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002_「言語で思考し続ける力」とは


言葉と言葉の連関

自らの携わる仕事においては、どのような仕事においても「言語で思考し続ける力」を養い育てる要素を提供すること。これを年来の自身のミッションとしてきましたが、「思考は言語で構成されるものであり、言語で思考し続けることはあまりに普通すぎて、そのような力を特に養い育てる必要はないんじゃないか」という声が聞こえてきそうです。しかしながら、ここで言うところの「言語で思考し続ける力」をより詳しく述べると……

いかなる状況にあっても思考し続け、自己と他者にとっての最善の途を選択し得るよう、言語を自在に駆使する力

というものです。そして、このような力を、私たちの一人ひとりが実際に習得し、発揮するためには、その根底を支える様々な基礎力を鍛える必要があります。これらの「言語で思考し続ける力」の根底を支える基礎力の類型については、後々述べていきますが、まずは初めに、このような基礎力の中でも、最も大切なものである「言葉と言葉の連関を理解する力」(これはアスリートにとっての柔軟性を備えた筋力に相当する)について、簡単な具体例を通して説明したいと思います。

「AならばB」から「AでなければBではない」は導けない

例えば、「甲という疾病(甲)に罹患していれば、高熱が出る」という文について、「それでは『甲に罹患していなければ、高熱は出ない』ということだな」と考えてしまうときには、「言葉と言葉の連関」を理解することができていない、ということになります。どういうことでしょうか?

まず、「甲に罹患していれば、高熱が出る」という文は、「甲に罹患している場合」には「必ず高熱が出る」ということを述べているにすぎず、「甲に罹患していない場合」にどのようになるかということについては何も述べていません。したがって、「甲に罹患していない場合」には「高熱は出ない」と断定することはできないことになります。高熱は出るかも知れないし、出ないかも知れない。いずれになるかを確定するための情報がないのです。
また、そもそも自然に考えても、甲に罹患していなくても、他の疾患で高熱が出る場合は山ほどありますから、やはり「甲に罹患していなければ、高熱は出ない」と断定することはできません。

まとめると、「甲に罹患すること」(A)と「高熱が出ること」(B)との間には、「Aが生じれば、必ずBが生じる」という連関は認められるが、この判断から「Aが生じなければ、Bが生じることはない」という連関を導くことはできない、ということになります。そして、このように理解する力が「言葉と言葉の連関を理解する力」なのです(因みに「Aが生じれば『そのときに限り』必ずBが生じる」という連関が認められる場合には、この判断から「Aが生じなければ、Bが生じることはない」という連関を導くことができます)。

「言語で思考し続ける力」は「論理を理解する力」が支えている

さて、ロジカルシンキング、クリティカルシンキング、論理的思考力等のテーマを掲げる書籍やセミナー等において頻繁に、そして安易に用いられている「論理」という語は、そのほとんどが同義反復に過ぎなかったり、指示対象が茫漠とし過ぎていたり(「正しく考える力」「合理的に考える力」「理詰めで考える力」「筋道を通して考える力」「所与の条件から最適解を導出する力」「創発を支える力」等々)、なかなかその意味内容を明確に把握できないきらいがあります。

この語は、明治時代に輸入した西欧文明語の漢文的翻訳(当時の漢文に精通している人々による西欧科学文明を支える抽象概念の翻訳は、感嘆すべきレベルでした)の一環として、ギリシア文明興隆期にアリストテレスが創始した西欧論理学の術語として訳出されたものです。そして、その意味は、先のような「Aが生じれば、必ずBが生じる」や「Aが生じなければ、Bが生じることはない」といった事柄を考える場面に現れたような「事象間の関係を考察する際の言葉と言葉の連関」というものです。

そうであれば、先に述べた「言葉と言葉の連関」こそが、本来的な意味での「論理」ということになるため、「言葉と言葉の連関を理解する力」は「論理を理解する力」と同義ということになり、この力こそが「言語で思考し続ける力」を根底で支える最も大切な基礎力、ということになるのです。

では、そもそもの問いとして、以上のような「言語で思考し続ける力」を養い育てることは何故大切であるのか。その意義については、稿を改めて述べてみようと思います。



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