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「感動」消費の先にあるもの

 夏といえば、高校野球。高校野球といえば、甲子園。甲子園といえば青春ドラマ。そんな風になったのはいつからだったのだろう。全国高等学校野球選手権大会は今年で101回目を数えるそうだから、戦時中の中断を加味してもこの100年ほどを通じて日本社会に根付いてきたことになる。

 そんな中、最速163キロの投球記録を誇る佐々木朗希投手が、岩手県大会決勝戦に出場せずに敗退したことを受け、学校側に苦情が殺到したというニュースがあった。

 このニュースを見たとき、正直、私は唖然とした。「何で佐々木を投げさせない」かって?それなりの事情があったから、に尽きると思う。でも、苦言を呈した人たちは、その事情が明らかにされようとされまいときっと同じ事をしただろう。なぜならその人たちは、ただ単に「自分が見たいものが見れなかった」ことに憤慨したり悲しんだりしているだけなのだから。

 苦情の理由として彼らが何を言ったかは知らない。例えば「甲子園に行けるチャンスだったのに、選手たちがかわいそうじゃないか」だとか?「誰か」の代弁者になったつもりなのかもしれない。だけど詰まるところ、勝敗はともかく「最速163キロを投げる選手の勇姿を見たい」、「球児たちが全力で頑張っている姿を見たい」という自分の欲求を押し付けているようにしか私には思えなかった。

 私自身、何かに心動かされたい、という気持ちはある。特に岩手出身者としては、故郷の人の活躍はうれしいし、その活躍に励まされるのは間違いない。けれど、自分が「感動」したいがために、誰かに過剰に期待する。しかも、その「誰か」の代弁者としてそうするのは、違う。

 そうやって無責任に一時的な「感動」消費を続けていく先にあるのは、「誰か」や「何か」を使い捨てるのが当たり前という世界なんじゃないか。そして結局は自分も使い捨てられることになる。そういう風に思う。

 いずれにしても大船渡高校はじめ、すべての球児・関係者のみなさんには拍手を送りたい。

 

ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。