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しなっていこうぜ

早いもんで娘はもうすぐ3か月になろうとしている。
京都はとっくに梅雨入りしたし、紫陽花は最盛期を過ぎた。

誕生日に食べた大好きなブションの
クレームカラメルとおめかしした娘

6月は誕生月だ。29歳になった。20代最後の歳である。
25歳くらいから年齢が止まってるような感覚だし、パッと自分の年齢が思い出せなくなってきた。もともと”誕生日お祝いアレルギー”の私だが、年を取るたびに自分の誕生日に関して余計に無頓着になる。誕生日を祝われるのがとにかく歯がゆい。嬉しいはずなのに、嬉しさを表すのがこっぱずかしい。小生のために祝いの辞を述べていただき誠に恐縮…という気持ちになる。

6月5日、私たち夫婦は毎年そろって歳をとる。出会った日に誕生日が同じことを知り、柄にもなく”ウンメイ”という4文字が頭をよぎった。私の祖父母も誕生日が同じである。祖父は誕生日に外食をすると必ず店主に”私ら今日ふたりとも誕生日どすねん”と強調するのだ。おめでとうの強要だし、店主が何かサービスしないととワタワタしはじめるので居心地がわるいのだけど、毎年嬉しそうな祖父を見ると止められないのだった。いずれ私たちもそうなるのかもしれない。

誕生日にはいつもより少しだけ上等な外食に行く。一緒に暮らし始めてから過ごす平日の誕生日は、早めに仕事を切り上げて私がステーキを焼き夫がケーキを買ってくる。プレゼントのやり取りは1度目の誕生日以来、廃止している。初めて過ごす誕生日は忘れられない素敵な日になるはずだった。

ヘンコと誕生日

当時、名古屋と東京で中距離恋愛をしていた。新社会人の彼が会社に背負っていくバックパックが欲しい、できれば帰りにフットサル行けるように靴や着替えが入るようなもの、と言うので散々栄を練り歩き、これと思われるものを買った。好きな男のために大きな紙袋を抱え朝の通勤ラッシュをくぐり抜け、早めに仕事を切り上げて新幹線にとびのる。彼は赤坂の東京タワーが見える素敵なホテルをとってくれていた。時計の針が12時を指す。窓辺で寄り添ってルームサービスのシャンパンを傾ける。社会人になって初めての、かなりエッチなシチュエーションである。誕生日プレゼント開封する瞬間、きっと喜んでくれるに違いないと確信していた。(ちなみにアークテリクスのグランヴィル20というモデルのバックパック。)

包みを開けて、ハッとした。値札が付いたままだ。値段に黒塗りはされているがこれはよくないと思い、彼の目の前で引きちぎった。それからリュックを背負った彼はホテルの鏡越しに首を傾げならがらこう言った。

”これ俺似合ってる?なんでタグ切ったの、メルカリで売ろうと思ったのに”

その瞬間、エッチな東京タワーの見えるホテルオークラは無価値だった。こんな風に台無しにされてはホテルオークラも本意ではないだろう。私はメルカリ以降の記憶がなく、気づいたらオークラ名物世界一の朝ごはんを食べていた。忘れられない誕生日になったのは間違いないが、この話をすると”なんでそんな人と付き合ってるの?”と十中八九言われたのだけど、どうやら私の夫は飛びぬけてデリカシーがないらしい。デリカシーのない男にデリカシーがなんたるかを説くのは難儀だ。だから私はそれ以降やりきれない思いをするたびに、夫を”ヘンコ(関西弁で変な人)だ”と思うようにしている。

不可抗力にどう立ち向かうか

1年前の梅雨が明け夏が本番に差し掛かるころ、夫に海外駐在の打診があった。そこから妊娠がわかるまでそれほどかからなかった。黒い背景にぼんやりと浮かぶ白いもや。それだけではにわかに信じがたいが、来年の誕生日には3人家族になるとあの時はぼんやり思っていた。その誕生日をこんな形でまたぐとは。今や例のウイルスにより3人で暮らす見通しは立たず、私たちは分断されたまま少しでも状況が良くなること祈ることしかできない。毎日世界の感染者と死亡者のデータを見る。日本はまだしも、イギリスは毎日数千人の感染者と、数百人の死亡者を確認している。画面で見ればただの棒グラフだが、そこには数千数百規模の分断された家族の悲しみがあるに違いない。私たち家族の絶望は彼らに比べたらとるに足らないのかもしれない。

お腹がどんどん大きくなって、妊娠5か月を迎えた11月には夫はイギリスに立ち、東京でひとり妊婦生活。仕事を離れる準備に、出産の準備、引っ越し、渡英準備。あらゆる準備が身重な体ののしかかる。住み慣れた東京の街を離れ京都に帰り、やっとの思いで出産をやり遂げ、初夏の渡英を心待ちにするだけのはずだった。

世間が自粛ムードのGWのなか突発性難聴になった。右耳がプールに潜ったようにボーッとする。娘の泣き声もいつもと違ってキ―ンと高音が強調される。ブスだが体だけは強くてありがたいと豪語してきた私が、突発性難聴。

決して強がりではないのだが子育てが辛いと思ったことはない。ただ、例のウィルスのせいでずっと張りつめていた。娘を夫に合わせるまでは、死なせるわけにはいかない。小さい命の責任がのしかかり、もともと神経質でもない私をこれでもかというくらい潔癖にさせた。

介護職で多数の人とかかわる母に消毒と手洗いを徹底させた。帰ってきてすぐ風呂に入るように促し、外出着のまま赤ちゃんに触らないで欲しいと注意した。自分のコンビニや近所のスーパーに15分の外出でも、フードをかぶりマスクをして、帰ってきてすぐ着たものを洗濯かごに放り込みシャワーを浴びる。家の中のあらゆる取っ手やスマホを毎日アルコールで拭く。やむを得ず娘と外出するときは、晴天の日もベビーカーに雨除けのビニールカバーをかけ飛沫対策をする。そんなヒリヒリするような日々が難聴の原因に思えた。

だがウィルスの脅威は誰のせいでもないが、ウィルスは、人生は予定調和じゃないことを教えてくれた。不可抗力を前に自分の無力さを悲観するより、未来を見越して今どう立ち回るかを虎視眈々と見据えたいと思う。予定通りにいかなかったことを、新しい選択肢が増えたのだと前向きにとらえることが不可抗力への一番の対処法だろう。それに突発性難聴になったことで、これからは我慢強さゆえに家族に迷惑をかけることもあるかもしれないと、不安を口にすることの大事さに気づいた。夫くらいにはカッコつけずに不安だといえばよかったんだ。

夫とはこの禍中で半年以上会ってないが、焦らずともいずれ娘には会えるだろうし、いやというほど一緒に暮らさないといけない日が必ず来る。そうやって心強くなれたのは、いくら離れてても夫婦 という肩書きがあるからだ。夫婦になってから2度目の誕生日。母になってからは初めての誕生日。誕生日を誰かに祝われる嬉しさよりも、娘が生まれたことの”とっておき”が上回る。出産を英語で”give birth”という。今年は”与えられた側”から”与える側”へ。与えられたことへ感謝し、与えたことへの使命をまっとうしよう。

ゆらぐ世の中で揺さぶられずに、不安の時代もしなるように生きたい。
私の20代最後の抱負だ。

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