらは体系的に論じることが可能なものだろう。