004_「言語で思考し続ける力」と「他者への想像力」
論理構造把握力を得る訓練とは
前稿までの主題としていた「言語で思考し続ける力」については、その定義と意義について述べてきましたが、では、この力を培うためにどのような方法が最も妥当であるのか。その方法論に入ります。
とは言うものの「言語で思考し続ける力」を培う方法として私が考えているものは、特に斬新なものではなく、本当に真正面からシンプルに「言語で思考し続ける力」の土台である「論理構造把握力」を得るために、論理構造を備える文章を読む「論理構造の読解」と、論理構造を備える文章を書く「論文の執筆」を地道に実践するというものです。
このような、論理構造把握力を得る訓練に近似するものとして、当然に思い浮かぶのは、入試(小学校〜大学入試)のための受験訓練です。そして、今の日本における一定割合以上の人々は、この受験訓練を程度の差はあれ受けているため、論理構造把握力を受験訓練により培うことができている、とも考えられそうです。
受験訓練と論理構造把握力の関係
しかし、入試という領域において、受験者の論理構造把握力を的確に測定する良質な問題を出題している学校は、ほんの一部です。そしてまた、そのような良質な問題であっても、予備校や塾で伝授されるテクニックを適用すれば、論理構造把握力などに依らずとも解答は可能であり、この事情は、それ以外の学校ではなおのこと然りです。
したがって、入試のための受験訓練を受けた一定割合以上の人々は、その道程で基本的な論理構造把握力を培ってきた可能性はあるものの、確たる論理構造把握力を培っているとまでは言い切れないと思われます。つまり、受験訓練を受けることは、基本的な論理構造把握力を備えるための必要条件と言える可能性はあるものの、確たる論理構造把握力を備えるための十分条件と言い切ることはできない、ということです。
もっとも、このような図式は、先天的に高度な言語情報処理力を賦与されており(いるんです、これが)、あるいは、後天的に学校教育外での自覚的・無自覚的な鍛錬を通じて高度な言語情報処理力を培っており(いるんです、これも)、その力を駆使して論理構造を的確に把握し、着実に問題の解決策を導出しうる域にいる人達には当てはまらない、一般的な図式であることを申し添えておきます。
全ての人に論理構造把握力を培う場を開く
以上のような事情から、論理構造把握力を培う訓練としての「論理構造文の読解」と「論文の執筆」を、入試のための受験訓練とは独立させて行う意義があると思われます。私は、このような論理構造把握力を培う訓練を行う場を、できる限り多くの人々に提供できればと願います。受験訓練を経てきた人でも、諸般の事情で受験訓練を経ることなく社会に出た人でも、誰もが、いつからでも、この社会に生起する事象の構造を、自身の言語で思考し続ける力を培う場を提供したい。
そのためのプランは依然構想中ですが(早くしなさい)、まずここでは、論理構造把握力を培う訓練としての「論理構造文の読解」と「論文の執筆」のアウトラインを、簡略に示します。
◉論理構造文の読解
ここにいう「論理構造文」を定義すれば「執筆者が、自身の主張と、その主張を支える根拠・理由により成立する『論証』の構造を組み込んでいる文」となり、この文の読解は、文に組み込まれている「論証」を抽出し、その文全体がどのような論理構造を有しているかを分析する、という訓練です。
この訓練に使用する文は「論証」を抽出し得るものであれば、評論文、学術論文(専門知識を持たずに読解し得るもの)、小説(文学作品も、実は良質なものは論理構造を備えている)を問わず、ということになります。この訓練を重ねることにより「言語で思考し続ける力」を支える論理構造把握力の強度は、相応に向上するものと思われます。
◉論文の執筆
いわゆる「論文」というものを定義すれば、それは先の「論理構造文」の定義である「執筆者が、自身の主張と、その主張を支える根拠・理由により成立する『論証』の構造を組み込んでいる文」となるため、「論文」と「論理構造文」は同義ということになります。したがって、論文を執筆する訓練とは「論証構造文」を書く訓練になります。
なぜ、数学という方法を用いないのか
ところで「言語で思考し続ける力」の涵養を目的とするのであれば、なぜ、それに最も適した学問である「数学」を用いないのか、というご意見も聞こえてきそうです。確かに数学は、畢竟、言語を駆使して思考し続ける学問の最たるものであるため、その訓練を積むことで「言語で思考し続ける力」は直截的かつ確実に向上すると思われます。
ただし、数学を通じて「言語で思考し続ける力」を向上させるためには、自然言語(つまり日常言語)で思考し続ける基本的な力を備えていることが望ましく、その力を備えていない人にとっては、数学は「言語で思考し続ける力」を向上させるための有効な媒体たり得ないと思われます。
しかし私は、実は本当にそのような人——諸般の事情により言語系の訓練を行う機会がなかった人——にこそ、「言語で思考し続ける力」を向上させるための稽古を積んで欲しいと望みます。その稽古を積むことによる「言語で思考し続ける力」の向上が、その人の善い生の実現に僅かながらでも寄与すること、ひいては、そのような営為が、善い社会の実現に僅かながらでも繋がることを望みます。
このような理由から、数学という純粋な抽象世界の論理言語による論理操作の訓練よりも、この現実世界についてのあらゆる考察が凝縮されている「文」を織りなす自然言語による論理操作の訓練を行いたい、このように考えています。
他者への想像力、そして慈悲
——ほぉ。では聞くが、君の志向するより善い社会とはどのようなものだ。
——道元さん、先程から何やら良い香りが揺蕩っておりましたが、わざわざお越しいただきまして。それでは、僭越ながら、申し上げます。私がいうところの善い社会とは、自身の内面において、万象を能う限り言語で思考し続け、全ての事象を偏りなく観察し抜き、その業を通じて他者への想像力を獲得する人が増え続けていく社会、でしょうか。
——諸法の実相を言語で探究し続け、縁起を見切り、他者へのピュアな想像力を獲得するということか。青臭いし、洒落臭い。君はホントにいい歳(50歳)こいてまだそれか(哄笑)。それならば、まずは君自身が、そのような言語能力を鍛えるという手法で、卑小な自我を凝視し、曇っている世界認識の迷妄から自由になり、他者への想像力が慈悲にまで高まっている人格を形成できるか、まあ一つやってみたまえよ。
——そうですね。社会云々というところまで大風呂敷を広げるのであれば、まずは己の人格から錬磨しなければ、ですね。それにしても菩薩の境地にまで至らねば、ですか。……前途遼遠です。
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